23 文王の逝去
豊邑攻略。崇侯虎討伐。
その成功を祝う間もなく、姫昌の宮殿は重い空気に包まれていた。それもそのはず、戦いから戻った姫昌が倒れてしまい寝たきりになっているのだ。
寝台に伏せっている姫昌は中空を見つめながら、齢90になる自らの人生を振り返っていた。
父の元で兄弟たちと暮らした幼年期。姫昌は三男であったが、2人の兄はある日、笑って家を出て南方へと行ってしまったのだ。
――俺たちのなかでお前が一番出来が良い。
――ああ、だから父上の跡はお前が継げ。
――太伯兄、虞仲兄。私なんかより兄上達の方が……。
――お前は優しいからなぁ。だが、心配するな。温かい国で楽しく暮らすさ。
――俺と太伯兄は南方に行く。いいか、昌。みんなの事を頼むぞ。
あれから何年後だったか。突然、兄たちの使者が訪れた。なんでも南方で頭角を現し、呉という国を興したという。
驚いたものの、さすがは兄上たちだと思ったものだ。
笑った兄上たちの顔を思い浮かべながら、父の跡を継いでできるかぎり民草に寄り添うように治めてきたつもりであった。
心が痛むのは、帝辛の代になってから起きた様々な出来事だ。
正妃の婦九様が殺され、その親である九侯も
けれど今なら帝辛の意向がわかる。
天下の三侯と呼ばれた自分たちの権力をそぎ落とし、自らの元に権力を集中させようとしたのだろう。やり方はともかくとしてだが、それを事前に見抜けていたら対処のしようもあったろうが。今さら悔やんでも悔やみきれない。
もちろん婦九様が殺された裏には、新たに正妃となった妲己の思惑が大きいことだろう。しかし、あの女人はあの陛下の信が厚い。愚かで欲深い人物と単純に見てはいけないのかもしれない。
そして、孝だ。長男の犠牲のお陰で幽閉が解かれ、周に帰ってくることができた。そして、太公が望んでいたという賢人を見つけ出すこともできた。すべて長男の孝のお陰だ。ただ、それでも息子を先に亡くしてしまったことは、今なお辛い思いがある。
陛下と妲己は諫言を行う臣下を処刑して、自らに権力を集中させ、民草に負担を強いる政策をとっている。欲望にまみれた政策もあるが、一方でそこには隠された意図があるような気もする。
だから迷っていた。果たして天命がいずこにあるのか。
けれど、それも神鳥の訪れによって、我が周が立つべきであると決断することができた。この決断は後悔していない。我が周の執った道は陛下に対する反乱に見えるが、いずれ孫や曾孫、そして続く子孫ら未来の人々が正しく評価してくれるだろう。そう信じている。
商から逃れてきた太公望殿。黄飛虎将軍、そして2王子。元から仕えてくれている
自分の代にこんなに優れた人材が集まるとは、何と幸せなことだろう。
死期が来ていることを感じている。恐らく自分はここまでだ。
きっと遺された皆が必ずや帝辛を討ち、天命を果たしてくれるに違いない。それを確信しているのだから、決して無念はない。
ただ……、残る心配は一つだけ。
次の君主となる
自分が釈放されて帰国してみれば、発は鬼気迫る空気を身にまとっていた。
その一因が自分の幽閉にあることはまちがいないが、長男の孝に心酔していた発にとって陛下と妲己を許すことはできないのだろう。……おそらくは孝を止められなかった自分も。
だからこそ心配だ。復讐の念に囚われて、ただ帝辛を討つことだけを考えているようなのだ。
その妄執で商と戦をしてはいけない。天下のため、天命のための大義をもって戦わねば、たとえ打ち滅ぼしたとしても、我が周が平和になるとは思えないのだ。
しかし、発は私の言うことを聞いてくれるだろうか。せめて、帝辛を
こうして、日に日に衰えていくなかで、ある日、姫昌は息子の発と太公望の2人を枕元に呼んだ。
「どうやら、私はここまでのようだ。発よ。この国を頼む。呂尚を私と思って、その言うことを規範としてよく聞くのだ」
「父上……。わかりました」
「うむ。それならば、今ここで呂尚を
姫昌の指示に太公望は焦ったように、
「へ、陛下、それは――」と言う。
それはそうだ。自分は一介の臣下に過ぎない。年齢も同じくらいだ。そのような礼をされても困るだろう。
しかし、寝台の姫昌はまっすぐに太公望を見つめる。
「呂尚。……私の願いをきいてはくれないか」
静謐を湛えた目で、そう言われては断れない。太公望がうなずくと、その前に発がひざまずいて深々と礼をする。
「太公望殿を父と仰ぎまする。ぜひとも私に教えを授けてください」
「発殿。わかりました。ですが私のことは呂尚とお呼び下さい」
「はい」
いかに父のつもりとはいえ、君主と臣下である。その筋目ははっきりとさせなくてはならない。
姫昌はその様子を見ると、満足げにうなずいた。そして辛そうに上半身を起こすと、真剣なまなざしで太公望を見た。
「太公望殿。国を守り、道を守る。その方途をぜひ教えてくだされ」
太公望はうなずく。
「陛下。人々が
「では国が滅びるときはどのような時ですかな」
こうして尋ねる姫昌には、太公望の答えがわかっていた。しかし、ここは発に学ばせなければならない。そのために、あえて尋ねているのだった。そしてそのことは太公望も承知していた。
「道理が私欲に勝つときは国が栄え、私欲が過ぎれば国が滅びます。怠惰になったり、巨万の富を独占して民草に施さず、親族と疎遠になり民衆の信望を失えば、また国は滅ぶでしょう。大義を失い、復讐に駆られて道を見失えば、やはり国は滅ぶことでしょう」
「今の商のように、ですな。……しかし、それでは国を豊かにするために君主たるものはどのようにすればよいのですか」
「仁徳をもって、かつ怒るべきときには怒り、褒めるときは褒め、罪科の者には必ず罰を与える。天に春夏秋冬の運行があるのと同じように、道というものをきちんと修めることが大切です」
病床の姫昌が咳き込んだ。
あわててそばに駆け寄って、背中を支える発に、
「よいか。発よ。……そなたの気持ちはわかっている。しかし民草を仲間と思い、友と思い、その意見をよく聞き、ともにこの国を豊かにしてくれ」
弱々しくなった父の姿に、発は涙ぐんでいる。
「はい。父上。発は民草を仲間や友と思いまする」
発の言葉を聞いた姫昌は、ようやく肩の荷が下りたとばかりに満足げな笑みを浮かべた。
「うむ。これで思い残すことはない」
姫昌は目を閉じて好々爺とした表情になった。
「……目を閉じれば、人々が笑い合うこの国の未来が見えるようだ」
そう言って再び横になる姫昌の顔には不思議な穏やかさを湛えていた。眠り込んだ姫昌を見て、太公望は一礼する。
――陛下。私を探してくれてありがとうございます。その志は必ずや成就することでしょう。
そう念じた太公望は、発にも一礼すると一人で部屋を退いた。
これからは親子に残された最後の時間だ。ここに残っているわけにはいかない。
廊下で姫昌の子供や孫たちとすれ違いながら、太公望はまるで自らの父と死別するかのような寂しさと、未来を託された使命に気を引き締めるのであった。
そして、その日の夜半。姫昌は子どもたちに見守られながらこの世を去った。その顔は最後まで穏やかだったという。
◇◇◇◇
姫昌様が亡くなった。
その知らせを受けた碧霞は絶句した。
「そんな。姫昌様が……。
俺と春香には姫昌様との接点は、あの金鶏嶺の山中で子牙くんを訪ねてきた時しかなかった。立派な人格者の雰囲気を漂わせていたが、どのような方であったかはよくしらない。
しかし、碧霞の様子を見る限り、やはりあの雰囲気のままに徳の高い施政者だったのだろう。
すぐに子牙くんが着替えをするために、宮殿から急いで戻ってきた。
「時間がなくてすみません。師父。詳しい話はまた後日」
忙しいのはわかっている。これから子牙くんの立場もますます重要な位置になるだろう。
碧霞の手を借りて着替えをすませた子牙くんは、慌ただしく宮殿に戻っていった。
それを見送った後、碧霞が、
「葬儀が終わるまではお戻りにならないみたい。……私も服喪の準備をするわ。パーパには悪いけど、
「わかった。じゃあ、ちょっと外に行ってくるよ」
たしか今日は友達と一緒に市場の方に行くとか言っていたはずだ。
そう思いつつ通りを歩いていると、すでに姫昌様の死去の知らせが伝わっているようで、人々は服喪の準備をしながらも、その死を悼む声が聞こえてきた。
市場の方向に向かって歩いていると、タイミング良く丁と3人の男の子が歩いてくるのを見つけた。
「丁。迎えに来たぞ」
「
「ああ。聞いている。みんなも今日はもうお家に帰った方がいいよ」
そう言うと、うなずいた男の子たちが丁に別れの挨拶をして、それぞれの方向に向かって小走りに走って行った。
俺は丁と並んで歩く。
「姫昌様からお菓子を貰ったことがあるんだ。すごく優しいお爺ちゃんなんだよ」
「へぇ」
「春だったかな。
丁が姫昌様との思い出を話している。
子牙くんを通してのお付き合いだろうと思うけれど、こんなにも小さな子どもに慕われていたのか。
いかに高齢とはいえ、今ここで亡くしてしまうには惜しい。できれば、俺ももっとお話ししてみたかった。
しかし、それはもはや叶わないこと。そして、遺された人はその遺志を継がなくてはならない。部外者の俺たちには姫昌様の遺志はわからないが、きっと次の武王が受け継いでくれるはずだ。
親の次は子が、子の次は孫が。そうして時代は移りかわっていくのだから。
「……丁は将来、何になりたいんだ?」
「え? 僕はお父さんと一緒に、周の宮殿でお仕事をしたい」
「ほう」
「でもさ。お父さんがどんな仕事をしているのか、よくわからないんだよね」
丁が言うのも当然だ。軍師ならば秘密にしなければならないことが多いはずだろう。苦笑を浮かべながら俺はうなずいた。
「丁。お父さんはとても重要な職についているんだよ。もし一緒の仕事をしたいと思うなら、もっと色々なことを勉強しないといけないな」
「うん。そう思って、とりあえずお父さんの真似をして槍の訓練をしようって思ってたんだ。ほらさ、もう来年は10歳になるし」
そう言われた思い出した。そういえば、槍の先生を手配する約束だった。碧霞には言ってあったが、あの後なんとなく有耶無耶になってしまっている。
「あ! すまん。忘れてた。帰ったら早速、お母さんにどうなったか確認しておくよ」
「本当?」
「ああ。……だけど丁。お前はそれ以外の勉強もしないといけないよ。地理とか、歴史とか、算術とか」
すると丁は嫌そうな顔をした。
「うへぇ。そっちのお勉強かぁ」
「なんだ、丁は勉強は苦手か?」
「うん」
「まあ、祖父ちゃんも本当は好きじゃなかったけどね。ただお前のお祖母ちゃんと一緒に勉強してたから、楽しかったな」
春香の親は共働きだったし、家がはす向かいだったこともあり、ほぼ毎日一緒に勉強してたもんだ。
とはいえ、先にタイムリープしていた俺にとって学校の宿題なんぞは苦にはならないけれど、面倒くさいものだった。それでも春香と二人っきりで、彼女に教えながらやっていたわけで……。あの時間はデートみたいなものだったな。
「うわぁ。はじまった。お祖父ちゃんの
思い出し笑いしていると、隣からそんなことを言われて我に返る。
惚気なんて言葉、いったい誰が丁に教え込んだのか。
では丁に少し仕返ししてやろう。
「丁のお嫁さんになるのはどんな女の子なのかなぁ」
と言ってやると、急に赤くなって、
「し、知らないよ。そんな子いるかな?」
なんて言い出した。決して目を合わせようとしていないが、どうやらまだ好きな女の子はいないようだ。
どうやらこういう恋愛の話題は妙に照れくさいようだが、小学校4、5年生くらいの年齢なので、その気持ちがわからないでもない。
ふふふ。丁の初恋も待ち遠しいな。その時は碧霞からの相談も増えそうだ。
「お祖父ちゃん。また何か想像してるでしょ」
「はっはっはっ。まだまだ人生楽しみだなって思ってな」
「ふうん。まあいいけど」
どこか不満げな様子に、そろそろ話を変えようと思う。
「あ、そうだ。前の槍の話だけれど、黄家に弟子入りするのはどうだ? 文官として自分で自分の身を守れる程度になりたいということで……」
「うん。僕はどこがいいかわからないから、お祖父ちゃんに任せるよ」
そうだろうな。
この子の将来を考えると武官よりも文官を目指した方がよい。そういったことも含めて、教え方の上手そうな人を……、黄飛虎殿に相談してもらおう。
自分の中でそう結論づけたところで、ちょうど碧霞の家に到着した。
その前に服喪の期間がある。けれど内々に座学の方は少しずつ俺が教えてやろう。
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