20 娘婿からのお願い


 子牙くんが姫昌様のもとで軍師となり、人々から太公望と呼ばれるようになって3年が過ぎた。

 碧霞とていも子牙くんと一緒に、周の都・岐山に引っ越しをしていった。軍師の家族としてお屋敷住まいもできたはずだが、子牙くんも碧霞もそれを拒否して、建物こそ今までより広いものの、生活自体は家族だけのこじんまりした暮らしぶりをしているという。


 それはともあれ、俺と春香は変わらずにヤオトンの家で暮らしを続けている。さすがに碧霞たちのことが気にはなるので、たまに隴中ろうちゅうにある宋異人さんのところの支店に顔を出して、周の状況などを教えてもらっていた。……こういう時、新聞とか電話があると便利なんだが、この時代にはまだ無い。


 春が過ぎ、これから暑い夏を迎えようとしている。日中の陽射ひざしはすでに強くなっていた。

 俺は今、春香と山の上の高原台地にキャンプに来ている。

 もともと住んでいる所自体が自然の中といえるけれど、テントで泊まるのとは違う。たまにこうしてレジャー気分でキャンプをするのも楽しいと思う。


 三角テントの前にテーブルとイスを並べている。テーブルの上には角型七輪。まあ、この七輪の形は現代知識の産物であることは否定しない。

 既に七輪の上には、串を刺したトウモロコシが載せられていて、タレの焼ける香ばしい匂いが漂っていた。

 バーベキューの食材は、川魚や羊肉くらいでそれほど種類が多いわけではない。テーブルの上にはキュウリの梅干し和えと、ゆでそら豆を入れた小鉢が並んでいる。


 イスに座って周りを見れば、緑の美しい枝の下に、木漏れ日が下生えの草を優しく照らしている。木々の間からは、今にも鹿やうさぎがやってきそうな気配がした。

 どこからか鳥の鳴き声が聞こえ、時折、すうっと爽やかな風が吹き込んできて、枝葉をさわさわと揺らしている。その隙間からは空の青がチラチラと覗いて見えた。まさに高原の初夏という風情そのものだ。


 春香が、サクランボをつまんでひょいっと口に入れた。

「おっ、肉厚で思ったより甘い」

 そういうと、どうやら気に入ったようで、ひょいっひょいっと口に入れていく。偶然見つけたサクランボの木なので、そんなに美味しいのなら場所を覚えておこう。

 こういう仕草を見ていると、不思議と年を重ねるごとにチャーミングになってると思う。見ていてほほ笑ましい。


 トウモロコシをくるりと回して、ふたたび刷毛でタレを塗る。今のところは満遍なく焼けているが、ちょっと油断すると焦げてしまうから注意が必要だ。

 コップに入れた冷やした柚子ハチミツティーを飲むと、柚子の香りがハチミツの甘さとともに口の中に広がっていく。

 昨冬に採った柚子の皮を乾燥させておき、それをハーブティーのようにつけ込んでハチミツを溶かし込んだものだ。冬場は温めて美味しく、夏場は冷やして美味しい。一年中楽しめる飲み物だ。


「そろそろいいかな」

 焼きもろこしをお皿に置いて網を新しくする。そんなにガツガツ食べるわけではないので、ここから先は食べたいときに食べたいものを載せて焼くというスタイルになる。

 さっそく春香が串を持って、

「このタレの焦げる匂いって、なんでこんなに美味しそうなんだろうね」

と妙に哲学的なことをのたもうた。

 微笑みながら、

「それはさ。魂の文化ソウルフーズだからじゃないかな」

と曖昧なことをいうと、「なるほど」と納得して焼きもろこしにかぶりついた。深いのか何なのかわからない。


「おいしい!」

 ニコッと笑うその口元がタレで汚れているけれど、うれしそうな笑顔を見るとこっちの頬も緩んでくる。

 俺も自分の焼きもろこしにかぶりつく。焦げの苦みとタレの甘み、そして、トウモロコシの甘みが口の中に広がる。……うまい。

「あ、ほら。汚れているよ」

 春香がさっと布巾で俺の口元を拭うので、お返しに俺も手もとの布巾で春香の口元を拭ってやった。


 汚れた網を取り替えて、今度は魚を載せる。川魚は淡泊だけれど、塩とハーブにつけ込んでいるので味には期待できる。


 春香が後ろに伸びをして、そのまま空を見上げながら、

「あ~、ていちゃんは今ごろ何してるかな」

とつぶやいた。


 丁か。9歳になった丁だが、子牙くんが忙しすぎるため、今は碧霞から読み書きを教わっているとか。きっと母親の時と同じく、来年から乗馬の訓練とかも始まるだろう。

 子牙くんは将来、斉の国に封じられるはずだが、丁はその二代目の王となる。しかし今はまだまだ子供だ。色んな経験をして、たくさんの思い出を作って欲しい。きっとそれが将来の役にも立つことだろう。


 さて周のここ3年間の動向だが、あれからまだ商と戦争状態に入ったとは聞かない。きっと今はまだ国力を上げているところなのではないだろうか。

 黄飛虎殿を無事に子牙くんと引き合わせた俺たちだが、こないだ隴中で聞いた最新情報だと、商の賢臣の比干という人が、帝辛から胸を切り裂かれて死んだということだ。

 他にも帝辛は祭祀王としての仕事である甲骨も禄におこなっていないという。結果的に生けにえは無くなったのだろうが、その分、帝辛と妲己の機嫌を損ねた人々が苦しめられたり殺されたりしているという。


 テーブルに頬杖をついた春香が、

「それでさ。いつまでここにいる?」


 いつまで、か。


 少なくとも戦争が終わり周の時代に入るまではここで暮らすことになるとは思うが、いつかは碧霞の前から去らなければいけない。もちろん、死とは別の形で。


「まだ考えていないなぁ……。その時はこっちの家も封印しないといけないか」


 俺たち以外の人に中に入られても困る。ギリシャのナクソス島にある入り江の別荘と同じように封印処理をしておくべきだろう。


「でもさ。碧霞は利用できるようにしておかないとさ」

「そうだな。お墓もあるしな」

「鍵がないと開かないようにする?」

「それが関の山かな……。ただ、いつになるかはわからないぞ」

「そだね。……よーし。それまで丁とたくさん遊ぶぞ!」


 別れの時か。

 人間としての碧霞の時間と、神である俺たちの時間は違う。いつかは訪れるその時のことを、そろそろ考えておくべきなのかもしれない。


「ちょっと! 焦げてる!」

 春香の声に我に返り、七輪を見ると魚から黒い煙が……。

「うお!」

 あわててひっくり返そうとするが、網にひっついてなかなか取れない。


「もう。ちょっと貸して!」

 なすすべもなく春香に菜箸さいばしを取られてしまった。

「よっと。ギリギリOKってところかな」

 うまくひっくり返せた魚だったが、皮は黒く焦げて禿げてしまい、網にくっついて取れない身もあってちょっとボロボロになってしまった。


 失敗した。

 考え事をしていると周りの状況を忘れてしまう癖はなおさないといけない。



「……はい。夏樹。あーん」


 突然、春香がそういって、皮をむいたソラマメを差し出している。

「え?」

「いいから、あーん」

「……あーん」

 ほろほろと口の中で崩れていくソラマメ。すると、春香が今度は口を開けた。

「あーん」

 あわてて豆の皮をむいて、開いた口に向かって差し出した。

「ぱくっ」と言いながら、俺の指までしゃぶる春香。「もぐもぐ」と声に出しながら、指を甘噛みしている。


 苦笑しながら指を抜くと、にこっと笑って、

「気にしない。気にしない。それにさ。限りのある時間だからこそ尚のこと、今の時代を楽しもうよ。ね?」

と言った。


 なぐさめてくれているのか? 焦がしたくらいでそこまで落ち込んでるわけじゃないけど……。こういうやり取りは好きだから、口には出さない。

 それにさ。確かに春香の言うとおりだ。人にとって時間は無限ではない。親はいずれ子より先にいなくなるものだ。その時がいつかと、ああだこうだと思い悩むより、今ある一日一日を大切にしていく方がいいだろう。


 バーベキューを終えると、簡単に片付けを行ってから馬に2人乗りでまたがった。この先に小高い丘があって、そこから夕焼けと星空を見ようというわけだ。

 春香を前に乗せて、後ろから腕を前に回して手綱を握る。馬が揺れる度に、腕のなかの春香の髪が俺の鼻先をくすぐった。


 ゆっくりと林の間を進んでいき、やがて目的の丘に出る。林が終わり、ここからは眼下に広がる木々の上に、蒼穹そうきゅうが広がっているのがよく見える。遥かな地平線一杯に山々が連なっている。どこまでも続く山々。前人未踏の自然が俺たちの前に広がっていた。


 馬を下りて、近くの木の根元に2人並んで座る。幹に背中をもたれかけて、目の前に広がる世界を静かに眺める。


 時刻は夕刻。空はオレンジ色に染まっていき、木々の向こうの山々のさらに向こうに太陽がゆっくりと沈んでいく。

 斜めになった茜色の光に、山や木々の影が長くのびている。

「きれいねぇ」

「ああ。この雄大な光景はなんだか感動するな」


 ふと春香の横顔を見る。見た目はとうとう五〇才になり、まっすぐに夕日を見つめるその目尻には小さなしわが見えるが、その横顔には不思議な美しさをたたえている。夕焼けの光に染まった世界の中で、俺の視線に気がついた春香がこちらを向いた。


 俺を見つめる瞳の中に、同じように夕日に照らされた俺の姿が映り込んでいる。魅入られたようにぼうっとしていると、ニッコリと笑って、

「どうしたの?」

という春香に、妙に照れくさくなって「なんでもない」と首を横に振り、はるかかなたの夕日の方に向きなおった。


 どこかドラマチックな光と影の光景。世界の隅々まで照らしていたその光が、少しずつ山の端に消えていくのを見守る。

 見上げれば、空の高いところではすでに群青色に変わりかけていて、一つの明星が瞬いていた。ぽっかりと青白く浮かんでいた満月が、少しずつ輝きを増していく。


 やがて残照もすっと消えて夜のとばりがおり、満月の光が世界を照らしはじめた。


 影絵のような幻想的な世界。静寂と時が止まったような不思議な光景。


 突然、春香が「よっと」と言いながら立ち上がる。

 俺の目の前に進み出て、振り返った。月の光に照らされた春香が、「ちょっと久しぶりに……」と照れくさそうに言って、その身から光の粒子を立ち上らせる。まるで魔法が発動したように、またたく間に若い頃の姿に変化していく。

 俺も微笑んで、立ち上がりながら同じく二十歳ごろに姿を戻していった。


 ――かならずや 瑤台ようだい月下において逢わん


 かつて宋異人さんの屋敷で詠んだ漢詩が、頭に浮かんだ。

 月の光に照らされた宮殿で出逢える女神。今、まさに目の前の春香がそうだ。月の光に照らされ、はにかんで俺を見上げている。


 そっと歩み寄って抱きしめると、春香は俺の背中に腕が回し、ぎゅっと抱きしめてくる。そっと目を閉じる春香の唇に、俺も目を閉じながら優しく唇を重ねる。


 愛してる。心からずっと。


 そっと唇を離すと、春香が俺の胸もとに顔を擦りつける。彼女の手がトントントンと俺の背中を叩く。……これも愛してるの仕草サインかな。

 腕の中の春香の頭にキスをおろすと、そっとどこか甘い匂いがした。


「……戻ろうか」


 ささやくような春香の声に、「ああ」と返事をして、俺たちは馬を引きながらテントに戻っていった。

 そそくさとテントに戻り、お互いの愛に、この身に宿る熱にとろけるような夜が過ぎていく――。




 ふと目が覚めると、まだテントの中は薄暗かったけれど、日の出が近いようだった。


 俺の胸に頭を乗せて眠っているが春香が、鳥の鳴き声に目を開けた。

 ゆっくりと身体を起こしたその肩口から鎖骨の曲線が美しく、そして黎明れいめいの薄明かりの中で透きとおるような裸身のままで、俺を見てにっこり微笑んでいる。

「おはよう。夏樹」

「ああ、おはよう」

 俺も身体を起こして、そっと唇の先と先とをついばむような目覚めのキスをする。


「うん。この姿は久しぶりだけど、今朝はいつになく幸せ! って感じ」

「俺もさ」

 すると春香がテヘッと恥ずかしそうに笑った。


 さっと一枚だけ羽織って外をのぞくと、ちょうど東天から太陽が昇り出す頃だった。

 ラフな恰好のままに春香と一緒に外に出る。

 明るくなっていく空に、地平線の向こうから朝日が顔をのぞかせた。その途端に強い光が俺たちをつつむ。夜の終わりを告げる旭光は生命力に満ちていた。


 2人並んで、う~んと伸びをする。

「気持ちの良い朝だ」

「そうだね。きっと良い一日になりそうな気がする」

「……まあ、春香と一緒ならどんな日も良い日だけどね」

「おっと、それは私も同じです」

「ははは」


 とりあえず、朝ご飯の準備だな。

 そう思って振り向いたとき、急に強い風が吹き抜けた。


 春香の服が風にはためいて、「きゃっ」と言いながら服を抑えている。

 何事だろう。

 すぐに風は止んだけれど、いぶかしく思いながら何気なく朝日の方に振り向いた。


 輝く太陽の中から、何かが飛んでくる。

「あれは……」

と思わずつぶやいた。見る見るうちに近づいてくるその影は、一羽の鳥だった。

 もしかして……、嵐鳳らんほうか?


 まっすぐにここに向かって飛んできたのは、やはり碧霞のところにいるはずの嵐鳳だった。

「何かあったのかな?」

 春香が心配そうな表情で見つめている。

 さっとやってきて俺たちの目の前ですっと降り立つ嵐鳳は、そのくちばしに何か細長い包みを加えていた。


「嵐鳳? その口にくわえているのは?」

と言うと、俺の目の前でその包みをおろした。

 するすると布包みがほどけ、中から一本の竹簡が出てきた。

 拾い上げて中を見てみると、それは子牙くんからの手紙だった。


「……む」

 一読して思わず声を漏らすと、春香が「何て?」ときいてくる。

 俺は竹簡を春香に手渡しながら言った。


「どうやら岐山で碧霞と留守番をして欲しいらしい」

「留守番?」

 いぶかしげに聞き返しながら、春香がその竹簡に目を落とした。


――――

師父。

この度、崇侯虎を討伐することとなりました。豊邑は巨大な防壁に囲まれた堅固な街であり、苦戦することが予想されます。


初めての大規模戦争となり、碧霞と丁が心配です。2人のために、岐山のこのお屋敷まで留守番に来ていただけませんでしょうか。


至急の来臨をこいねがいます――。



 短い手紙であるが、いよいよ事態が動き出したことを示している。でもな、子牙くん。「来臨」の語は大げさじゃないかい? 間違いじゃ無いけどさ。それって神に対して使う言葉だろうに。


 嵐鳳を見ると、さあっと飛び上がり頭上を旋回して、もとの東の方へと飛び去っていく。

 その後ろ姿を見送っていると、春香が俺の手を握った。


 そっか。いよいよ戦乱が始まるんだ。

 ――岐山に行こう。

 碧霞のこともそうだが、俺たちは行く末を見届けなくてはならない。


 手のひらから伝わってくる春香のぬくもりを感じながら、改めて気を引き締めた。

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