第15話 富樫

 数日後、あたしは山科のレッスンを受けるために、早めにお昼ご飯を食べ終えて音楽室で練習の準備をしていた。いつものように足音が聞こえて山科が入ってきた……と思ったら、山科じゃなかった。富樫だった。


「あれ、富樫どうしたの?」

「いや、練習見に来ただけ。山科は?」


 言いながら富樫はピアノの横にやってきた。


「もうすぐ来る」

「ふーん」


 あたしは譜面の順序を揃えて、横に長く広げて置いた。


「なあ、桑原さぁ」

「ん?」


 富樫がグランドピアノの中を覗きながらボソッと口を開いた。


「桑原は山科のこと好きなんだろ?」

「……は?」


 何を言い出すかな?


「いや、いいよ、知ってるから。山科のこと好きなのはわかってるけどさ、その……」

「何?」

「俺はその……桑原が」

「え?」

「だから、俺は……あー、いや、桑原は俺じゃなくて山科のことが好きなんだろ?」


 は? 俺じゃなくて?


「いや、そうじゃなくて、いやもちろん山科は好きだよ。だけどそういうのじゃなくてさ、山科も富樫も真由もみんな好きだよ」


 って言ったら、富樫、困った顔して笑ったんだ。


「ごめん、変なこと言ったな、俺。山科が来る前に戻るわ。じゃ」

「あ、富樫……」


 富樫が振り返ると、そこに山科が立っていた。


「あー……山科。今の、聞こえちゃった?」

「え、何が?」


 山科はぽかんとしてる感じだ。きっと聞いてない。助かった。


「いや、何でもない。桑原、ピアノ頑張ってな」

「あ、うん、ありがと」


 としか言いようがない。


「あれ? 富樫、練習見に来たんじゃないの?」

「ああ、そうなんだけどさ、邪魔になるといけないから戻るわ」


 富樫はそう言って手を振って行ってしまった。


「富樫、どうしたの?」


 山科が不思議そうな顔をしてあたしを見た。いくら鈍いと言っても、地味に富樫にコクられたことくらいはあたしにだってわかる。


「さあ……気が変わったんじゃない?」


 ってごまかすのが精一杯だった。


***


 五限は数学だった。いつものように富樫がボケをかまし、みんながツッコみ、森園が正解を叩き出すという一年五組の基本ルーティンを正確にこなしつつ、授業が進んでいく。だが、気のせいか山科の機嫌が悪い。昼休みのあたしのピアノがイマイチだったからだろうか。


「どんな数も0をかけると必ず0になりますねー。じゃあ0で割ったらどうなりますかー」


 出た。八尾先生のひっかけ問題。先生はいつも授業が残り五分くらいで中途半端になると、こうやってちょっと遊んで時間調整をするんだ。それで当然のように森園が「俺の出番」とばかりに出しゃばるんだよね。


「0を割ることも0で割ることもできないんじゃないですか? ないものは割れないし」

「森園君はすぐに答えを言っちゃうからなぁ。ちょっと議論しようよー」

「先生、議論いいから先に進みましょうよー」 


 その時、山科が手を挙げた。


「いいですよ、議論しましょう」

「なんだよ山科、また俺にふっかけんのか? この前みたいに習ってないのは無しだぜ」


 と森園。山科は涼しい顔で「習ってる範囲で」とだけ答えた。


「元の数を3として、3×0=0、3÷0=不可能ってことですよね。でももしも、3×0÷0なら、計算順によっては3にも1にも0にもなる」


 教室がざわつく。指を折って計算してる人もいる。


「3×(0/0)とすれば、0/0は約分されて1になるから3×1で答えは3になる。だけど(3×0)/0なら、3×0=0で分子は0、分母も0で、約分して答えは1。0×(3/0)なら(3/0)に0をかけるわけだから答えは0。ゼロ割を不可能とする答えを許可するなら、解答は4通りになる」


 どうしたんだ、山科。いつもならここまで詰める前に「やっぱりいいです」って引くのに。


「反論ある人、どうぞ」


 そう言った山科は、なぜか森園じゃなくて富樫を見た。富樫は「俺は無ーい」って瞬殺で戦線離脱してる。それを見た森園が負けていられないとばかりに食いついてくる。


「0は特別な数だから整数の枠を超えたらまた違うんじゃないか?」

「じゃあ例えば、有理数×無理数は無理数と言われてるけど、有理数である筈の0に無理数をかけたら0になる、つまり有理数になるよね。この時点で最初の前提は覆される」

「あ……」

「それに『有理数÷有理数は有理数である』という前提に於いて、有理数である筈の0をそこに代入して0÷0をしたときに解が無いとするのは、さっきの前提をいきなり否定するものだ。そうなると有理数÷有理数=有理数とは限らないということになる。一般に言われている通りの解だけとは限らない。森園はこれをどう説明する?」


 森園は言われていることが即座に理解できないようで、ぽかんとしている。


「あー、山科君、それ本気で議論する?」


 八尾先生が割って入った。そこで山科は初めてハッとしたように周りを見回した。みんなが山科に注目している。まあ当然と言えば当然だけど。


「あ、すいません。いいです。五分じゃ終わらない議論でした」


 そう言って彼は俯いてしまった。どうしたんだろう、山科。

 そこでチャイムが鳴った。いろんなことがうやむやのまま、数学の授業は終わった。

 窓際では、カーネーションが季節外れの蕾をつけていた。

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