1 隴中(ろうちゅう)への道



 木漏れ日がまだら模様の影を道に落としている。

 やや湿気のある空気には、木々や草の匂いが混じっていた。

 ここは高原地帯であるため幾分か涼しいけれど、日なたでは夏特有の強い日差しが輝いている。


 俺たちは今、川沿いの道をロバ車に乗って進んでいる。

 ここは中国北西部、後に甘粛省かんしゅくしょうと呼ばれる場所。まわりは青々とした山ばかりが連なっていた。

 目的地はシルクロードの拠点の一つ隴中ろうちゅうと呼ばれる町で、買い出しに向かっている途中だった。


「今日もいい天気! 絶好のお出かけ日和びよりだね」

 隣にいる妻の春香が、気持ちよさそうに空を見上げる。


 今日はつややかな黒い髪を、頭の後ろで一本にしばっている。まるで学生のような髪型だが、和服のようなえりのある服装なこともあって、どことなく清楚であるだけでなく健康的な色気を感じる。

 木漏れ日の下にいるはずなのに、なぜかいつもよりも肌が明るく見えるから不思議だ。


 和服のようなといっても、浴衣のような着流しではなくて下はズボンの質素な服。けれどもえりそでなどに春香が細かい刺繍ししゆうをしてくれているし、どこかお日様の匂いがするような素朴な風合いがして、俺は結構気に入っている。



 さて、幼なじみだった俺と春香は、不思議な縁に導かれて帝釈天の守る聖地に行き、霊水アムリタの力で神さまとなった。

 そして、神通力の修行をして戻ってきたところを、指導教官の帝釈天様から出された指示は、


 ――人間の歴史を体験すること。


 不老不死となった身で歴史を歩き、人の善性や悪性、欲望や気高さ、様々な要因で人が動き、国が動き、歴史が動いていくということを知るということだった。



「あ! 見てみて。鹿がいる!」

 春香が指さした方を見ると、離れたところの木々の奥で、足元の草をんでいる3頭の鹿がいた。

 1頭は小柄なのできっと親子なんだろう。ちらっと俺たちを見て一瞬警戒をしたようだが、すぐに気兼ねなく食事を続けている。

「かわいいね」

 そういって見つめる春香の横顔は、慈愛に満ちていた。


 BC1660年のギリシャ・ナクソス島に時間遡行タイムリープをしてから、すでに570年が過ぎていた。その間に幾度かシルクロードを旅し、10年ほど前からはここから南の山中で暮らしている。

 今、街道の脇を流れている渭水いすい沿いに東へ行けば、天水てんすい岐山きざんへと続き、そのさらに東には豊邑ほうゆう、つまり後の長安にたどり着く。都市部までは距離があるけれど、のんびり暮らすには良い所といえるだろう。



 鹿の親子を見つめる春香を見ていると、かつての春香の言葉が耳によみがえった。


 ――わかった。私。あなたについていく。


 ひと足先にアムリタを飲んでいた俺の腕の中で、眷属となる覚悟をしてくれた春香。真っ直ぐに見上げているあの目を俺は忘れない。


 俺の最愛の妻。永遠の時を一緒に歩く伴侶。

 どれだけ人の世が移りかわろうとも、どれだけ厳しい環境のところだろうと、春香が一緒にいるという事実。

 彼女がそこにいるという確かな実感が、俺を幸せな気持ちにしてくれるんだ。


 ……なんて、照れくさいことを考えてしまった。

 気がつくと春香がきょとんとした表情で俺を見つめていた。


「どうしたの? なにか心配ごとでもあった?」

「あ。いや、なんでも――」ないさと言いかけた時、きゅるるるるぅと俺のお腹が鳴った。


 プッと春香が吹き出して、

「ふふふ。そっか。もうお昼だもんね」

 いや、そうじゃないんだが……。まあいいか。


 神となった身では食事をとらなくても大丈夫なようにもできるが、極力、俺たちは人と同じ生活をするように心がけている。だから当然、空腹にもなる。


 道の脇に車を停め、ロバを外して少し自由にしてやった。その間に、春香が後ろの荷台から弁当箱を取り出している。

 草をむロバを見守るように、俺と春香は並んで荷台に腰掛けた。


 春香が、木のわっぱでできたお弁当箱を膝の上に置いて、自慢するように、

「じゃじゃ~ん。今日のお弁当は特製ラップサンドです!」

と言いながらふたを開けた。


 中にはラップサンドが綺麗に並んでいる。ケンタッキーのツイスターのように薄い生地にくるまれ、葉野菜の緑と赤カブのスライス、そのなかに見えるのは味付けをして焼いた鳥肉かな? なかなか彩りが良い。


 さっと春香が一本つかむと、

「あ~ん」

と俺に向かって差し出した。

 口を開けパクリと食いつくと、ハーブと蜂蜜で味付けされた甘めソースがお肉と野菜と一緒に混じり合う。

 味付けはアジア風というよりギリシャ風だけれど、文句なしにうまい。

「うまい!」

 うれしそうな春香に、俺もお返しでラップサンドを差し出し、

「あ~ん」

とすると、えへへ~と笑いながらパクッと口にした。


 こうしてランチを楽しんでいる俺たちの頬を、さわさわと風が通り過ぎていく。

 爽やかで心地よい風に、ラップサンドをくわえたままの春香が目を細めていた。

 その様子はまさに小動物のようで、なんだか妙に可愛い。

 俺の視線に気がついた春香は、急に恥ずかしくなったようで困り笑顔で視線をそらす。またその仕草がたまらなく愛しい。


 今のように気持ちよさそうな顔、少し照れてはにかんだ表情、いたずらをしようとニヤリと笑った顔、俺を見つめる穏やかな眼、屈託無くったくなく笑った顔、無意識に俺を探している寝ぼけ顔。

 もう一体どれくらいの表情を見てきただろうか。どれだけの時を一緒に歩いてきたのだろうか……。


 目の前を流れる渭水の向こう、青々とした山々の上には晴天を背景に白い雲がゆっくりと移動していた。

 雄大な自然のまっただ中で、穏やかな時間が過ぎていく。


 食べ終わって弁当箱をしまうと、そのまま春香ががさごそと荷台で何かを探している。

「どうした?」

と声をかけると、春香は「あった!」と言いながら、パンフルートという楽器を差し出した。


 これは太さの異なる数本の竹を長い順番に並べて作った楽器で、牧羊神パンが吹いていたとされる楽器フルートだ。

 ナクソス島で買ったこのフルート。俺と春香とで二重奏デュエットができるように2つ揃えてある。


 まず春香がフルートに口をつけた。俺を見て小さくうなずいて、ゆったりしたメロディーを紡いでいく。軽やかで少しかすれたような、どこか哀愁のある音色が風となって広がって行く――。


 この旋律……、これは俺と春香が作った歌だ。2人で歩き続ける俺たちの歌。

 俺はそっと目を閉じて歌いはじめた。


 ――どこまでも続く道 歩きつづける2人

 暗い夜に 道に迷い 動けなくなるときもある

 それでも怖くはないよ

 あなたがそばにいてくれるから


 私の凍える心 あなたが温めてくれる だから


 いくつもの夜を超えて

 その先へ その先へと 2人で行こう

 風に吹かれ 山を越え

 風に吹かれ 海を越え

 どこまでも 一緒に行こう


 今度は俺がパンフルートに口をつけてメロディーを受け継ぎ、春香が歌いはじめる。


 ――嵐が過ぎるまでは 岩陰でやりすごそう

 雨がやんだら 立ち上がり 再び一緒に歩きだそう

 どんなに辛い道のりも

 あなたがそばにいてくれるなら 


 私は歩いて行ける 勇気をくれるあなたと だから


 いくつもの時を超えて

 その先へ その先へと 2人で行こう

 風に吹かれ 虹の向こうに

 風に吹かれ 空の果て

 どこまでも 一緒に行こう


 それから2人でそれぞれ異なる旋律をパンフルートを吹き、まるで2羽の鳥が飛び交うように重ね合った。


 イメージは、寄り添いながらどこまでも飛ぶ2羽の渡り鳥。この広い世界を旅し続ける俺と春香の姿がそこにある。


 余韻に浸るように目を閉じていた春香が、ばっとパンフルートから口を離した。

「ねえ。今度は3番を作ろうよ」

「3番? ……じゃあまた2人で考えようか」

「そだね。ふふん」


 楽しそうな春香だが、旋律に合わせた歌詞を作るのって結構たいへんなんだ。この歌だって歌詞はわずか2番までだけれど、いまだに手直しをしているんだが……。でも、まあ2人で歌いながら作ったのは楽しい思い出ではある。


 春香が唇にほっそりした人差し指を添え、

「そうだなぁ。3番は移り変わる世の中ってイメージでどう?」

「移り変わる世の中、か」

「そ、世界はどれだけ移り変わっても。私とあなたはずっと一緒というメッセージ」

「というと時の流れとか、人の世がっていう感じ?」

「そうそう。……ね?」


 そう言いながら春香は、右手で自分の胸元をトントントンと叩いた。

 それを見て、微笑みながら同じように俺も自分の胸元をトントントンと叩く。


 この仕草サイン。かつて東京に暮らしていた頃、春香の好きだったドリカムにならって決めたサイン。俺たちだけの「愛してる」のサインだ。


 ――私の心にはいつもあなたがいる。

 どんな時も、ずっと一緒に。


 そんな意味を込めている。

 ……なんだか説明していて自分でも恥ずかしくなってきたな。


 でもこのサインなら、たとえ言葉に出せない時でも互いの思いを伝えられる。

 ちょっとロマンチックに過ぎるかもしれないけど、いつかきっとそういう状況が訪れるだろうと思っている。


「む? また考えごとしてるでしょ。……えい!」

 黙り込んだのが気にくわなかったのか、春香が両手で俺の頭をぐいっと引き寄せてキスをしてきた。


「ふふふ。街道のそばだけど誰もいないからいいよね?」

「この甘えん坊め。……でも許す」


 仕方ないなぁというように笑うと、ぎゅっと春香が腕を絡め、頭を肩にもたせかけてくる。柔らかな春香の身体から少し汗ばんだにおいがした。

 ……ああ、幸せだ。

 春香もそっと微笑んでいるから、きっと同じ思いを抱いているだろう。

 結局のところ俺たちは、2羽が一体になって空を飛ぶという比翼ひよくの鳥。いつまでも新婚気分で、いちゃいちゃ好きな似たもの夫婦なのさ。


 食事を終えてから再びロバ車で街道を進むが、隴西ろうせいの村に到着した頃に日が暮れてきた。

 今日はここで一泊するが、おそらく明日には目的地の隴中ろうちゅうに到着できるだろう。


 宿の部屋は、いくつもの寝台が並んでいる10人用の大部屋だけだった。

 さほどお客さんがいない宿では、こういう場所も少なくない。……ただ、だからといって慣れているというだけであって、春香をこういう部屋に泊まらせたくはないのが本音ではある。


 幸いのことにまだ他のお客さんはいないので、端っこから2台を確保することができた。もちろん壁側は春香の寝台だ。寝るときには俺の寝台を横に寄せて寝ることにしよう。


 特に宿に併設した食堂もないので食事は別の店に行けということだが、さすがに時間がまだ早いし、今日は持参した食料で済ませる予定だ。

 幸いにも、宿の人から馬乳酒を2杯もらうことができた。さっそく寝台に腰掛けて、2人で向かい合って飲むことにする。


 馬乳酒は酒といってもアルコール度数が低く、少しさらっとしていて飲むヨーグルトのようなものだ。カルピスのイメージの元になったお酒といえばわかるだろうか。

 強烈な酸味に微発砲がピリリと舌を刺激してきて、思いのほか旨い。


「ん~。これってやみつきになるよね」

 美味しそうに言う春香だが、俺は知っている。一番最初に飲んだ時には「なにこれ! 酸っぱ!」と叫んだことを。


 やがて日が暮れてきて、窓の外がオレンジ色に染まっていく。乾いた大地に平屋の建物。木々や町行く人々、そして遊び帰りの子どもの姿。

 斜陽に照らされた長閑のどかなその光景は、いつの時代でも、どの国でも郷愁を誘うものだ。


 外を見ていた春香がぽつりと、

「子どもかぁ……」

とつぶやいた。


 残念ながら、今の俺たちに子供は授からない。これは霊水アムリタの力で因果の輪から外れてしまっているからだ。

 もちろん、神独自の方法があるらしいが、まだまだ修行の身である俺たちには力不足だろう。


 ただなぁ。子どもが欲しいとは、春香が人間だったときから言っていたことだ。養子を迎える相談もしていたけれど、その前に春香も霊水を飲んで俺の眷属神となり、そのまま異世界に旅立ったのだった。

 そのことに申し訳なく思う。たとえ既に2人の間でよく話していて、納得してはいても、子供が欲しいという気持ちを抑えることはできないだろう。


「そうだな」

 アムリタを俺が飲んでいなければ、少なくとも春香が人間だったときには子どもができたかもしれない。一番最初の人生を春香とともに生きられていれば……。


 春香は申し訳なさそうな表情で首を横に振った。

「ううん。ごめんね。まだ修行の途中だから……。でもいつかきっと。なっくんとの子どもを産みたいわ」

 久しぶりに「なっくん」と俺を呼んで、身体を寄せてくる春香の腰に手を回し、ぎゅっと引き寄せた。肩にもたれかかる春香を感じながら、しばらく家路を急ぐ人々の姿を眺める。

 そうだな。いつかその日が来たら、その分の愛を込めて子供を育てたいと思った。



 次の日の夕方、俺たちは無事に隴中ろうちゅうに到着した。


 隴中まで来ると西からくる黄砂が大地を少しずつ侵食して来ているようだが、この時代はまだまだ肥沃な土地で緑に覆われている。

 険しい山々の間に平坦な土地が広がっていて、そこに隴中の町がある。ここから西へ行けば蘭州らんしゅう、そして、その先は燉煌とんこうへと続いていき、緑から荒涼とした大地、そして砂漠へと変化していくのだ。

 西の終着点はアッシリア。その先を海路で進めば俺たちの別宅があるギリシャとなる。


 さすがにこの町は貿易拠点だけあって、通りはそれなりの人々が行き交っていた。


「ええっと、甜菜てんさいに小麦、そばにレンズ豆、あとはお酒に……」


 春香が買い出しの品物をチェックしているのを聞きながら、俺は慎重にロバ車を進め、目指す宋異人そういじんさんの屋敷にたどり着いた。


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