15 西風を待つ人


 子牙くんと碧霞の家は桃の林の中にあった。

 白とピンクの花が目にまぶしく、まさに桃源郷といった風情を見せてくれる。


 娘夫婦の家に来てから、今日で5日目。

 俺は今、初孫のていと竹とんぼを飛ばして遊んでいた。


「行くぞ。……それっ」


 手をこすり併せて回転させた竹とんぼが、空高く飛び上がっていく。


「うわぁ。お祖父ちゃんワイゴン、すげえ!」


 歓声をあげる丁だったが、すぐに碧霞に、

「こら! 丁! 何ですかその言葉遣いは!」

と怒られた。


 その姿に思わずほくそ笑んでしまう。碧霞がしっかりと母親をしているのが妙におかしくって、ツボにはまりそうだ。

 イスに座っていた春香の方をそっと見ると、彼女も愉快そうに満面の笑みを浮かべていた。そばの嵐鳳は、やれやれ……と言いたげに目をギュッとつぶっている。


「ごめんなさい」と謝る丁の頭を撫でて、

「元気なのはいいことさ。次は丁がやってごらん」

と言い、地面に落ちた竹とんぼを拾って手渡した。

「うん」と返事をした丁であったが、まだ小さい手では充分な力が加えられないようで、思うように飛んではいかない。


「う~」

とぐずりそうな丁に苦笑して、

「毎日練習してごらん。少しずつ高く飛ばせるようになるから」

と言うと、くやしげな表情のまま素直にうなずいていた。


 竹とんぼを飛ばすのも一つの技だ。俺の子供の頃には、こういう何気ない遊びの技を磨くのが楽しかった思い出がある。それをぜひ丁にも体験して欲しい。

 欲をいえばあの頃の春香のように、披露した技を見て「すごい!」と褒めてくれる人がいれば、なお良いんだが。……この山中では同じような年頃の子供はいないだろうな。


 念のため、あとで近くの竹林で竹を切り、糸巻き式の竹とんぼも作っておくか。

 技を習得する楽しみとはいっても、いつまでもできないと竹とんぼが嫌になってしまう。練習をある程度したら、後は純粋に飛ばすことを楽しんでほしい。


 それに、技で足りなければ工夫をする、ということも覚えてくれるだろう。

 たくさん遊んで、たくさん学べ。

 まだ戦乱がはじまる前の、平和なうちに。



 ――ここに滞在してから2日目の夜。

 俺は碧霞から頼まれていたように、夜、子牙くんと酒をかわしながら、何か悩みがあるのかどうか尋ねてみた。

 初めは口ごもっていた子牙くんだったが、酒の力もあり、ようやく打ち明けてくれた。


「師父は天命というものを信じられますか」

「天命?」


 突然、思いもよらぬことを尋ねられ、怪訝な声で問い返してしまった。


「ええ。天命です」


 天上天下を治める天帝の命令。その命令により徳のある王が国土を治めるという考え方だ。人であったころなら天帝は信ぜずとも、それでも運命のようなものはあると思っていた。


 神となった今では、天帝も神の一柱ではないかと思うが……。しかし、子牙くんが聞きたい答えはそういうことではないだろう。


 俺が黙っていると、子牙くんは酒を一口飲んで、

「商はいにしえの黄帝こうてい直系の子孫です。しかし、今の帝辛の所業はあまりにも非道なもの。たとえそれが妲己にたぶらかされたものであっても、とうてい認めがたいものです」


 中国伝説上の王である黄帝か。彼は神である三皇さんこうの次にこの地を治めたという。つまり、商にとっての天命の根拠が、その直系の子孫であるということだろう。


「しかしこの周も、その祖はしゆん王の正妃姜原きようげんの子と伝えられています。……つまり、周もまた、五帝の子孫の血脈です」


 黄帝より二代後の王、舜。彼は農事に業績を挙げ、人々は王の庇護ひごを感じることもないほどゆたかに暮らしたという。


 こう考えてみると、商は黄帝、周は舜王とそれぞれ古い血筋をたもっている。そして、これを子牙くんが持ち出したということは、つまり――。


「天命は商にありとせんや、周にありとせんや、か」

「……はい」


 その問いに正面から答えることは難しい。天命という哲学的命題めいだいに正解などはないだろうから。

 しかし、俺はまた別の視点から答えることができる。すなわち、歴史という視点だ。


 彼は今年で40才。おそらく子牙くんもすでに自分で答えを見つけ出しているのではないだろうか。

 ただ、その背中を押して欲しい。決意。決断するための、最後の切っ掛け。それが欲しいのだろう。


「子牙くん。まどうな。碧霞と丁のことも心配するな。……ただ碧霞にだけは、その決意を打ち明けておきなさい」


「師父……」

 目を見開いた子牙くんに、俺は微笑んだ。



 ――周の姫昌様に仕えたいんだろう?

 その時はもうすぐそばに来ている。時代が、君を求めているんだから。大軍師・太公望呂尚を。


 きっと碧霞も君の決断を応援してくれる。妻子が心配で決断できないなんて、それは杞憂きゆうだよ。


 なぜかって? あの子は俺たちが育てたんだ。俺と春香の、自慢の娘なんだから。



「結婚したからには相手のことを信じることも必要だ。って、過保護な俺がいえることじゃないか。言っただろ。一緒に歩んでいくのが、夫婦なんだよ」


 子牙くんはじっと俺の言葉を聞いていた。その瞳はまっすぐに俺を見ていて、すでに迷いの色は欠片も見えなかった。


 そのせいだろうか。次の日から、子牙くんは一人で近くの渓流・磻渓はんけいに釣りに出かけるようになった。


 俺もここに遊びに来たときは一緒に釣りに出かけていたが、今回はついてはいかない。いや、いってはいけないと言った方がいいだろうか。大切な時が動き出そうとしているのを感じるからだ。


 ふと気がつくと、さっきまでバタバタとしながら遊んでいたていが、急に静かになっていた。

 春香と碧霞も立ち上がって同じ方向を向いている。


 その視線の先を見ると、4人の男性がこちらに向かって歩いてくるところだった。


 木こりらしき男に案内をされているのは、どこか穏やかな雰囲気を身にまとっている年配の男性だった。その後ろには、文官らしき男性と武官らしき鎧の男がいる。おそらくおともをしているのだろう。

 が、どう見ても4人とも、こんな山中にいるような人たちではない。


「夏樹……」

と春香が俺の名を呼ぶ。

 俺は振り向かないままで、

「碧霞。丁を家の中に」「はい。……丁。こっちに来なさい」

 大人しく丁が俺のそばを通って、家に戻っていく。


 そうしている間に、一行は家の庭にまでやってきていた。


 木こりの男が、俺を見ていぶかしげな表情を浮かべる。

「ああっとお客さんかな? おおい! 奥さん。お師さんはいるかい?」


 俺の後ろの碧霞が、

「今は釣りに行ってるわよ。武吉さん。そちらの方は?」

「お師さんにお客さんだよ。岐山きざんのお役人らしいんだ」

「お役人?」


 おいおい。子牙くん。君はこの木こりにお師さんと呼ばれているのかい。

 それよりも、2人とも大丈夫か。……きっとあの3人は西伯侯・姫昌様の一行だと思うぞ。


 俺は黙って抱挙礼ほうきよれいをする。

「私はこの碧霞の父、夏樹と申します。……ここへはどのようなご用件でございましょうか」


 すると、おともの文官らしき人が口を開こうとして、年配の男性に止められていた。


「通りすがりの単なるじじいなれば、そのようにはいをされずともよいですぞ。

 ……ここより東の川沿いを散歩しておりましたら木こりの歌が聞こえて来たのです。ご存じありませんか?」


 姫昌様は身分を隠しながら、自ら聞いたというその歌を歌い出した。


 俺たちゃ、しがない漁師

 耳を洗って亡国の音を聞かず

 ただ昼間は水辺で歌をうたい

 夜は星空の下で釣り糸を垂らすだけ


「聞けば、山の奥に住む一人の釣り人の歌だというわけです。耳を洗ってとは、かの堯王ぎようおうが賢人を求める故事。少しくお話を聞きたいと思いこの山道を進んだところ、今度はこの木こりに会いましてね。

 ……もう一度、歌を聴かせてくれるかな?」


 そう頼まれると、武吉と呼ばれた木こりは、「いいぜ」と言って歌いはじめる。


 きみは賢人を求めて、治世の道を進む

 賢人は詩歌をうたって、名君の来たりしを待つ

 春の川は悠々と流れ、草木は青々と萌えいずる

 五羽の鳳凰ほうおうが鳴かんとする時を待ち、

 我、磻渓はんけいにて金の魚を求め、一介の釣り人とならん


 ……なるほど。

 やはり子牙くんは、自身の覚悟はとうに固めていたのだろう。ただ家族のことがあって、迷いを生じていたわけだ。

 詩を歌いながら一人で釣り糸を垂らす。そんな彼の姿が思い浮かぶ。


 木こりの歌の余韻よいんを味わうように目を閉じていた姫昌様が、そっと目を開いた。


「貴方はその釣り人の外戚がいせきに当たられるのですな。……この歌。ぜひお話をお伺いしたい」


 まっすぐに俺を見つめるこの目。真剣なまなざしが俺の心を打つ。

 しかし。しかしだ。その歌について話すのは俺の役目ではない。


 黙って再び抱挙礼をとる。


「西風が強く吹き来たりて白雲が起こり、

 ふちに眠りし竜が目を覚ます時を告げんとす

 なれど、賢人に会うはやすからず

 ただ身を清め、吉日を待つべきのみ」


 ――貴方が求める賢人と出会うべき時はもうまもなくです。

 けれど、古今ここん、賢人を得るのはたやすいことではありません。

 ただ身を慎み、清め、吉日を選び、また来られて下さい。


 黙って頭を下げる俺。しばらく沈黙がその場を支配した。

 姫昌様は、「そうですか」とつぶやいた。


その時・・・が来るのは、もうすぐなのですな……。ああ! 太公たいこう古公亶父ここうたんぼよ! 我らが待ち望んだ御方と、ようやく会えますぞ」


 その感嘆の声を聞いて頭を上げると、姫昌様の目尻から一筋の涙がこぼれていた。お伴の人でさえも、その様子に言葉をかけられずにいる。

 その涙を見ながら、俺も人知れず心を震わせていた。


 子牙くん。

 ……君を待つ人がいる。三代もの間、待ち続けた人がいるよ。


 ――天命は商にありとせんや、周にありとせんや。


 今ではわかるような気がする。天命は西風に乗って、革命の時を告げるのだと。

 子牙くん。きみがその西風なんだよ。



 やがて3人の来訪者は丁寧な礼をして、再び武吉君の案内を受けて山を下りていく。

 その後ろ姿は、子牙くんに会えなかったことが残念でもありながらも、どこか幸せそうにも見えた。


 彼らを見送りながら、俺は碧霞に話しかける。


「碧霞。子牙くんから話は聞いているな?」

「……うん。パーパ。聞いてる。それに今の人が?」

「そうだ。西伯侯・姫昌様。……子牙くんを探し求めている人だ」

「うん」


 これからの時代が子牙くんを求めている。……だが、お前たちは夫婦だ。

 未来に起きることを教えてやることはできない。けれど、夫の力を引き出すのは妻の力。お前の使命も重いんだよ。


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