第27話 仕事

「アスペ同士仲良くやってろよ」


 ――‼


「てめえ! もう一度言ってみろ!」


 富樫が佐々木に殴り掛かる。森園が咄嗟に二人の間に割って入る。

 思わずあたしは富樫の腕に飛びついた。


「ダメ、富樫!」

「この野郎! 山科に謝れ!」

「何お前、山科とおホモだち? 山科には桑原が居るから諦めろや」

「何だと!」

「真に受けちゃダメだって、富樫、落ち着いてよ!」

「うるせえ、放せ!」


 一瞬視界が揺れて、衝撃とともにあたしは後ろに吹っ飛ばされた。後ろにいた人が抱き留めてくれたけど、あまりのショックにしゃがみこんでしまった。

 顔が痛い。あたしを振り払った富樫の腕が、勢い余って顔を直撃したんだ。状況は理解できたけど、感情が追い付かない。びっくりしたのと顔の痛いのとで、涙がボロボロこぼれてきた。あたしを受け留めてくれたらしい人が一緒に座り込んで、「大丈夫?」って肩を抱いてくれた。


「あ、桑原、ごめん!」


 富樫の慌てる声が聞こえる。だけどあたしは突然のことにただただびっくりして、涙が止まらない。「大丈夫だよ」って言いたいのに、泣いてしまって言葉が話せない。仕方ないから両手で顔を押さえたまま何度も頷いて見せるんだけど、どうにもこうにも涙が止まらなくって、自分でもどうしたらいいのかわからない。


「ごめん、桑原、ほんとごめん」


 謝られるのも辛くて、うんうんって頷いて。

 そのうちに気を利かせたらしい真由が「富樫、もういいから」って彼を引っ張って行く。どうしよう、早く涙止めなきゃ。


「もう今日の練習無しでしょ? 塾の宿題あるから」


 誰か女子の声がして、何人か戻っていく足音が聞こえる。バラバラと少しずつ散っていくその音に、しばらくして森園の落胆した声が重なる。


「今日は仕方が無いから解散しよう。……富樫」

「ああ」

「山科、あと頼んだ」

「うん」


 あたしの頭のすぐ上で返事が聞こえた。

 そうか、この手は山科だったのか。やだ、どうしよ、こんなに泣いたりしてみっともない。だけど、涙を止めようとすればとするほど止まらない。


「桑原、唇、血が出てる」


 ポケットからティッシュを出して、こっちに押し付けてくる。


「ごめ……ありが……と」


 ああ、もう、言葉が出ないよ。


「今日はフルート吹かない方がいいよ。却って治るの長引いちゃうから」


 あたしは黙って頷いた。

 山科、こんなに優しくしてくれるのに。あたしは本当に酷い奴だ。どんな顔して山科を見たらいいんだろう。


 あたしはさっきほんの一瞬でも思ったんだ、「アスペ同士仲良くやってろよ」って言われたとき。「あたしはアスペじゃない」って!

 あたしだって山科を差別してたんじゃないか、綺麗事言って、山科に頼ってたくせに、こんな時には「山科とは違う」って思ってるんじゃないか。

 それなのに山科は何を言われても動じずに、あたしをかばってくれて、寄り添ってくれてるじゃないか、怪我の心配してくれて、部活のことまで考えてくれてるじゃないか。

 あたしは自分の事しか考えてない。ほんと酷い人間だよ。山科のことわかったような気になって、何にもわかってないよ。


 自分の愚かさに益々涙が止まらずにいると、山科がふと、あたしから離れて立ち上がった。そのままピアノの前まで行くと、おもむろに椅子に腰かけた。

 右足がペダルに乗る。両手が鍵盤の上に添えられる。


 それはいきなり始まった。聴いたことのある曲だ。名前は知らないけど、有名な曲なんだろう。右手と左手がバラバラに動いてる。あ、バラバラに動くのは当たり前なんだけど、右手が三連符なのに左手が八分で、ちょっとずつずれてる曲。

 だけどとても透明感があって……キラキラしてるような素敵な曲。


 ああ、山科みたいだ。なんかズレててバラバラなのにバランスが完璧に取れていて、それでいて素直で透明で綺麗で、しかも摑みどころがない。

 その曲の美しさにぼんやりと聴き入っているうちに演奏は終わり、山科が戻ってきた。


「良かった。涙が止まったね」

「あ……ホントだ」


 不思議だ。いつの間に止まったんだろう。


「もう大丈夫?」

「うん。ありがと」


 山科に手を引かれて立ち上がると「戻ろっか」って促された。

 気怠い空気の中、楽譜を胸に抱えて廊下を歩きながら、ふとさっきの曲が気になった。


「さっきの、なんて言う曲?」


 山科が隣でチラッとこっちを向いた。あれ? やっぱり山科背が伸びてる。入学したとき、あたしよりちょっと大きいくらいだったのに、ずいぶん大きくなってるよ。視線の位置が変わった気がする。


「あれはドビュッシーのアラベスク第一番だよ。どうしても三で刻みたい右手と二で刻みたい左手が一緒に動くんだ。でも結果ちゃんと一つの曲になってる。五組もそうなるよ。いろんな人が居るけど、きっと一つになる。僕にはそれが見えてる。心配しなくても大丈夫だよ」


 あたしはこの瞬間、確信したんだ。あたしは山科のことが好きだ。友達以上の存在として。恋愛とはちょっと違うような気がする。尊敬する大切な人として。


「山科、文化祭、絶対成功させようね。スタンディングオベーション勝ち取ろうね」


 山科がびっくりしたような顔であたしをじっと見て、そして笑った。あのいつもの優しい笑顔で。


「うん、もちろん。最初からそのつもり。やるときは全力でやる」


 そうだ。この人の辞書には『中途半端』って言葉はない。いつも中途半端『させられてる』だけで、彼自身はいつだって全力だ。

 尊敬できる仲間と一緒に何かを作ることがこんなに楽しいなんて。きっと山科から見た相馬先輩もそうなんだろうな、相馬先輩から見た山科も。


「だけど、どうやったらいいかわからないよ。僕が指揮を執ることを嫌がってる人もいるし」

「うん……でも、それは森園の仕事だよ。誰でも必要とされたときに必要とされた仕事をすればいいと思うんだ。山科に必要とされてる仕事は、みんなをまとめることじゃなくて、合唱をいいものにすることだよ。だからそれだけ考えればいいと思う。森園の仕事までする必要はないよ」


 山科はくすっと笑って小さく頷いた。


「そっか。そうだね。僕は僕の仕事をする。桑原の仕事は、課題曲のピアノを弾いて、それから出だしのピッコロを完璧に聴かせること」

「あう~、痛いところを!」


 あたしたちはさっきの重い空気が吹き飛ぶくらい、声を出して笑った。

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