第4話 虚数

 六月に入って最初に席替えがあった。今回はあの宇宙人・山科の隣の席になった。そして、益々彼の宇宙人ぶりを目撃することになった。


 まず、彼は数学の時間、授業を聞いていない。てんで聞いてない。まったく聞いていない。

 あたしは最前列の一番窓側の席で山科は隣だから、黒板の方を見ようとすると否が応にも山科の机の状態が見えてしまう。

 国語や社会の時間はまじめにノートをとっている。それも途轍もなく汚い字だ。ミミズが這ってるとかくさび型文字とかそんなレベルじゃなくて、暗号? 早稲田式速記? とにかくわけわからん文字だ。自分が読めればいいらしい。テストのときなんかはもうちょっと他人の読める字になってるから、書こうと思えば書けるんだろう。


 そして数学の時間。彼は何か英語のような、何かの式のようなことを書いている。何やってんのかさっぱり理解できない。

 思い切って彼に聞いたことがあるが、「画像編集用ツールを作ってるんだよ」と言われた。「それってパソコンでやる何かじゃないの?」と聞けば、「そう。簡単に素人でも画像編集ができるようなツールをプログラミングしてるんだ。いつかオペレーティング・システムを作りたいとは思ってるけど」と軽く返されてしまった。オペレーティング・システムって! 実に軽く言ったけど、オペレーティング・システムってウィンドウズとかそういうのじゃないの? ねえ、違うの?


 そして今日も数学の時間は電子回路図をせっせと設計してる。先生の話なんぞ一つも聞いてない。これで数学百点なんだから理解できないんだよなー。

 ま、もっとも八尾先生は授業の最後五分くらい残ると、二年や三年で習うようなことを先取りでちょこっと教えてくれたりするんだけどね。まさに今日もそのパターン。三年で習う『ルート』とやらの解説が始まった。


「というわけで、平方根というのは二乗の逆のことを言います。5の二乗も、マイナス5の二乗も、25になりますね。だから25の平方根はプラスマイナス5になります。それでは質問しますよ~。49の平方根は何ですか、富樫君」

「はーい、えーと、7でーす」


 元気に答える富樫に、周りから小声でツッコミが入る。


「プラスマイナスつけろよ」

「あ、そっか、プラスマイナス7でーす」

「そうです。必ずプラスマイナスをつけましょう。2乗すれば正の数も負の数も必ず正の数になりますね。ではルート1は何ですか。答えられる人はいますか?」

「はい」


 森園だ。


「1です」

「はい、正解」

「先生、プラスマイナスついてないでーす」


 すかさず富樫が声を上げる。


「平方根にはプラスとマイナスがありますが、ルートは正の数だけです。負の場合はマイナスルートxと表します。だからこれは森園君が正解」

「げ、俺もう無理、ついてけねー」


 早くも富樫が万歳してる。あたしはとっくに戦線離脱してるけど。


「では森園君にもう一つ」


 八尾先生がニヤッと笑った。この人たまに意地悪問題出すんだ。


「ルートマイナス1は何ですか?」

「えー? 二乗して負の数になるものは無いから、ありません」

「そうです。森園君、正解」


 クラス中がわあっとどよめく。『ありません』なんて答え、思いつかないよ。しばらく悩む時間が必要だよ。この短時間で答えられるって、悔しいけど森園はほんと賢いな。大体、これって三年で習う内容だよ? 先生遊んでるだけだよ? なんで答えられんのよ。


 ……と思ったその時だ。電子回路図からすっと顔を上げた山科がこう言い放ったんだ。


「ありますよ。先生、嘘はダメです」


 え、話聞いてたんだ、この人。

 森園が立ち上がる。


「なんだよ、じゃあルートマイナス1の答え、言ってみろよ」


 森園は自信がある分だけ、自分の答えを違うと言われるのを嫌がるんだ。すんごいプライド高い。こうなると俄然、山科にガツンとやって欲しくなる。

 ところが山科は顔色一つ変えずにしれっと答えたんだ。


「虚数アイだよ。厳密にはプラスマイナスi」


「いや、山科君、それはまだ教えてないから」


 先生が慌てて両手を振る。教えてないことをたまたま知ってたんだ、山科。


「ルートだって三年で習う内容ですよね。それに虚数を教えていないと言うなら、実数の中でという条件を付けるべきです」

「実数と虚数は中学ではやらないからね」

「そういうことであれば……あ、いえ、いいです。なんでもありません」


 山科は途中で辞めてしまった。なんでだろう。あたしは聞きたかったのに。きっと後で習うんだ、高校とか行ってから。なんで山科そんなの知ってるんだろう。

 山科はつまらなそうに眼鏡をかけなおすと、また電子回路図に向かった。


***


 休み時間、気になって山科に声をかけた。

「ねえ、さっきのキョスウって何?」


 彼はすっと顔を上げると、「二乗してマイナス1になる数」と平然と答えた。意味が分からない。


「だって、どんな数も二回かけたら絶対プラスになるじゃん」

「だから虚数なんだよ。円周率だって3.1415926535ってずーっと言わないし覚えられない。何故なら無理数であって循環しないから。未だに世界一のスーパーコンピュータを使っても計算すら終わっていない。終わるわけがない、無理数なんだから。だからπという記号を使う。それと同じで『二乗してマイナス1になる数』なんていう実態のつかめない数だから『虚数』と呼ばれ、iで表わされる。imaginary number のこと。極めて合理的だよね」


 合理的っていうのかな、なんか微妙に話がずれた気がする。しかも説明聞いてもよくわかんない。これ以上聞いてもわかる気がしない。とにかくよく分かったことは『山科が宇宙人だということ』だ。


「でもさ、さっきあれ以上言っても仕方ないと思ったんだ。わからない人にはわからない、今教わる気のない人に何を言っても仕方ない。僕は意味のないことをするのは好きじゃない」


 何だろう。一瞬、山科が凄く寂しそうに見えた。とても孤独に見えた。


「ごめん。キョスウ、理解できなくて」

「なんで桑原が謝るの?」


 山科が心底不思議そうな顔であたしを見た。



「だって、誰も理解できないと……山科が一人ぼっちになるから」


 なんでそんなことを口走ったのか、自分でもわからなかった。だけど山科は目を見開いてあたしを見ていた。


「ありがとう……」


 山科が、その場に全くそぐわない言葉を言った。だけどあたしは、その言葉がなぜかすんなり入ってきた。

 あたしも宇宙人なのかもしれない。

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