第9話 ピアノの先生

 昼休み、あたしは山科と一緒に音楽室に行った。というか、半ば強引に山科を拉致して連行したと言った方が正しい。だけど、彼も嫌がらずに素直についてきたから、合意の上ということにしていいだろう。

 あたしは山科をピアノの前に座らせて、そこに課題曲の譜面を置いた。


「責任、取ってくれるんでしょ」


 あたしの言い方は少しムッとしていて、感じ悪かったかもしれない。もし山科とあたしの立場が逆だったら、きっと「何こいつ」ってムカついたと思う。

 だけど、山科はあたしと違った。この人はそういう人間じゃなかった。

 山科は黙って頷くと、右足をペダルにかけた。

 ペダルだよ、ペダル。この人ペダルの使い方わかってんの? あたしだってまだ使ったことないんだよ?


「譜面追って、最後二小節まで来たらめくってくれる?」

「え?」


 意味を確認する間もなく、いきなり山科は両手を鍵盤に置いてピアノを弾き始めた。

 え、ちょっと待って、これ、初見だよね? この楽譜弾いてるの?

 あたしは慌てて譜面を追う。どうやら本当にこの曲を弾いてるっぽい。だけどあたし自身が譜面を追えてない! 今どこ弾いてるの? 左のページ? 右のページに入ってる? ちょっと待って、どこ弾いてんの!


「めくって」

「あ、はい」


 慌てて譜面をめくる。次のページに行ったことで、なんとかどこを弾いてるか見つけることができた。

 っていうか。凄い。初めて見た譜面をちゃんと弾いてる。弾けてる。曲になってる。あたしは譜面追っかけるのだけでも必死なのに。


「リピート無しで行くよ」

「え?」

「すぐ2カッコ。あ、ダ・カーポある、合図したら戻って」

「えええ、どこに?」

「アタマ」


 喋りながら弾いてる! 嘘でしょ、この人なんなの?


「戻って」

「はい!」


 しかもギリギリでダ・カーポ間に合わせたのに、正確に弾いてくる!


「このパターンだと、絶対トゥ・コーダがあるから注意して」

「何それ」

「変なマークがある。それが見えたらコーダに飛ぶ」

「わかんないよ!」

「あ、見つけた。僕が言ったタイミングで最後のページ出して」

「うん」


 曲はどんどん進んでいく、喋りながらも山科は自然に演奏していて全く無理を感じない。ちょっと、この人ペダルとか踏んでるよ、そんな指示、どこに書いてあるんだ?


「トゥ・コーダ」

「あ、はい」


 急いで最後のページを出す。山科の口元がちょっと綻ぶ。


「いいタイミング。弾きやすいよ」


 褒められてんの?

 山科の手が滑らかに動く。小さな体の割に大きい手だ。1オクターヴに余裕がある。

 軽快なリズムに乗ったまま、課題曲はさらりと終わった。


 あたしがその技術に圧倒されて、ただぽかんと口を開けて見ていると、いつの間にか廊下の窓から覗いていた富樫と真由が盛大な拍手を送りながら入ってきた。


「すげえじゃん山科、ピアノめっちゃうめえじゃん!」

「そうだよ、なんでピアノ弾ける人募集したとき立候補しなかったの?」


 山科は困ったような顔で首を傾げた。


「もっと上手でないと立候補しちゃダメなのかと思ったから」


 こいつ天然か、天然なのか!


「で、どうなの美咲、できそう?」


 こっちに振るのか。


「なんか無理っぽい。こんなの弾けないよ」

「いや、弾ける。バイエル終わってるなら弾ける」


 山科が真面目に答える。もともとあんまりふざけない人だけど、恐ろしいくらい真面目に話してるのがわかる。


「ここ見て。それぞれの小節の頭にEmとかCとか書いてある。これがコード。コードが変わるタイミング見て。殆どが小節の頭だよね。裏を返せば一小節の間でコードが変わることはないってことなんだ」


 山科の長い指が譜面を追っていく。確かに山科の言う通り、小節の頭にしかコードは書かれていない。ごく稀に四拍目に入っているくらいだ。


「コードが変わらないということは同じ和音で四拍分稼げる。その四拍の間に次のコードを読んでおけばいい。先読みができるってことなんだ。コツさえつかんでしまえば全然難しい曲じゃない。大丈夫。桑原なら弾ける」

「そうかなぁ」

「あとはリピートのタイミングとダ・カーポの場所、トゥ・コーダの飛び先だけ覚えればいい。コードだって難しいコードは無い。大丈夫。心配しなくていい」


 何だろう、山科が大丈夫って言うと、本当に大丈夫な気がしてくる。

 そこに「なあ」と、富樫が割り込んできた。


「山科が弾いたやつを録音して、何度も聴いて覚えてしまうってのどうだ? 自分が間違ってた時にすぐにわかるだろ? スマホで録音してさ」

「だけどスマホは学校に持ってきちゃダメじゃん」


 確かに真由の言う通りだ。何かいい方法ないかな?


「俺が先生に交渉してやるよ。これだけのために持ってくるってことと、録音する以外の時間はナガピーに預かってて貰うことをきちんと伝えれば、ナガピーだって了承してくれるはずだよ」

「じゃあ、それは私と富樫に任せてよ。美咲と山科は練習に集中してさ、そういう雑用は私たちでカバーするから」


 富樫と真由の協力が嬉しい。こうなったら腹を括って頑張るしかないか。


「わかった。山科にデモ演奏弾いて貰って、録音して毎日聴くよ。頑張って練習する」

「よし、じゃ、二人はピアノ練習して。俺は竹田と一緒にナガピーに交渉に行って来る。行くぞ、竹田」

「あ、うん。美咲も山科も頑張ってね!」


 富樫に引っ張られて、真由がめちゃくちゃ嬉しそうに(ちょっと照れながら)行ってしまった。


「じゃあ、僕たちも頑張ろうか」


 振り返ると、山科がふんわり笑ってた。『ふんわり』っていう言葉がぴったりな笑い方でドキッとした。凄く目が優しくて、いつもの山科じゃないみたいで、なんかドキドキしてしまった。


「うん、まず音楽用語、教えて」


 山科は立ち上がるとあたしをピアノの椅子に座らせて、自分はその横に別の椅子を持ってきた。まるでピアノの先生みたいだ。


「じゃ、ダ・カーポから」


 そういって胸ポケットからシャーペンを出した。

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