10 夏樹の教え
目の前で渭水の河がゆったりと流れている。
この季節は水量も多く、魚が活発に活動する時期だ。
手にした釣り針にエサをちょこんとつけて、ひょいっと川面に投げ入れる。
手にした竿に当たりがくるのをじぃっと待ちながら、周りの自然にも意識を向ける。
さわさわと林を通り過ぎゆく風の音、足元でちょぽちゃぽと鳴っている水の音を聞いていると、あたかも自分が自然の中に溶け込んでいって一体になっているような気がする。
隣では別の岩に腰掛けている子牙くんが、同じように釣り糸を垂れ、背後の川岸では春香と碧霞が敷物の上で横座りになっておしゃべりをしていた。
「
おもむろに子牙くんが尋ねてくる。
彼はたまにこうして政治や軍事について尋ねてくる。
けれども俺はほとんど素人だ。あまり専門的な話はしてはやれない。できるとすれば、ざっくりとした戦術の話などが関の山で、それもかつて三国志などで読んだ覚えのある雑学レベルのものだ。
政治についてだって、今は紀元前10世紀ごろ。まだまだ神が身近で祭祀が中心の時代だし、とてもじゃないが現代社会のように民主主義などの話はできない。受け入れてももらえないだろう。
「単純に考えれば、生産と流通を高めることだろうなぁ。生産だとすると農業と工業、流通は商業。この3つが互いに連携しながら活性化していくと、きっと新技術も生まれ、国も豊かになるだろうね」
「確かに生産を高めるのは重要ですね」
「そして、流通。人間の血液の流れと一緒さ。
ただね。人々の幸せというものは生活の豊かさだけで計れるものではないよ。心の豊かさというものも大切だ。……そのために文化や芸術、娯楽なども必要だろうね」
「心の豊かさですか? それは始めてうかがいましたが」
「何のために国を豊かにするんだい? その目的を人々の幸せに置くなら、心の豊かさも必要だよ。
たとえば俺たちの暮らしは町や村から離れた山中だ。決して生活が豊かとはいえない。だけど俺も春香も毎日が幸せだと思っている。……おそらくは碧霞も」
「なるほど。ま、まあ、師父と春香様の場合は……、鳥肌カップルですから」
段々と声が小さくなる子牙くんに、思わず聞きかえしてしまった。
「うん? 何か言ったか?」
「あ、いえ。なんでもありません」
あわてて首を振る子牙くん。そんなんだと心の乱れが竿に伝わって釣れないぞ?
竿先からかすかにツンツンと伝わってくる。魚が来ているのだろう。
息を潜めて神経を集中する。
すこし間を置いて、魚が食いついた。――今だっ。
竿を立て逃がさないように魚と駆け引きをする。意外に重たい手応えがするが……。さすがに海魚ほど大きくはないだろう。
川面を釣り糸が走り回る。右に左に急カーブを描き、それに合わせて竿を動かしていく。
やがて少しずつこちらに近づいてきたところで、タイミング良く引き上げると、糸の先で銀色に輝く魚が水をまとわせながら付いてきた。
春香と碧霞がうれしそうにやってくる。早速、針を外して
春香が、「ふふふ。まずは一匹だね。香草焼き? 塩焼き? どっちがいいかな」とつぶやいて鼻歌をうたう。
すると碧霞もうれしそうに、「もうちょっと釣れたら火を起こすね」と言って、春香と一緒に戻っていった。
「あいよ」と返事をしながら、ふたたび針に新しいエサを付けようと餌箱のふたを開けた。
「うん?」
気がつくと、子牙くんがうらやましそうに俺を見ている。
「まだ始めたばかりさ。がんばって釣ってくれよ」
「は、はい」
気を取り直して自分の糸の先を見つめる子牙くんに、今度はこっちから話しかける。
「――自然の営みっていうのは、見ていると不思議なものでね。そこから生きる上での色々なヒントを得られるんだよ」
「ヒントですか?」
「ああ。たとえば、湿地帯には湿地帯の生き物がいて、こういう山中には山中の生き物がいる。水中には水中の生き物、魚がいる。
もし君が軍隊を率いて戦う時に、その戦場となる土地に合わせた戦術を立てなければ、たちまち負けてしまうだろう。たとえば商の使う戦車は確かに強力だが、沼地や荒れ地では使いものにならない。山間の細道でも
……その土地、その土地の生き物がいるように、その地に合わせた戦い方を工夫しなくてはならないのさ」
「なるほど」
「うちではよくハチミツを料理や飲み物に使っている。あれは花の蜜をミツバチが集めてくれたものなんだが、そのミツバチにも特有の戦い方がある。
強く毒の針を持ったスズメバチが巣に近づいてきたとき、ミツバチたちは大群でスズメバチにまとわりつき、覆い隠していしまう。……なぜだかわかるか?」
「いいえ」
「たしかにスズメバチの針は強力で、対するミツバチの針は小さくて非力だ。けれども、ミツバチは団結して、スズメバチを埋め尽くすほどまとわりつく。すると、その内部の温度が上がっていくんだ。スズメバチの耐えられる温度はミツバチのそれより低い。スズメバチは高温にさらされて、熱で死んでしまうんだよ」
「そんなことがあるんですか……」
「ああ。自分たちのできること、耐えられること。敵のできること、耐えられること。とにかく情報を分析し、強大な敵には団結の力で対抗するのも重要だな」
「これは良いことを聞きました」
「ははは。まだあるぞ。地の利、人の和があっても、時が来なくては成功することができない場合がある」
「時……」
「ああ。時というのは不思議なもので、一つには天の時、二つにはより小さいものだが、
「なるほど。それは何となくわかります」
「そうか? 争うとき、その機先をわざと外すとか、隠す、あざむくなど、色々な戦法がある。こうした天の時、地の利、人の和。この三つの
渭水の流れを見つめながら、そんな話をしていると、後ろから、
「また難しいお話をしてる」
と呆れたように碧霞が言ってきた。
俺と子牙くんの斜めうしろに腰を下ろすと、
「パーパったら、私にはそういうこと教えてくれないのに」
と口をとがらせている。
その
苦笑していると、子牙くんが振り向いて、
「人にはそれぞれ役目があるので。碧霞様には碧霞様の、私には私の相応する
「ねぇ。子牙様。私のことは碧霞様じゃなくて、碧霞と呼んで下さい。私の方が年下なんですし」
「いや、その。そう呼ぶとちょっと……」
なんだ? 碧霞の話し方が、今まで見たことがないような雰囲気だ。
こう、なんていうか。ちょっと距離が近くないか?
……なんだかモヤモヤするな。嫌な感じだ。
碧霞がちょこんと首をかしげて、
「ちょっと、なんですか?」
「夏樹様と春香様の目が怖いというか」
こっちを恐る恐る見る子牙くんに対し、碧霞はじとっとした眼で俺を見た。
「パーパ?」
「いや、まあ、なんだな。子牙くん。碧霞さんと呼ぶようにしたらいいんじゃないか」
「は、はい。そうですね。では碧霞さんと……」
ほっとしたような子牙くんだったが、碧霞は納得しかねているような表情だ。
でもな。お前、もう18なんだよ。結婚しても問題ない年齢なんだぞ? そんな呼び捨てなんて、俺が許すわけないだろ。
「う~ん。仕方ないですね。で、子牙様は釣りのほうはいかがですか」
「それがさっぱりですね。なかなか師父のようにはいきません」
「子牙くんの場合は釣りよりも、このゆったりした時間が好きなんだろう。お話のほうに神経がいってしまって、
「は、はあ」
と、そこで再び俺の竿に当たりが――。
「ふんっ」
途端に走り出す釣り糸に、子牙くんと碧霞が驚きの声を上げる。
シュバババと水を切って縦横無尽に動くが、糸が切れないように注意をしながら竿を動かしていく。手応えからは、さっきのよりは小さいだろう。
しばらく魚との駆け引きをしていると、唐突にフッと引く力が抜けた。
……しまった。
「あれ?」
という碧霞に、「すまん。逃げたかも」といいながら竿を引き上げる。
「いるよ!」
碧霞が指をさした。糸の先には一匹のぐったりした様子の魚がいた。
「さすがは師父」
とうれしそうに子牙くんがタモを繰り出すと、
「私のパーパなんだから、当たり前です」と碧霞が自慢する。
碧霞よ。それはいいんだが、さっきより子牙くんに近くないか?
モヤモヤした気持ちが晴れないまま、子牙くんがタモですくい上げるのを見ていると、彼はタモの中の魚を俺と碧霞に差し出して見せている。
碧霞が小さく歓声を上げている。うれしそうに魚を見て話をし始める2人。
なんとなく疎外感を覚えていると、
「はい。夏樹。お疲れ」
と、春香がコップに飲み物を入れて差し出してくれた。
子牙くんと碧霞は仲よく連れ立って、俺の釣った魚を先ほどの魚の所ヘ持って行った。
何とはなしに、その姿を見つめていると、
「まあ、気持ちはわからないでもないけど……。子供はいずれ巣立っていくものよ」
「それはそうだが、あの子はまだ18だぞ」
「あらあら。もう18でもあるわよ。ふふふ。……夏樹でもそんな風になるんだね。やっぱり父親としての気持ちなのかな」
「む。それは否定しないが、お前はそれでいいのか」
「というか、まだ2人ともそこまで意識しているわけじゃないわよ。恋に発展するのかどうか。ただ、いつのまにか子供も大人になっているものだからねぇ」
そう言って、春香は後ろの2人をちらりと見てから、俺に笑いかける。
「……だいたい、私たちなんてもっと小さい頃からでしょ」
春香がそういって、俺の横に座るとそっと寄りかかってくる。
「なるようになる。そんなものよ」
「……まあ、な」
それはもちろん、いつかは嫁に行ってしまうことだろう。だからといって、今、気分的に納得できているわけじゃないけどな。
どう言えばいいのかわからないけど。まだまだ子供だと思っていた娘が、少しずつ女の顔を出しはじめているというか。……正直、複雑な気分だ。
まあ、俺がぐちぐちと言ったところで、どうにかなるものでもないのは確かだ。
ただ、それがわかっていても、やはり気持ちがな……。まだ、恋を抱くまで意識しているわけじゃなさそうでもあるけどさ。
「もー、しょうがないなぁ。先が思いやられるわねぇ」
「……悪かったな」
「ううん。別に責めてるんじゃないけれどさ。今度、愚痴を聞いてあげる」
「そう、だな。ぶっちゃけ、その方がいいのかも」
「はいはい。よしよし」
そう言って、春香が俺の頭を撫でる。
別にそういうのを求めているわけじゃなんだが……。
うん?
ふとどこからか視線を感じて、顔を上げると春香がニヤニヤしながら後ろを見ていた。
その視線の先を見ると、呆れたように俺たちを見ている碧霞と、やれやれといった表情の子牙くんの姿があった。
春香が急に抱きついてきて、顔を俺の肩口にすりすりとしてくる。
俺の耳元を春香の髪がくすぐり、
「へっへっへっ。いちゃいちゃはこうするもんよ」
……その言葉に、なぜか急に笑いがこみ上げてくる。
「――くくくくく」
「あれぇ。夏樹、急にどうしたの」
「ふははははは」
そうだな。なるようになるか!
さっきまでのモヤモヤしていた気持ちが、春香のお陰で綺麗さっぱり消えてしまったようだ。
「ははははは」
「……変な夏樹」
理由なんてないけど、どこかツボにはまったように笑いが止まらない。
そうさ。いちゃいちゃはこうするもんだ。ふふふ。
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