第11話 ピアノが歌う
あれから一週間、あたしは毎日お昼休みに山科に付きあって貰って、ピアノの練習をした。
もちろん家でも練習してきた。ちゃんと山科に出された宿題をこなすように頑張った。と言っても、山科もあたしがあんまり弾けないことをよく知ってるから、今日は頭の八小節目まで、翌日は十六小節目まで、次の日は二十四小節目までっていう風に、八小節ずつ追加してくるって感じで、確実に弾ける部分を伸ばすようにって言ってくれた。
山科は前日までの宿題の部分に楽譜の読み間違いが無いかどうかチェックしてくれて、少々リズムが乱れても「今は
そんな『確実にするところ』と『気にしなくていいところ』を作ってくれたおかげで、
「コードさえ合っていれば、リズムなんてどうだっていいんだ。全音符で一小節丸々伸ばしてるだけだって、コードが合っていれば伴奏になるんだから」
というのが、彼の持論らしい。まあ、確かにそれは言えてる。
そんな感じで十日後には完全に音読みも終わって、リピートやトゥ・コーダのような演奏順もほぼマスターした。あんなに心配したのに、たったの十日で殆ど弾けるようになっちゃったのがウソみたい。そのことが嬉しくて、山科にそれを告げると、彼は「え? これからだよ」と言い出した。
「僕の弾くのと桑原が弾くの、同じ曲に聞こえる?」
「ううん、聞こえない」
「何が違うと思う?」
それがわからないから苦労してるんじゃないか。同じ譜面で同じ音を弾いてるのに、まるで違う曲にしか聞こえないのはどうしてなんだ?
「わかんないよ」
「桑原はピアノを『鳴らして』無いんだよ。もっとピアノに歌わせてあげようよ。みんなばっかり歌ってたら、ピアノがいじけちゃうよ」
そういうことを真顔で言うんだ……。あたしは宇宙人じゃないから、日本語で言って欲しい。
なんて思っていたら、山科があたしの左側に椅子を持ってきて、あたしの座ってるピアノ椅子にぴったりくっつけて座った。凄い接近してますけど!
「桑原んちのピアノはどんなやつ?」
「え? 電子ピアノだけど」
「あー……そっかぁ。じゃあサスティンペダルついてる?」
「何かよくわかんないけど、ペダルはついてる」
「じゃ、二本ついてるなら右側のペダルね。グランドピアノの場合はサスティンペダルって言わないんだ、電子的な伸ばしじゃないから。ダンパーペダルっていう」
「はあ……」
名前なんてなんでもいいんだけど。
だけど大事なことなんだろう、彼は両手で身振り手振り説明を始めた。
「この一番右側のペダルがダンパーペダルね。これを踏むとダンパーが一斉に解放されるから、ミュートがかからない。離すとダンパーが弦に触れるから一斉にミュートがかかる。左二つのペダルはソステヌートペダルとシフトペダルだけど、今は使わないから省略」
「うん」
良かった。これ以上説明されても絶対に覚えられない自信がある。
「じゃ、ちょっとごめん、そっち行くよ」
へ? と思う間に、山科が近寄ってきて、あたしの背中に手をまわした。心臓飛び出るくらいびっくりしたけど、山科はその手であたしの椅子の背もたれの端を握って自分の上半身を固定し、右足をペダルの方に伸ばして、踏み加減がブレないように何度か踏んで調節したようだった。
「じゃ、最初から弾いて。僕がそれに合わせてペダルを踏むから、そのタイミングを体で覚えて」
ああ、そういうことか。やだもう、びっくりするじゃん。
「ピアノ、鳴らすんだね」
「そう、歌って貰う」
そう言って山科はニコッと笑った。そうか、山科はピアノの気持ちになってるんだ。人間同士の空気は読めないけど、言葉のないものの気持ちに寄り添えるんだ。
何となく山科という人が少しずつわかってきた。この人は宇宙人だけど、凄くいい宇宙人だ。
「じゃ、弾くよ」
あたしは両手を鍵盤の上に置くと、合図もなくいきなり弾き始めた。それと同時にペダルが踏み込まれ、ダンパーが解放されるのが指先から伝わってきた。
凄い! これがダンパー解放の音なんだ。気持ちいい、ピアノが鳴ってる! 深みのある音が心地良くあたしの周りの空間を包んでいく。ピアノが嬉しそうに歌ってるのがわかる。これなんだ、山科が待っていたのは。
その山科は右手でしっかりと椅子の背もたれを摑んで、ペダルをちょこちょこと踏み換えてる。こんなに細かく踏み換えるのか。これ、あたしにできるんだろうか。でも、絶対やりたい。この音でピアノを歌わせたい!
最初のリピートまで来ると、山科がペダルから足を外した。急に音が鳴らなくなった。ああ、こんなに違うんだ。
「わかる? この違い」
「うん。でもさ、鍵盤押してる間ってダンパー開放してるんでしょ?」
「そうだよ」
「じゃあ同じじゃないの? 他の音は関係ないじゃん?」
「いや、関係ある。よく聴いてて」
山科は一旦全部の音をミュートしてから、ドの音だけを弾いた。
「これがペダルを踏んでない音。ドの音だけがダンパーに触れてないから、ドの音が響く。当たり前だね」
「うん」
「じゃあ、次はダンパーフル開放でドの音だけ弾くよ?」
山科がペダルを踏みこんでからドの音を弾いた。
あれ? 響きが違う。なんで? どうして?
「違うでしょ?」
「うん、なんで違うの?」
山科がふふっと笑った。
「他の弦が共鳴してるんだよ。倍音が僅かに響いて、音に深みが出るんだ。これを『ピアノが歌う』って言うの」
「へー! 凄ーい!」
素直に凄いと思えた。あたしには感動的ですらあった。理屈がわかると楽器って面白い!
「さ、それじゃ、続き、自分で踏んでごらん。僕がやったみたいに」
「えー、無理。でもやってみる」
ペダルの位置を確認して、恐る恐る乗っけてみる。思ったより硬い。しばらく格闘して、山科の音と全然違うことに愕然とした。
「ねー、どうなってんの? あたしと山科、何が違うの?」
「ペダルのそばで、よく見てて。まずはこれが桑原の踏み方」
あたしはピアノの下にもぐって、山科の踏むペダルを凝視した。
山科がペダルを目一杯踏んで弾いている。確かにあたしと同じ音だ。
「次、僕の踏み方ね」
音が変わった! え、わかんない、何が違うんだろう?
「わかる?」
「わかんない。音が変わったのはわかったけど」
「ハーフペダルっていうんだ。フルに踏み込まないで、やや浅く踏み込んでる」
言われてみれば確かにそんな感じ。ペダルの踏み方ひとつでこんなに音が変わるなんて知らなかった。繊細な世界なんだ。バイエルじゃこんなのやらないよ!
「山科凄いね。腰に手を当てて胸張って『俺様のピアノを聴け!』とか言っていいレベルだよ。数学のテストもそうだけど、なんで山科、いろいろできるし賢いのに黙ってんの? もっとみんなの前に出てもいいキャラだよ」
急に山科のペダルを踏む足が止まった。顔を上げると、山科が鍵盤を見つめて固まっていた。
「僕はグレーゾーンがわからない脳の作りをしてるから。ここまでは言っていいけどここから先を言ったら嫌がられるっていうのが判断できないんだ。だったらいっそ何も言わない方がいいじゃん」
出た、『漢字の書けない脳の作り』第二弾、『グレーゾーンがわからない脳の作り』。そういう言葉を使う感性を持つ『脳の作り』がどんなものか知りたいよ。
……って茶化そうと思って、今度はあたしが固まってしまった。山科の様子がそれを言わせなかったんだ。
その代わり、あたしの口から出た言葉は、自分でも驚くようなものだった。
「山科、もしかして何か脳の病気とかなの?」
あたし何言ってんだ、変なこと言っちゃった。でも山科はあたしの方を真っ直ぐ見て静かに言った。
「病気じゃないよ。先天性の……障害みたいな感じ」
え、そうなの?
「でも、日常生活に支障はないから。ちょっと変な人だろうけど」
困ったように笑う山科に、あたしは思わず声に熱がこもるのを抑えられなかった。
「変なんかじゃないよ。山科は真面目だし、賢いし、何でもできるし、あたしは山科のこと好きだよ。山科っていう友達ができて、あたしの人生凄い得してると思ってるもん」
あたしはとても真面目に言ったんだけど、なぜか山科が笑いだした。
「人生って……それは大袈裟だよ。でも、ありがとう。僕も桑原と友達になれて良かったと思う。こんなこと、自分から人に話したこと無いし」
「大丈夫。誰にも言わないから。変なこと言われたら、あたしが守ってあげるよ」
だけど山科は苦笑いして小さく横に首を振った。
「いいよ。自分のことは自分で何とかできないと、これから大人になった時に自分が困るから。僕はこの脳と一生付き合っていかなきゃならないんだし」
こんなにたくさんの知識を持ってるのに。こんなに何でもできるのに。できる人はできる人なりの悩みがあるんだ。あたしのちっぽけすぎる悩みとは、きっとスケールが違うんだろう。しかも、その脳と付き合うということを受け入れて、その中で生きていくための方法を模索してる。この人は今までもずっとそうやって生きて来たんだ。
「ごめん、変なこと言って。ハーフペダルの話まで来たんだよね、続き教えて」
「うん」
と言ったところで五限の予鈴が鳴った。
「また明日だね」
山科が肩をすくめて笑った。あたしにはこの小さな山科がとても大人に見えた。
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