7 女媧様がやってきた



 帰宅してから3ヶ月が過ぎ、季節は夏から秋に。日に日に涼しくなり、冬の足音が聞こえてくるような季節になった。

 もともと日本でも秋は天候が変わりやすいというが、昨日は晴れていたのに急に空がかき曇り、東の方角で一斉に雨が降っているのが見えた。

 今日はすっきりと晴れていて、雨上がりということもあろうか、山の霊気が空気に溶け込んでいるような爽やかな天気になっている。


 はしごを組み合わせて作った脚立きゃたつを、大きくなった柚子ゆずの木のそばに立てた。

 この辺りは天然の果樹園になっていて、桃やりんごのほかにも数種類の果物が林になっているのだ。


「よっと」

 脚立にのぼり、エプロンのポケットからはさみを取り出す。

 食べ頃、もしくは少し早いくらいの柚子を手に取り、次々に枝から切り離しては下に落としていく。

 下では、春香と碧霞がエプロンをたくし上げて、「よっと」「はい」と遊び感覚で柚子をキャッチして、持って来た篭に積んでいっている。


「……そろそろいいんじゃないかな?」

 春香の声に見下ろすと、柚子が篭一杯になっていた。確かに、あれだけあれば春までは充分に保つだろう。

 帰ったらジャムにしたり、皮をむいて干したりと色々やることがあるが、その作業もまた楽しみの一つでもある。

 現に春香はうれしそうに、

「帰ったら早速ジャム作りをしようね」

と碧霞にしゃべりかけていた。


 はさみをポケットにしまって降りようとしたとき、視界の端になにか動くものが見えた。

 そっと振り返ると、一人の女性が小道を歩いてきている。


 年の頃は30前後。大人の色気の漂う中華美人。


 けれど、どこか違和感を感じて感覚を研ぎ澄ませてみれば、彼女からは俺たちと同じ神の力、それもどうやら俺たちより上位の神の力を感じた。


 なかなか降りてこない俺を見て、怪訝そうにしていた春香だったが、どうやら気がついたようだ。

「夏樹……」

「ああ、すぐ降りるよ」


 向こうの女性も、俺たちが気がついていることをわかっている。笑みを浮かべて、まっすぐにこっちにやってきた。


「失礼。こちらに姿が見えたものですから」

 そういってあでやかに微笑む女性だが、当然のことだが初対面である。


「いえ。このような山中にお一人でとは……。その、どちら様でしょう?」

「私は女媧じよか。貴方たちと同じ仲間の一柱といえばわかるでしょう」


 え?

 ……女媧?


 たしか中国では人間を作ったとされる女神が女媧じゃなかったか。伏羲ふくぎと並び立つ大物の神さまだったような記憶があるが……。まさかな。


 するとその女性は、ニッコリ微笑んで、

「ええ。その女媧よ」


 次の瞬間――、時が止まった。


 周りの音が一切聞こえなくなり、目の前の女性から膨大な神力がさざ波のように広がって行った。まるで大地そのものを示すような女神特有の包み込むような力。


 その圧倒的な神威に思わず膝をついてしまう俺と春香。

「し、失礼しました」


 すると放たれていた神威がすぅっと消えていく。

「突然に、二人ともごめんなさいね。どうぞお立ちになって」

 おそるおそる立ち上がる俺と春香に、女媧様は近寄ってじっと目を見つめてきた。まるでギリシャで女神アテナと会ったときのようだ。


 見定めるような視線だが怖れることはない。

「すでに西の女神にも会われているのですね。権能ももう定着していると見ていいでしょう」

「あ、あの」

「ふふふ。何かしようというわけじゃありませんから、心配することはありません」

「は、はい」

「それでは時を戻しましょう」


 その言葉とともに時が動きはじめる。

 俺は一礼して、

「折角ですから、そちらにお茶の用意をしていますのでどうぞ」

と敷物のスペースに案内した。


 作業中だったので脚立などはそのままだが、こうして休憩している光景は、まさに収穫作業中の一休みといったところ。春香が持参したコップにハチミツ湯を入れてくれた。

 碧霞は緊張しているようで、その春香の後ろでそわそわしている。


 ひんやりした空気が作業で火照った体に心地よい。ハチミツをお湯で溶いただけだけれど、優しい甘さが染み入ってくるようで癒やされる。

 見回すと、まだ収穫していない黄色い果実が、あたかも春に咲く花のように木々を彩っている。


 女媧様の対面に座りながら、しばし無言でハチミツ湯を飲んで……。っとそういえば挨拶がまだだったな。

「女媧様。改めまして、私が――」と挨拶を終えた後、突然の来訪の理由を尋ねてみた。


「……私はこれからこの国を離れることにしたのですが、その前に貴方たちに直接会ってみたくなったのです」

と言う。


 この国を離れる? 一体どういうことだろうか。


 俺の疑問を感じ取った女媧様が、何があったのかを教えてくれた。



 時は3ヶ月前の商の王宮にさかのぼる。


 北方で反乱が発生したと知った帝辛は、苛立ちながらも祭儀の間・亜字あじ殿で神聖化した亀骨きこつ版を火にくべた。


 帝辛は才知にすぐれた王であった。またそれを補佐するのは三代の王に仕えてきた賢臣の商容しようようたちである。時には、厳しいいさめや我がままを指摘されてムッとすることもあったが、ひたすらに商の発展のために政治を行ってきたという自負があった。


 まだ東の国境線で隣国と小競り合いが起きたというのならわかる。いずれ軍備が整ったら戦争に入るつもりだったのだから。しかし、北方の反乱は想定外だ。国内を掌握できていなければ、とうてい隣国との戦争などできまい。


 灼熱の炎に焼かれた亀骨版にヒビが入り、その割れ目が真っ赤に輝いている。

 やがて取り出した亀骨版を真剣な表情で見つめる。卜占ぼくせんによって祖霊の神意を読み取る。それが巫術の王でもあった商の王の役割だった。


 しばらくして帝辛は、そばに控えていた貞人ていじんと呼ばれる祭官に告げた。

「来たる癸亥みずのといの日に軍1万5000を以て討伐を行う。けんは100人とする」

「――はっ」


 けんとは生けにえの人のことである。斬首して、そのくびを逆さにつるし、邪悪な霊や災いを遠ざける。商が代々行ってきた祭祀であった。


「では、いつものようにこれに記録して保管せよ」

 そう言って、帝辛は足早に部屋から出ると、外の回廊で待機していた宰相の商容しょうよう、そしてその補佐の比干ひかんと合流する。


 そのまま政治の場である九間殿に向かいながら、帝辛は商容に甲骨の内容を伝えた。

 静かに承っていた商容に、帝辛は吐き捨てるように、


「たかだか軍1万5000にけん100人。生けにえをやめようとするのに、世間が許してはくれぬ」

「――陛下。お気持ちはわかりまする。ならば反乱の原因を探り、より善政を敷くのが先決。そして、私は陛下こそ、それが成せる御方と信じておりまするぞ」

「ふん。――今は仕方ない、か。いずれ縣をやめ、その分を軍備と生産に回し、そして隣国を攻める。……ちんの代で必ず成してみせる」

「はい。我らも支えまする」「うむ」


 こうして11日の後、黄飛虎こうひこ将軍を総大将とする1万5000の軍勢を北方に向かわせることに決定し、帝辛は自らの剣を将軍に預けたのだった。


 それから一ヶ月後、無事に鎮圧との報告があったが、そのまま将軍に原因を探らせる指示を出す。これが思いのほか難航しており、将軍はまだ戻ってきてはいなかった。

 しかし、黄飛虎将軍は武もさることながら、聡明で徳のある人物だ。信じて待つほかはない。


 そして、一昨日。

 進まぬ調査に苛立つ気持ちを聞いてもらおうと、帝辛は正妃の婦九ふきゆうから酌を受けていた。

「陛下。それでしたら一度、女媧宮にお参りされてはいかがですか」


 婦九からの申し出に、酒器を持った帝辛の手が止まった。

 怪訝そうに、

「女媧宮?」と尋ね返すと、婦九はほがらかに、

「ええ。……先日、子供らのことを祈りに私も参りまして、随分と気が晴れました」

「そうか。そういえば、こうこうの二人が同時に熱を出したのだったな」

「はい。ですが、今はもう熱も下がっております」

「うむ。それはよかった」


 帝辛は、そういうと酒器をあおった。

「そうだな。朕も明日行ってみようか」

「それがよろしいかと。ただ……」


 再び怪訝そうな表情で、

「なんだ?」

 婦九は帝辛の視線に微笑みを返し、

「女媧様は大変な美人ですわ。よこしまな欲は抱かれませんように」

と茶化すように言った。それを聞いた帝辛は、愉快そうに笑う。


「はっはっはっ。そうか。それは楽しみだが、婦九よ。天女に嫉妬とは」

「あら。陛下。それが女というものですわよ」


 こうして仲睦まじい二人きりの酒宴は、漸く続いていったのだった。

 そして、明くる日。商容をともに、帝辛は女媧宮に向かった。



◇◇◇◇

 女媧様はいらだたしげに、

「あの男。私に見惚みほれるまではよかったのですが、よりによって懸想けそうし、とんでもない言葉を壁に書き付けていったのです」


 思わず放たれたその怒気に、周りの空気がピィンと張りつめた。

 ちらりと春香の方を見ると、碧霞が青ざめた表情で春香の背中で小さくなっている。


 ――おいおい。いったい何を書いたんだ? この怒り方は尋常じゃないぞ。


 只人ただひとである碧霞にはこの怒気は辛いだろう。春香が碧霞を背中に守っている。

 俺の視線に気がついた女媧様は、あわてて「ごめんなさいね」と碧霞に声をかけながら怒気を納めてくれた。

 碧霞はおびえて小さくうなずいて、そっと息を吐いた。


 なんでも帝辛は女媧様の女神像に目を奪われ、

「このような美女を是非とも側室にほしいものよ」

と言い、何をとち狂ったのか壁に不敬な詩を書き付けた。


 梨花 雨を帯び、嬌艶きょうえんを争い

 芍薬しゃくやく けむりにもり、媚粧びしようを馳せる

 ただ妖嬈ようぎようを得て、よく挙動せられるならば、

 長楽に取り回し、君主にはべらすものを。


 ――梨の花は雨を帯びてあでやかに咲き乱れ、芍薬の花は霧に包まれて夢幻のように美しくなる。

 もしも妖しい美しさを持った女性として動いてくれるのならば、長楽宮に連れ帰って君主である自分にはべらすものを。


 これを見た商容は驚き、恐れおののいて帝辛をいさめた。


「陛下! これはいけません。天女を、それも都の福をつかさどる女媧様を側室に求めるような詩ではありませんか! 天女は只人ただひとではありません。かかる不敬な詩はただちに消しませんと大変な災いが起きまするぞ」


「なにをいう。商容よ。ちんは女媧様の美しさに心を打たれ、その思いをつづったまでである。その美しさを褒めたのであるから、女媧様も悪い気はしないだろう。消してはならんぞ」

「陛下!」「くどい!」「し、しかし……」


 ――――

 ――



 それを聞いて、俺も正直、心がざわめいた。


 もしもだ。

 もしも春香を側室にしようなどという奴がいたら……。

 想像するだけでもイライラしてしまう。


 その時、俺の背中から誰からそっと抱きついてきた。

 春香と碧霞だ。

「夏樹……」「パーパ」

 振り返ると、春香の苦笑いと碧霞の心配そうな表情があった。


 そっと春香が俺の脇から腕をまわして、俺の胸もとをトントントンと叩く。愛してるのサイン。


 どうやら自覚していた以上にひどい顔をしていたようだ。

 知らずにらむように力のこもっていた目をほぐし、少し後ろに寄りかかり二人のぬくもりに身を任せる。

 春香がささやくように、「私は夏樹のそばにいる。だから、大丈夫よ。ね?」


 ……まいったな。

 碧霞にも心配をさせてしまったようだしな。

「わかってるさ」

と苦笑するが、春香と碧霞は離してくれない。



「――なんだか今のを見ていたら、私も少しは怒りがやわらぎました」

 目の前の女媧はそう言って微笑んだ。そして、天を向いて大きくため息をついた。


 綺麗な秋晴れの空に、特有の薄く糸を引くような雲が浮かんでいる。


 その表情からは、どことなくやりきれなさが感じられた。

 それはそうだろう。今までずっと見守り続けてきた人々に失望してしまったのだから。……この国を去る、か。


 しばしの沈黙。再び俺たちの方を向いた女媧様は、

「まあ、そのようなわけで、私はこの国を離れることにしたのです。どうやら、これもこの国の運命のようですしね」

「運命ですか」

「ええ。……お互いにここでは詳しくは言えないでしょうけど」


 もちろん。碧霞がいるからね。


 女媧様はクスッと笑って、不意に右腕を前に伸ばした。

「一体なにを……」

と言いかけたとき、どこからともなく、スーッと一羽の小さいたかが飛び込んできて、その華奢な手の甲に停まる。


 女媧様は碧霞に声をかけた。

「碧霞と言ったかしら」

 俺の背中の碧霞が顔を上げて、

「はい」

「あなたにこの鷹を預けるわ。大切にしてちょうだい」

「え?」


 急な話で碧霞がフリーズするが、鷹は再び飛び上がって滑空するように俺のそばに舞い降り、首をかしげて碧霞を見上げる。


 俺もちょっと突然のことだから、頭が追いついていないが……。だが、きっと必要なことなのだろう。


 その時、女媧様の思念が伝わってきた。

 ……神獣ですから、本来、食事をしなくても大丈夫です。いずれその娘に必要となるでしょう。


 俺と春香にだけ聞こえたメッセージ。

 なんと神獣を碧霞に授けてくださるらしい。神獣だよ。神獣。


「ありがとうございます」

 俺と春香が頭を下げると、女媧様はふふふと笑った。

「さてと、そろそろ私は行かねばなりません」

 コップを下に置いた女媧様は、俺の目を見る。


 ……いずれまた会いましょう。


 その思念にうなずいて、俺は立ち上がってみんなで女媧様をお見送りする。


 最期に、ずっと緊張しっぱなしだった碧霞が、一歩前に出てお礼を言った。

「あ、あの。ありがとうございます」

 すると、女媧様はその頭を優しく撫でてくれた。

「いいのよ。名前は貴女がつけなさい。パーパとマーマの言うことを守りなさいね」

「はい」

「ふふふ。貴女の行く道に幸があらんことを。遠くからお祈りをしています。……それではね」


 どうやら女媧様は碧霞に祝福と加護を与えてくれたようだ。

 それがありがたくて、俺と春香は黙って頭を下げる。


 優雅に手を振って、女媧様は小道を下っていく。


 その後ろ姿を見て、ふと、もしかして昨日の大荒れの天気は女媧様の怒りだったのかもしれない。なんとなくそう思った。



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