第8話 弾けるのか

 二学期が始まった。まだ真夏の太陽がガンガン照り付けていて、もう少し夏休みにしておいて欲しいって心底思う。

 カーネーションも理科室から一年五組の教室に戻って来て、通常運転再開だ。

 案の定という感じではあるけど、テニス部、野球部、サッカー部、陸上部なんて連中は真っ黒に日焼けして、国籍不明みたいになってる。

 早速、夏休み中の報告を友達同士でしあったり、旅行のお土産を渡したりする光景があちこちで展開されている。あたしのところにもりんがお土産を持ってきてくれた。沖縄のお婆ちゃんちに行ってきたらしい。みんなに『ちんすこう』を配って回ってる。


「はーい、命の塩と書いて『ぬちまーす』のちんすこうだよ。これ一番好きなんだ~。ちょっと残ったから、真由と美咲には二個ずつね」


 おおっ、出血大サービスじゃん! あたしはどこにも行ってないんだよ、土産がなくてごめんよ、凛!


 さて、凜から袖の下を受け取ったナガピーの二学期最初のHRは、彼のとんでもない爆弾発言からスタートした。


「みんなに重大発表があります。どーだ、聞きたいか? 聞きたいだろー?」


 ナガピー、こんなところで笑い取ろうとするな。


「もう引っ張らなくていいからさっさと言ってくださーい」

「早よ!」

「聞いてやんないよー」

「まあ、待て。十一月に文化祭があるのは知ってるな。一年生は全クラス合唱をやることになっています。課題曲は去年と同じ『気球に乗ってどこまでも』、自由曲は各クラスで話し合って自由に決定します。ピアノ伴奏をそれぞれ一名ずつ選出し、二曲とも一人の人がピアノを弾くことが無いようにしてください」


 さあ、それからが大変だった。無理難題吹っ掛けられたクラス委員の森園と真由、それと合唱部の連中と、小学校時代の合唱部の子たちが中心になって、あーでもないこーでもない。みんなの知らない曲もあるもんだから、合唱部軍団が、サビの部分を歌ったりして、やっとこさっとこ決まったけれど、今度はピアノ伴奏が決まらない。


「ピアノ弾ける人、いませんかー」

「あたしちょっとだけやったことある」

「おおっ、五組の救世主、ちんすこうの凛!」

「ちんすこう言うなー、ぬちまーすの凛と呼べ」

「何が弾ける?」


 うん、そこ大切だよ。さすが真由、目の付け所が違う。


「バイエルやったくらい」


 え? その程度でいいの? じゃあ、あたしも手を挙げてみようか。

 ドキドキしながら、恐る恐る手を振ってみる。


「あたしブルグミュラーに入ったよ」

「何それ美味しいの?」

「バイエルよりはブルグミュラーのほうが難しいよね」

「うん、多分。わかんないけど。バイエル終わってから始めたから」

「すげー、ぬちまーすの凛の上を行く、ブルグミュラー美咲」


 なーんて会話がいくらか続いて、結局ピアノを弾けるのがあたしと凜しかいないってことがわかった。とは言っても、あたしはやっとブルグミュラーに入ったところだし、凜はバイエルしかやってない。こんなので本当に大丈夫なのか?


 さ・ら・に!

 数日後のHRの時間、真由が仕入れてきたその楽譜を見て、あたしと凜は口から泡を吹いて倒れそうになった。


「ちょっと待って、これ何?」

「無理、これは絶対に無理!」

「ツェルニー百番やってたら弾けるって言ってたよ」

「ツェルニーってブルグミュラー終わった人がやるんだよ! あたしブルグミュラー始めたばっかなんだよ!」

「私なんかバイエルだよ、絶対無理、ありえない」

「練習したらできるんじゃない?」


 そういうレベルじゃないよ、これ。なんかコードみたいなの書いてあるし、自由曲なんかシャープが五つもついてる。あたしたちの読める楽譜じゃない。凜が泣きそうな顔になってる。


「ね、ほんと無理だから。美咲が無理なのに私が弾けるわけないよ」

「マジでこれは無い。ほんと出来ない」

「そう言わずにちょっと練習してみてよ。やってみてからでも遅くないでしょ?」


 完全拒否状態に入ったあたしと凜に、真由がなだめるような声を出すけど、そういう問題じゃない。


「そんなレベルじゃないんだってば。じゃあ真由弾いてみる?」

「私はピアノ弾けないもん」

「だからあたしたちだってそんなに変わらないんだってば」


 あたしと真由の言い争いに、責任を感じた凜が泣き出してしまった。あたしだって泣きたいよ。こんなの絶対無理じゃん。あたしにも無理だって思うのに、凛が弾けるわけないよ。

 あたしたちが投げ出した譜面を、一番前の席の山科が拾って几帳面にページを揃えている。


「ごめん、あたしにも無理、絶対無理。みんな、ごめんだけど、曲、選び直して」


 小さなブーイングが聞こえる。


 ――ピアノやってんなら、少し練習すればできるんじゃないの?

 ――やりもしないうちから無理って決めつけないで欲しい。

 ――じゃあ、誰が弾くんだよ。


「待てよ」


 突然富樫が立ち上がった。


「そんなこと言うなら自分らで弾いてみろよ。桑原だって峯本みねもとだって、みんなの為に手を挙げたんだろ? 自分にできないことを人に押し付けてんだからさ、その人が無理って言ってんだから曲変えたらいいだけだろ」

「今からまた変えるの?」

「また新しい譜面準備しなきゃなんないじゃん」

「じゃあどうすんだよ、文句言うなら案持って来いよ!」


 教室がざわつく。険悪なムードが漂い始めた。ナガピーは何も言わずに成り行きを見守ってる。あたしは泣き出した凜の背中をさすってやりながら、自分も泣きたい気分だ。


 その時、よく通る声が響いた。


「僕が弾く」


 山科?

 教室が一瞬静かになった。山科は譜面に目を落としながら何ページかめくって、続けた。


「曲、そのままでいいよ。課題曲は簡単だからブルグミュラーで弾ける。かなり頑張らなきゃならないけど、桑原なら無理じゃない」


 まさか山科までそんなこと言うなんて。あたしは我慢していた感情が一気に噴き出して、山科を怒鳴りつけた。


「あたしが弾けるレベルじゃないよ! 簡単なんて無責任なこと言わないでよ!」


 だけど、山科は表情一つ変えずにあたしの目をまっすぐ見た。


「だから責任持つ。弾けるようになるまで僕が教える。自由曲の方は僕が弾くよ。それでいいでしょ」 

「山科……ピアノ弾けるのか?」


 恐る恐る声をかけてきた森園に、山科はきっぱりと言った。


「弾けるのかじゃない、弾くんだよ」

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