29 子牙のもとへ


 気を失った碧霞を丁と玉さんに任せ、俺たちは馬に乗って雨の中を出発した。

 ビシバシと雨に打たれながら、躍動する馬に身を任せる


 幸いに雨風は少しずつ弱まってきているようだ。

 前方の空では風によって雨雲が吹き流され、すでに雲間から太陽が顔をのぞかせている。


 街道を東へ。三門峡へ。


 やがて街道沿いの渭水が、北から延びている黄河に合流し、巨大な河となって東へと延びていく。

 東西に連なる山脈がちょうど黄河を挟むように南北にあって、さながらここは東西に長い一種の回廊のような地形となっていた。



 豊邑を出た時間が遅かったこともあり、その日の夜は、街道脇の林に入り野宿をすることになった。


 さすがに夜になってからの移動はできない。俺たちや夜目も利くけれど、馬はそうではないし、休ませないといけない。焦ってもどうにもならないのだ。


 地面も落ちている枝も濡れてはいたが、どうにか火をおこすことに成功する。今のうちに他の濡れた枝を火のそばで乾かせておく。

 簡単な夕食を終えてから、俺は小さな鍋に水を入れて火に掛けた。中に山羊のミルクに砂糖を入れ、火加減を調節しながらゆっくりとかき混ぜる。もはや定番となったホットミルクだ。


 気持ちは焦りがちだが、こういう時こそ落ち着かないといけない。そのためには温かくて甘い飲み物が一番だろう。


 近くで大きな石に腰掛けている春香が、じっと俺の手元を見ていた。


「……ねえ、夏樹。子牙くんは大丈夫だよね。だって歴史だとこの戦いは周が勝つんでしょ?」

「歴史とはいっても、それは単に結果がわかっているにすぎないんだよ。……だが、子牙くんは大丈夫だろうと思う」

「そう……」


 結果がわかっているだけ。肝心なことはわからないことも多い。

 戦いが終わったとき、たとえ子牙くんが死病に冒されていたとしても、重傷になっていても、五体のいずれかが失われていても、それはわからないんだ。


 温まってきたミルクを火から下ろし、コップに注いで春香に手渡した。


 春香は両手でコップを持ち、ちびちびと口につけている。

「うん。おいし」


 満足そうな春香を見ながら、俺も自分のコップに口をつけた。口の中に優しい甘さが広がっていく。


 さっきはおそらく大丈夫だろうといったが、実は俺も不安だった。

 俺たちが碧霞を育てたように、ふとしたことで歴史が変わる可能性がある。

 因縁の糸がどのように紡がれているのかはわからないが、俺たちとの出逢いが子牙くんに影響している可能性は否定できない。


「あのさ」

「うん?」

「子牙くんの身体。様子を見て、神力でこっそり治しちゃったらダメかな」

「春香……」

「どうせ無事なんだから……、やっぱりダメかな」


 俺の目をじっと見つめる春香。どこか懇願するようなその瞳を見つめ返しながら思う。実は俺もそのつもりだった。

 もちろん娘の婿むこということもある。家族の一人なんだ。

 それに……、叩きつけるような雨の中で、天に向かって叫ぶ碧霞を見てしまっては。どうにかしてやりたいと強く思ったのだ。

 それがいいのか、悪いのかは別だが……。


 なんて答えようか迷っていると、唐突にどこからともなく、

「かまわんじゃろ」

と声がした。


 あわてて周りを見回すと、林の間の暗がりに、いつのまにか一人の老人がたたずんでいる。

「ほっほっほっ。失礼するぞい」

と言いながら、その老人は焚き火のそばに座り込む。


 どこか少し変わった印象。存在としては俺たちと同じような神に近いような雰囲気。


「俺は夏樹、こっちは妻の春香です。……失礼ですが、いったい貴方は?」

と言うと、老人はうなずいて、

「うむ。ワシは崑崙こんろん山に住む元始天尊という。……仙人じゃよ」


 仙人?

 なるほど仙人といえば、道教において神の上位におかれる道の体現者だ。俺たちの持つ神威とは違うが、よく似ている空気をまとっているのもうなずける。

 って、元始天尊っていえばその最高峰の人じゃないか。


「ふむ。山羊の乳を温めたのか。どれ、ワシにも一杯くれんかの」

「あ、はい」

 残ったホットミルクを新しいコップに注いで手渡すと、興味深そうにしながら口にされる。

「ほほぅ。これはうまいの」


 長いひげでよくわからないが、どうやら喜んでいるようだ。


「それはそうと姜子牙の病気じゃが、お主たちが治してしまってよい。どうせなら、そのまま三門峡の戦いを手助けしてやればよい」

「しかし、俺たちは不用意に歴史を変えるようなことを許可されておりません」


 俺がそう言うと、元始天尊様は、

「確かにそのとおり。もっとも今までの分は天帝釈様がうまいことフォローしてくれておるよ」


 えっ、フォロー? ――そうか。

 碧霞を育ててもおとがめがなかったのは、あの方が調整されていたのか。


 初めて知る真実に驚いていると、

「そうはいっても、お主が言うように不用意に歴史を変えてはいかん。ただまあ、今回のは問題なかろう。それこそ歴史が証明しておるわけじゃし」

「ま、まあ、それはそうかもしれませんが」

「細かいことを悩んでおると、禿げるぞ?」


 その途端に春香がプッと吹き出して、「禿げるって」とつぶやいた。


 まさかすでに薄くなってきてるんじゃないだろうな……。

 春香の様子を見ていると心配になる。思わず頭に手をやって確かめるが、大丈夫……だよな?


 春香がますます笑って、

「ふふふ。大丈夫よ。夏樹。薄くもなっていないから」

「いや、春香に言われても心配になるというか……」

「あら。それはどういう意味かな?」


 もちろん春香が俺に嘘をつくなんて思ってはいない。けど、同時に俺にべったりなわけで。


「だって春香は俺が禿げてようが、あまり気にしないだろ?」

「それはそうだけどさ……。う~ん」

 春香が微妙な顔をして唸っている。なんだ。やはり気にするのか?


 元始天尊様が笑い出した。

「ほっほっほっ。お主らは仲が良いの。さすがは2柱で1柱の神といったところじゃ」


 そのまま一枚の小さな板を取り出された。小さな八角形の板の内側に、白と黒の陰陽おんみょうの模様、つまり渦巻き模様が刻まれている。

 不思議な力をその板から感じる。なんだろう。これは?


宝貝ぱおぺえの一種で盤古幡ばんこはんという。これを使えば天地陰陽の気を読み、時の流れを読み解くことができる」

「はあ」


 宝貝……。それはアルテミスの弓のような神具というべきものだろうか。


「お主らはすでに女媧じよか様に会ったのであろう。ならばわかっておるはずじゃ。すでに商の命数めいすうは尽きようとしている。滅びはのがれられぬ」

 そう言うと元始天尊様は宝貝をふところにしまわれた。


 空になったコップを足元に置かれると、

「ご馳走さま。それじゃワシはいくぞい。まだまだそなたらは力不足じゃ。学ぶべきことがたくさんある。……せいぜい、禿げぬ程度に悩むがよい」


 見送らないとと、あわてて立ち上がる俺と春香の目の前に、一本の剣が差し出される。

 いきおいその剣を受け取ると、

「そなたにやろう。無銘の剣じゃが、いずれ役に立とう」


 そう言うとほっほっほっと笑いながら、元始天尊様は林の中を歩いて消えてしまわれた。


 その後ろ姿を見送ってから、手渡された剣を眺める。思わず受け取ってしまった。


 やや短めの直剣のようだが……。ドキドキしながら、おそるおそるさやから抜いてみると、刃は銅のにぶい黄金色、中央部に細かく黒の市松紋様が施されている。


「ふふふ。よかったね」

 微笑む春香に、俺は引きつった笑みを返す。


 だけどな。……剣なんて手渡されても、俺はこの戦に参加するつもりもなければ、人を切るなんてもってのほかだぞ。


 ただ一人の考古学者としては、この剣に非常に興味がある。

 なにしろ無銘とはいえ仙人からもらった剣なのだ。材質や製法など、できれば色々と調べてみたい。実に、面白い。


「見たところ、越王勾践剣えつおうこうせんけんに似ているようだな……。実におもしろい」

「また、学者の顔してる」

 春香が笑った。




◇◇◇◇

 周の陣地に到着したのは、その翌日だった。

 しかし、俺と春香はその入り口で止められてしまっている。


「いったい何者だ?」

と警戒する兵士に子牙くんの外戚だと言ったのだが、なかなか信じてもらえない。


 まあ、冷静になって考えてみれば当然のことなんだが。いかに外戚とはいえ戦地にやってくることはまず無いだろう。


 ……しまったな。


 そこへお供を連れた武将が見回りだろうか、やってきた。その人は俺たちを見て、驚きの声を挙げる。


「む。そなたたちは!」

 やってきたのは黄飛虎将軍だった。

「お久しぶりです」


 将軍は兵士に「丞相殿の外戚だ」と一声掛けてから、近づいてくる。

 いぶかしげな表情で、

「夏樹殿。春香殿まで連れて、どうしてこのようなところへ……。いや、そうか。丞相殿のことか」


 挨拶もそこそこに尋ねてくる将軍に、俺は黙ってうなずいた。

「うむ。それでは一緒に来てくれ」


 黄飛虎将軍は歩きながら、

「実はもう5日になるが、本陣が奇襲されてしまって毒針を受けてしまったのだ」

「その急報を受けて駆けつけたのです。その針は?」

「もちろん取ってある。……今のところ、丞相が倒れたことを敵に悟られてはいないようだが、そなたたちも充分に気をつけて欲しい。ここはもう戦地なのだから」


 将軍も息子を3人も亡くしたのに……。その悲しみをおくびにも出してはいない。


 日本にいたときならば哀悼の意を表するべきかもしれないが、それはかえって失礼に当たるのかもしれない。覚悟の上で戦場に来ていたはずなのだから。

 それよりはむしろ――、


「将軍。ご子息は立派でした。天下の大義のために戦われたのですから」


 俺がそう言うと、将軍は黙ってうなずいた。

「ありがとう。心遣いに感謝する」


 なんでも、三門峡関には5つの出城でじろのようなとりでがあって、息子さん3人は金吒と呼ばれる青年とともにその一つを攻めていたらしい。


 しかしその砦を守る蚯蚓きゅういんという男が思いのほか手強く、3人ともに捕らえられ、見せしめとして砦の上で張りつけにされ、目の前で処刑されてしまったという。


 すぐに周の全軍でその砦を総攻撃して蚯蚓を討ち取り、3人の遺体を取り戻した。けれどもその際に黄天化殿まで戦死してしまったという。


 黄家でたった一人残った黄天爵こうてんしゃく殿に周に連れて帰らせたそうだ。天爵殿は、そのまま一族の血を絶やさぬように、周に留まり以後の戦闘を禁止しているとのこと。


 やがて一つの天幕の入り口で将軍は振り返り、

「ここだ。俺はずっとは付いていられぬが、何かあれば中の者に。そなたたちは薬師と記憶しているが、必要なものがあれば申しつけるがいい。丞相を頼む」

「もちろん。俺たちにとっても可愛い娘の婿殿です。尽力しますよ」

「うむ」


 そう言うと将軍は天幕に入って中の男性に俺たちを紹介すると、すぐに外に出ていった。

 軍議などやらねばならないことが沢山あるのだろう。忙しそうだ。


 去って行く将軍を見送らずに、そのまま寝台の子牙くんのそばに行く。

「いまだに毒の特定はできていません」

 男性の説明を聞きながら、子牙くんの顔をのぞき込んだ。


 顔色が青白い。目も落ちくぼみ、まるで幽鬼のようだ。

 まるで悪夢にさいなまれているように、ときおり痛そうに顔をゆがめてはうめき声をあげている。

 脈を測ろうと手首を取ると、その手は驚くほど冷たかった。血圧が下がっているのだろう。


 ……正直、俺は医者でも薬師でもない。これが何の毒で、どのような症状であるかなどはわからない。

 できることはただ一つ。神力で毒素をなくし彼の身体を癒やす。ただそれだけだ。


 けれども他の人がいては神力を使うことはできない。この男性にはテントの外に出ていってもらわないといけない。


 春香に目配せをすると、彼女はうなずいた。

「すみません。お湯をかして、きれいな布と一緒に持って来て下さい」

 男性は「わかりました。すぐに」と言って外に出ていく。


 それを見届けて、俺は子牙くんの額に手を乗せた。

 その瞬間、子牙くんの口から、

「……碧霞」

とかすかな声が漏れた。


 戻ってこい。子牙くん。


 ゆっくりと手の平から神力を子牙くんの身体に流し込んでいく。病や毒、身体をむしばむあらゆるものを浄化し、活性化させるイメージ。

 何の毒があるのかまではわからない。俺の力はそこまで万能じゃないのだ。それでも青白かった子牙くんの顔色が、次第に赤みを増してくる。それと同時に、苦しげな息づかいが、少しずつ穏やかなものになっていく。


「もう大丈夫だろう」


 小さく息を吐いて、子牙くんの顔を見る。汗をかいてはいるものの、苦痛の色は見えなかった。

 そのまま手を離さずに、かつて春香がギリシャでテセウスにしたように加護の力を子牙くんに与える。俺の中の何かと、子牙くんの中の何かがつながったような感覚がした。


 君には待っている家族がいる。

 碧霞が、丁が、そして玉さんもいる。

 ちゃんと使命を果たして、帰ってくるんだよ。みんな待っているから。



 静かに手を離すと、傍で見守っていた春香が安堵の息を吐いた。これでもう大丈夫だろう。

 俺と春香が見つめる前で、子牙くんがゆっくりと目を開く。

「あぅ――」

 しばらくぼうっと宙を見つめている。まだ意識が混濁しているようだ。

 しかし、その顔がゆっくりと俺たちの方に向けられた。


「し、師父? 春香様? ……幻、か」


 そうつぶやく子牙くんに、俺はかぶりを振って、

「いいや。現実だぞ。子牙くん」

と語りかけるが、その言葉は届いていなかったようだ。

 俺は再び神力を広げて彼を覆った。

「今はまだ眠りなさい。次に目が覚めたとき、ゆっくり説明をしよう」

と言い聞かせながら無理矢理に眠らせる。


 春香が俺の手を握った。

「……もう大丈夫ね」

「ああ」と返事をしながら、俺は春香と一緒に子牙くんの寝顔を見守り続けた。

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