第25話 タクト返します
「そこはアタマの一打だけに一発の装飾音が付くから、左手で装飾音、アタマは右手、だから左手は十六分二連打になる。別に右手二連打にしても構わないけど、とにかく十六分が乱れなければそれでいい。それと、パーカスは全員、最低でもルーディメンツは練習しておくべきだと思う」
「ルーディメンツって何?」
パーカスからの質問に山科は小さく溜息をつく。
「マーチングなんかで使うスティックワークの種類とでもいうか、パラディドルとかフラムとかラタマキューとか聞いたことない?」
「ない」
呆れられそうな即答にも山科は真面目に頷いた。
「じゃあ、勉強しといて。パーカスは全員できて当たり前だから。あと、トランペットだけど……」
トランペットの連中がビクッとする。何を言われるかドキドキするんだろうな。相馬先輩が指揮してもこんなにビクビクされることはなかったのに、山科が振るととても高度な要求が飛んでくるから、気が気ではないってのはなんとなく頷ける。
「このEに入ってすぐ、これはスラーついてるのわかる? タンギングがうるさいんだよ。レガートで滑らかに往復して欲しいところだから、そこはリップスラーで」
「はい」
返事はしてるけど、顔に「できません」って書いてある。でも、それを言える雰囲気じゃない。山科はそういう空気、読めるんだろうか。
「ホルン。そこはいきなりドーンと入るんじゃなくて、ええと、山の向こうから、こう、ふんわりと山を越えてくるようなイメージでスーッと飛んでくる音にして欲しい」
山科が身振り手振りで必死に伝える。山ってアルプス山脈と赤石山脈じゃ随分違うけど。
「どう? できる?」
「やる」
「そういう返事、僕は好き」
ホルンと山科がにっこり笑い合う。そうか、山科はいつだって前を見てる。進むことしか考えていない。それが彼の強さなんだ。
「フルート」
「は、はいっ!」
他人事じゃなかった! ビクッとした瞬間、椅子がガタンっていって、すっごい恥ずかしい。
「DからEにかけて、速いパッセージで動き回るところ、リズムが甘い。それとここにはシンコペーションでアクセントがついてる。このアクセントが甘いんだ。もっとメリハリつけて刺さるように。舞曲だからね」
「はい」
ピンクのペンで譜面のアクセント記号にぐるぐるって丸を付けて『メリハリ』って書きこむ。
「それとここはシロフォンと掛け合いになるから、絶対にリズム崩さないように。ここ崩れたら、ほぼフルートの責任」
「はいっ」
えええ、マジですかー。泣きたいよー。
「シロフォン、もしもフルートがついて来なかったら置いてっていいから」
「はーい」
くっそー、絶対に食いついてってやる!
あたしが後ろを振り返ってシロフォンを睨むと、向こうはあたしを見てニヤニヤしてる。あーくそっ。
「じゃ、もう一度Cから。何もなければそのまま通しで最後までいきます」
山科がタクトを構える。
あれ、山科ってこんなに大きかったっけ。なんだろう、指揮してる時の山科って、すごく大きく見える。
山科のタクトにみんなの音が吸い寄せられていく。なんて言ったらいいんだろう、引力みたいなものがあって、タクトの先に音が集まってくるっていうか。
ホルンの音が変わった。ああ、山の向こうから……凄い、ちゃんと言われたとおりに吹けてる。テナードラムとやらの装飾音はイマイチだけど、トランペットのスラーはさっきより良くなってる。リップスラーが完全じゃなくても、ちょっと意識を変えるだけでこんなに音が変わるんだ。
山科があたしの方に視線を送ってくる。あ、そうか、シロフォンとの掛け合い!
めちゃめちゃ緊張しながらシンコペでアクセントを刻む。メリハリを意識して、シロフォンに食いつくように!
山科が突き刺さるような鋭い視線を送りながらも、口元に笑みを浮かべた。ひょっとしていい感じだったのかな?
そのまま特に大きな問題もなく最後まで演奏しきって、山科はタクトを下ろした。
「相馬先輩。ちょっと振って貰えませんか? 相馬先輩のタクトに代わっても同じ音が出せるかどうかチェックしたいんですけど。それでOKなら、そろそろピアノを入れて合わせた方がいいと思います。本番まで日が無いので」
山科のすぐそばでその指揮を見ていた相馬先輩が立ち上がった。
「了解。私じゃここまで引っ張れなかったと思う。ありがとう、山科君」
相馬先輩の目が優しい。全部を山科に託してる目だ。あの厳しい相馬先輩にあんな目をさせるなんて。
山科からタクトを受け取った相馬先輩は、いつものように背筋をすっと伸ばしてみんなを見渡した。
「久しぶりだなぁ。どれだけみんなが成長してるか楽しみだよ」
そう言って彼女はタクトを構えた。
***
「こんなに指揮が楽しいなんて」
相馬先輩はタクトを静かに下ろしながら言った。
「みんなの音がこの棒の先についてくるって感じたの、初めてだよ」
心底幸せそうな相馬先輩を見て、あたしまで嬉しくなる。だけど、単純に嬉しいだけってわけじゃなくて、なんかちょっと複雑ではある。
「山科君のお陰だよ。ほんとにありがとう」
「先輩、喜ぶのはまだ早いですよ。今は吹部だけで息が合ってますけど、ここに僕のピアノが入るとまたバランスが変わります。ここから先は先輩の采配次第ですよ」
あーもう、先輩の大感動が台無しじゃん! 山科、もうちょっとだけ空気読んでよ!
「大丈夫。ここまで出来上がっていたらあとはそんなに大変じゃないよ。一番大変なところは山科君がやってくれたから、私でも大丈夫」
「じゃ、指揮は先輩にお返しします。僕はピアノ入ります」
いよいよだ。いよいよこの曲の本当の姿が明らかになる。
山科がピアノ椅子の高さを調整する。グランドピアノの屋根をフルオープンにして、鍵盤の蓋を開けた。それだけで空気がピーンと張り詰めるのを肌で感じる。
確かにみんながまるで揃っていない頃にほんのちょっとだけ山科が一緒に弾いたことがあったよ、CからDにかけての部分だ。あの日、少しのスケールとドミナントなんとかっていうのが入っただけで、もう全然イメージが違ってた。だけど、全曲通してピアノが入るのは初めて。この曲がどんなふうに化けるんだろう。
ワクワクとドキドキ(というよりバクバク)がごっちゃ混ぜになったまま、相馬先輩の構えるタクトに、みんな揃えて楽器を構えた。
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