第23話 小林先生
「光の当たったところだけ青紫に色に染まるということは、ここだけデンプンが作られているということになるのがわかるね? 逆に、光の当たらないところでは光合成ができないので、栄養分が作られないということになるんだな。この栄養を作る働きをするのが……はい、富樫君」
「光合成?」
「いや、今それ言ったから」
富樫、ウケ狙ってんのかマジボケなのか、みんな爆笑してる。
「えっと、じゃあ……葉緑素?」
富樫が自信無さそうに答えるのを見て、理科の小林先生は元気づけるように笑顔を向ける。
「はい、正解。クロロフィルというやつだな。来年になると細胞の作りについて習うことになるんだけどね、この葉緑素を持つ細胞の器官、知ってる人はいるかな?」
「はい、葉緑体です」
森園、早い。てゆーか、なんで森園はこんなにいろいろ知ってんのよ。
「森園君はもしかして動物細胞と植物細胞の違いを言えるかな?」
「楽勝ですよ。植物細胞には細胞壁と葉緑体と液胞があって、動物細胞にはありません」
クラスがどよめく。塾で先取り学習している森園は、流石に何でも知ってる。
「森園君はもう二年生になっても良さそうだなぁ。来年先生の代わりにみんなに教えるか?」
「いいですよー」
その時、クラスの端の方の席から声が上がった。
「液胞は動物細胞にもあります」
「山科?」
「動物細胞にも存在しているけど、植物細胞のものほど大きくないので、電子顕微鏡でないと観察できないだけです。それに、動物細胞には植物細胞に存在しない中心体というものがあるはずです。細胞分裂の際、中心体が無いと紡錘体が生成されない筈です」
だから山科はなんでそんなことまで知ってんのよ。
「ああ、それは中学ではやらない範囲だね。うん、でもまあそれも正解だな。余裕のある人はその辺まで調べておくと、高校に入ってから楽できるぞ」
「先生、ちょっと納得いかないんですけど」
おっと山科が食いついた。
「動物細胞に無く植物細胞にあるものは何かという問いに対し、中学では細胞壁と葉緑体のみであると答えたら間違いになるんですか? 液胞は動物細胞にもあるからそこに含めないとしてはいけないんですか?」
これは確かに知っている人が不正解にされる可能性のある問題だ。
「そうだね、中学ではそうなるかな」
「それって変じゃないですか? 実際は存在するんですよ、液胞。なのに、『無い』と嘘を教えられて、正しい答えを書くと誤りとされるんですか? それで高校に入ってから『中学で教えたのは嘘で、実は動物細胞にも液胞はあります』って説明するんですか? なんかおかしくないですか? 数学も負の記号の付く計算はとてもバカバカしいことをやってました。1-3=-2でいいのに、1-3=1+(-3)=-2と書かないと間違いにされてしまう、間違ってないのに、ですよ? こんなバカな話がありますか? 中学校の教育は無駄が多いうえに嘘を教えて『今はこれで覚える』っておかしくないですか? どうせ後で正しい形で教わるなら、最初から正しく教えればいいと思いませんか?」
「別にいいじゃん、なんでそんな事にこだわるんだよ」
「めんどくさいこと言って、話ややこしくすんなよ」
「全くこれだからアスペ野郎は」
「しょうがねえよ、あいつ空気読めねえんだから」
ガタンと大きな音がして、富樫が突然立ち上がった。
「誰だ今アスペ野郎って言った奴は!」
周りの生徒が慌てて富樫を押さえる。だが、今度は代わりに森園が喚いた。
「誰だって聞いてんだ! 名乗れねぇのかよ。コソコソと周りに便乗しないと自分の意見も言えねえようなら、最初っから黙っとけ!」
「まあまあ、富樫君、森園君座って。山科君も」
場違いなくらい小林先生はニコニコ顔で三人を座らせると、話を継いだ。
「アスペという言葉が相手を堕とす言葉として独り歩きしているようだけど、君たちはそもそもアスペが何なのか知ってるのかな?」
誰も何も言わない。山科がアスペルガーだということは本人の口から聞いて知っているが、そのアスペルガーなるものが一体何なのかについては、言われてみればよくわかっていないのだ。
「先生の知り合いに一人アスペルガー症候群の人がいる。驚くほど頭がいい。回転が速すぎて誰もついて行けない。その人はIQが百三十八あってねぇ。標準が百で、IQは三十違ったらもう会話が成り立たないと言われてる。実際彼とはなかなか会話が成立しない。しかし、彼は今、大学で教鞭を執っている。ま、生徒からは字が汚いというので不評だけどね」
山科の字は恐ろしく汚かった。楔形文字でも象形文字でもなかった。速記みたいなわけのわからない記号っぽかった。
「アスペルガーというのは、脳の回転が速すぎて、手や口がついていかないんだ。だから言ってることが意味不明だったり、凄まじく汚い字を書いたりする。脳が速すぎるんだ。君たちはそんな凄まじいスピードで回転する頭脳と一緒に居るのだとしたら、それはとても幸運なことだ。サッカーが得意、音楽が得意、お料理が得意、そういうのと同じようなもので、一つの個性として存在しているんだよ。もしもこれからの人生で、君たちの周りにアスペルガーの子が現れたならば、君たちは本当にラッキーだ。その人からたくさんのことを学ぶことができるだろう」
小林先生は山科がそのアスペルガーであることを知らない。逆に小林先生だけが知らない。みんな微妙な面持ちで、こっそりと窺うように山科の表情を盗み見るが、彼は相変わらず表情一つ変えることなく座っている。
そのまますぐにチャイムが鳴り、山科の質問もうやむやになったまま小林先生は職員室へ戻っていった。だけど、五組は誰一人として動かなかった。小林先生が教室を出ると同時に、森園がみんなに席を動くなと言ったからだ。
「たかだかクラス委員長にこんなことを言う権限はないことはわかってる。だけど敢えて委員長として言わせて貰う。今後この一年五組では『アスペ』という言葉は禁止だ。一言でも言ったら俺はクラス委員長を降りる。言った奴が責任持って委員長をやれ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます