32 二重奏
碧霞の家の庭に敷物を出し、その上で春香と碧霞が並んで
春香が弾いている琴はここに持って来た俺たちの琴。そして、碧霞の引いているのは彼女の成人のお祝いに贈った琴だった。
気持ちよく晴れた空に、親娘2人の奏でるメロディーが響きわたっていく。
その姿を見ながら、俺は豊邑に帰ってきた日のことを思い出していた。
街の門をくぐり大通りをとおりぬけ、そして、碧霞の家が見えてきた時、彼女は玄関先でぼうっとしていた。
きっと毎日帰りを待っていたのだろう。それが俺たちか子牙くんかわからないが。
近づいていく俺たちに気がついて、目を見開いて立ち上がる。笑って手を振ると、必死の形相でこっちに走ってきた。
「お帰りなさい」
息を切らせながらそう言う碧霞の頭を、右手でがしっと撫でる。髪がくしゃくしゃになろうと構わずに。「よしよし」と。
春香がニコニコしながら、
「た~だいま。あなたの旦那さんも大丈夫よ」
と言うと、なされるがままだった碧霞が、ガバッと顔を上げた。乱れた髪をそのままに、その目尻にうっすらと涙を浮かべている。
「パーパ、マーマ。……ありがとう!」
碧霞をぎゅっと抱きしめて、そのまま頭をぽんぽんと叩いた。
「気にするな」
「うん――」
あの小さな碧霞がこんなにも大きくなった。恋をして、そして結婚して、人として成長して。……それでも甘えんぼうで。
――ゆったりとした曲調から、まるで嵐が来たかのように激しく弦をかき鳴らす2人。
張りつめた弦の上を2人の指が動くたびに、ジャランジャランと繰り返し繰り返し、波に波が重なるように、次々に音が奔流となって俺の身体を通り抜けていく。
激情に胸が焦がれるような、強い風に吹かれているような感覚。
目を閉じると旅をしてきた大陸の景色が思い浮かぶ。連なる山々に、ゆったりと流れる大河。そして、一面に広がる田んぼ。
強い風がその悠久の大地を、どこまでも吹き抜けて行く――。
やがて曲調が一転してゆるやかになった。
脳裏には、朝霧のただよう静かな湖畔で漁をしている人々が見える。
晴れた青空の下で広大な田んぼで農作業をしている人々、緩やかな風に柳が揺れる河岸で憩いの時を過ごしている人々が。そして、出会ってきた人々の顔がよぎっては消えていった。
なぜだろうか。目尻が潤んでくる。色々な感情が湧いてきてしまう。
そして、そのまま曲は余韻を残して静かに終わった。
弦を弾く音が、ビィィィンと響き、音が消えても耳に残り続ける。
目を開けると、そのままの姿勢で動かない2人がいる。その余韻が消えてもなお、誰一人として動き出そうとはしない。
何か音を出してしまうと、この完璧な世界が壊れてしまうような、それがとんでもなく無作法に思えた。
そっと春香が碧霞の方を見る。同時に碧霞が春香を見た。
にっこりと微笑み合う2人はとても美しかった。
静かに拍手をすると、2人の奏者は俺を見て恥ずかしそうにうなずいた。
丁が感極まったように立ち上がり、
「すごい!
とパチパチと拍手を始めた。その隣では玉さんがウットリとした表情で手を叩いている。
うれしそうな碧霞に春香が何かをいい、俺に向かっていたずらを仕掛けようとするあの笑みを浮かべた。
そして、その
俺と春香の歌だった。
ちらりとこっちを見る春香。
その視線が言っている。あなた歌ってと。
苦笑いをしながら俺は立ち上がった。
――辛い出来事を見て 悲しみに心痛め
1番とも2番の歌詞とも違う言葉。
春香が一瞬目を見開き、その意味に気がつくと、途端にうれしそうな表情になった。
……そう。この歌詞はひそかに考えていた3番の歌詞だ。
涙ながれ 心細く なる時もそばにいて
差し伸べられた手をとって
あなたのぬくもりを感じよう
私は一人じゃないよ
いくつもの夜を越えて
その先へ その先へと 2人で行こう
風に吹かれ 朝日を浴び
風に吹かれ 顔を上げ
どこまでも 一緒に行こう
若い姿の時のような声は出せない。どこか細く感じる声量だけれど、それでも春香は構わないと思うだろう。
そして俺にとってこの歌は、春香さえ満足してくれたらそれでいいんだ。
ふと気がつくと、初めて聴くメロディーを覚えようと碧霞はそっと目を閉じて、小さく口ずさんでいた。
たった一番だけの歌をうたいおえると再び丁が拍手をしてくれる。
碧霞が目を開いた。
「……そっか。この歌。パーパとマーマの」
とつぶやいた。そのつぶやきを春香が続ける。
「オリジナルよ」
碧霞の前で神力を使ったことがある。そして、誰よりも俺たちと長い時を過ごしている。だからか、なんとくなく俺たちの正体が人ではないと感じているようだ。
この歌も、俺と春香を歌ったものとわかったのだろう。
「2人とも相変わらず新婚さんみたいだよね」
どこか遠くを見るような目をする碧霞に、
「そりゃそうだ」「ね」
と2人がかりで言うと、クスッと小さく笑っていた。
「はいはい。ご馳走さま」
春香と碧霞を中心に、丁と玉さんとが混ざっておしゃべりが始まった。
その楽しそうな光景を眺めながら、自然と碧霞が小さかった頃のことを思い出す。
頬がゆるむのを自覚しながら、俺もみんなの輪の中に入っていった。
親が子を育て、その子が親となり孫を育てる。
人の歴史はこうして続いてきたのだ。
家族と家族とが集まって社会を作り、村ができ、街や国ができる。平和な社会を目指しつつも、戦乱を繰り返す人々。
この時代も大きな戦争の時代だった。
けれど、その戦争の時代にあっても、こうして互いに思い合える家族を持つことは幸せだ。
幸せの中心は家族。そして、その家族を作るのは夫婦なのだ。
俺は窓の外を見た。空に浮かぶ白雲がゆっくりと動いている。
雲を動かしている風は、やがて東へと吹いていくだろう。
……子牙くん。そっちはどうだい。君はいつ帰ってこれるんだい?
空に問いかけるも、そこにはただ白い雲が浮かんでいるだけだった。
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