16 |磻渓《はんけい》の釣魚台


 3日後の朝、子牙くんが言葉少なに釣りに出かけた後、俺はすぐに碧霞とていに引っ越しのため、荷物をまとめておくように言い渡した。

 そして春香をともなって、こっそりと子牙くんを追いかける。目的は、今日、これから起きることを、直にこの目で見たかったからだ。 ――――



 林道の途中から茂みに入り、そのまま水辺に出る。


 渭水の支流である磻渓はんけい

 この辺りは緑も深く、大きな岩も多い。渓流釣りだけでなく、森林浴をしながらゆったりと過ごすには快適な場所だろう。……羽虫対策さえすれば、ではあるが。


 鳥が木の上でさえずり、岩を洗う渓流の音が涼しげに聞こえる。

 ちょっと見ただけではどのような魚がいるのかわからないが、さっと走る魚影を見るかぎりではいい釣果が期待できそうだ。


 子牙くんのいつもの釣りポイントはもう少し先のはずだ。確か大きな岩があって――。

 俺は春香と一緒に茂みに隠れて息を潜め、見つからないようにこっそりのぞいてみた。



 子牙くんは、岩の上に一人ぽつんと座って、釣り竿を手にしたままでじっと川面を見ている。俺たちには、まったく気がついていない。

 竿に神経を集中させているように見えて、その実、別の事を考え込んでいるのだろう。


 彼がこれから釣ろうとしているのは、たんなる魚ではない。天下という名の魚だから無理もない。

 春香が、ここまでろくに説明をせずに連れてきたせいもあって、怪訝そうな顔で俺を見ている。そして、そっと俺の肘を引いて子牙くんの竿を指さした。


「ねえ。釣り糸の先が水面の上に浮かんでいるよね? それに気のせいかもだけど、あれって単なるい針のような気がするけど……」


 どうやら春香も気がついたようだ。俺は、シッと唇に人差し指をあて、黙ってうなずく。

「あれでいいんだよ。……ほら、やってきたようだ」


 離れたところの林道を、2人の男性がゆっくりとやってきた。

 正装した姫昌様と、昨日もお伴をしていた文官らしき男性だ。


 姫昌様は、釣り糸を垂らす子牙くんの姿を確認すると、そっとお伴の男性とうなずき合い、まっすぐに子牙くんの方へと歩いて行く。

 途中でお伴の男性に、その場で待つように手で指示をし、姫昌様は一人で子牙くんのそばへと歩みを進めた。


 ふいにさえずっていた鳥たちが鳴きやんだ。川の音も、2人の会話を邪魔をしてはいけないとばかりに、あたりには静寂が広がっていく。


 その時、風がさあっと吹き抜けた。


「――ようやく貴方様に会えました。賢人殿」


 子牙くんは振り向かないままで、

「どなた様でしょうか」

と問いかける。


「西伯侯の姫昌と申すものです。……そのような真っ直ぐな針で、何をお釣りになっておられるのですか」


「私は釣りをしながら思索にふけっているだけですよ」

「ほう。どのような事をお考えになられているのか。少しお聞きしてもよろしいですか」

「ええ。かまいませんよ。……たとえば釣りと世の中の習わしというものは大変よく似ています」


 子牙くんは、竿を少し上げて針がよく見えるようにした。

「エサで魚を捕るのと同様に、給金などのろくで人を得ることができます。大きな魚には大きなエサを、小さな魚には小さなエサを用意するのも同じですね。

 ……かつて私の師は、自然の営みから生きる上での色々なヒントを得られると教えてくれましたよ」


「なるほど。それでは、どのようなヒントが得られますか」


「河の水は地中の深くから湧きだして、長く流れるうちに水量が増え、魚が生まれます。

 また木の根が地中深くに張れば、その木は強く大きく育ち、やがて木の実がなります。水と魚、土と木が互いにむつみ合う。そこに自然の営みというものがあるのです」


 子牙くんは再び、釣り針を水面ギリギリに下げた。

「同じように、君子と臣下がむつみあい、親しみあってこそ国を豊かにし、そこに生きる人々はその恵みを分かち合うことができるのです」


 そこで初めて振り向いて、姫昌様を見つめる。

「もう少しはっきり申し上げてよろしいですか」

「はい」


 子牙くんはうなずくと、ひょいっと釣り竿を脇に置いて、姫昌様に正対して座った。


「魚をエサで釣るように、ふさわしいろくを用意すれば、人を仕えさせることができます。

 たとえば、高位の士大夫の位をエサに賢人を集めれば国を釣り上げることができ、諸侯の地位をエサにすれば天下を釣り上げることができましょう。…………しかし」


 そこで言葉を止め、じっと姫昌様の目を見ている。


「たとえ強い国であるように見えても、烏合うごうの衆はもろいものです。それは、あたかも立派な大木であるように見えても、病に冒されてみきの内部がボロボロになっているようなもの。

 一方、たとえ国は小さくとも、その君主に徳があれば、……その徳は必ず世の隅々すみずみまで照らす光となりましょう」


 姫昌様はじっとその言葉をかみしめているようだ。


 やがて、

「そのような徳を、どのように身につければ、天下を治めることができるのでしょう」


 子牙くんはうなずいた。


「天下とは、君主一人の天下ではありません。天下万民のための天下。その広大な利益を民と分かち合おうとする心がけがあれば、やがて天下をたなごころにすることができるでしょう。

 ……しかし天下の利益を独占すれば、たちまちにその手からこぼれ落ちることになります。

 死地にある人を救い、難儀している人を助け、人々とともに憂い、楽しみをも分かち合う。その仁徳の義があれば、おのずとその道のあるところに人々は付き従っていくものです」


 そこまで話した子牙くんは、深々と頭を下げる。


 姫昌様は、子牙くんの前に座り、その手を採って頭を上げさせた。


「賢人殿。今まで私は道に迷っておりました。……しかし、貴方様のお言葉で、ようやく私も決心がつきました。新しい国を作らんとする我らに、ぜひその教えを説いて下さりませんか」

「……それは大仕事ですね。けれど、命のある限りはお役に立つことにしましょう」

「おお! なんとありがたい。なにとぞ、なにとぞ、お願いいたしまする」



 姫昌様の喜ぶ声が、川面をよぎる風に乗って届いてくる。

 これが文王姫昌と太公望の出逢い、か……。


 伝承では、さらに太公望が乗った馬車を文王に引かせ、その歩んだ歩数で周の盛運を占ったというが。……さすがにそこまではやらないよな?

 姫昌様は、まだ一人の諸侯の身分とはいえ、もはや国王も同然だし……。やらないよね?


 そう思いながら茂みの向こうを見ていると、再び袖が春香に引っ張られた。

「――あれって、本当に子牙くんなの?」


 俺は微笑んで、つかんでいる春香の手に自分の手を添える。


「覚悟を決めた時、男は大きく変わる。今まで蓄積してきた経験や知識が、確かに彼を支えているんだよ。いってみれば……、太公望呂尚がたった今、誕生したんだということかな」

「ふうん。ちょっと驚いたけど。でもさ」

「でも?」

「夏樹って、子牙くんにいろいろ教えていたよね。それってさ。太公望呂尚の誕生の裏には夏樹の教えがありってこと?」

「……あ」


 春香に指摘されて、初めて気がついたその事実。

 それって歴史に影響を与えちゃったということか?


「ふふふ。まあしょうがないね。一緒に天帝釈様に怒られようか」

「あ、ああ。しかし、彼の師匠のような人は現れなかった気がするけど……」


 『封神演義』だと崑崙こんろん山で元始天尊げんしてんそんのもとで修行をしたことになっているが、仙人が出てくる史実なんてあるわけないしな。

 史書でも彼の記述はあまりはっきりしない。というかどこまで信用して良いのか判断が難しいし、実在を示す遺物も発見されたのはずっと時代が下がってから。俺たちがタイムリープする少し前だったはずだ。


 俺が考え込んでいると、春香がぎゅっと身体を寄せてきた。

「うん?」


 どこかうれしそうな表情をしている。

「それにさ……。覚悟を決めたって。夏樹もそうでしょ? 遥か昔に、……私のところにやってくるために」


 たとえ50才の姿ではあっても、この恋する乙女のような瞳はずるい。俺の心を捕まえてはなしてはくれない。年甲斐もなく胸がドキッとしてしまうじゃないか。


 そうさ。その通りさ。

 もっとも俺の場合は、何も霊水アムリタを目の前にした時に覚悟したわけではない。

 それよりもっと前。……春香が残してくれた手紙で、思いを通じ合っていたことを知ってからだ。


 だから、いざ神の霊水を目の前にしたとき、俺は希望に満たされていたんだよ。……これで春香とまた出逢えるってさ。

 上手く言えないけど。

 覚悟を決める? そんな言葉じゃなくて、もっと……。


 と、その時、

お祖父ちゃんワイゴンお祖母ちゃんワイポ―、みっけ! ……2人でかくれんぼ?」

 無邪気なていの大きな声が響きわたった。


 あわてて、シィッと人差し指を口元に寄せるが、何がおかしいのか、丁は笑いながらで走ってきた。

 その向こうには碧霞が微笑んでいる。


 気づかれたか? と、茂みのかげから、子牙くんたちの方を窺うと、案の定、姫昌様一行とともに子牙くんがこっちをじいっと見ていた。


 ……やれやれ、どうやら出て行かないと行けないようだ。雰囲気をぶちこわしてしまってすまん。子牙くん。

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