第1章-5 嫌がらせはコーヒーの香り

「これは…。」

 私は自分の席を見つめながら苦々しくつぶやいた。

「これは由々しき事態ですねぇ。」

 同じくお昼を早くあがってきたミカちゃんが合いの手を入れる。今日はケン君とはランチをしなかったようだ。

 いや、そんなことはどうでもいい。私はこの目の前のめんどくさい事態にため息をついた。

 私の席に戻った時、変な匂いがしたことから違和感を感じ、用心していたのが幸いした。

 さすがにパソコンに細工するのは憚られたのだろう、私の席に置いたクッションからコーヒーらしき漆黒の液体が床へ滴っている。クッションの色は黒だから目立たないし、何も考えずに座ればコーヒーがスカートに染みていたはずだ。もし、かけられた直後ならば火傷をしたかもしれないから悪質な嫌がらせだ。

「とりあえず、クッションは撤去して廃棄ね。」

 給湯室から借りたゴム手袋をはめて、クッションを持ち上げてゴミ袋へ放り込む。あとは床と椅子に雑巾がけすれば大丈夫だろう。床のカーペットに染み込んでいるだろうが、チャコールグレーだから目立たないはずだ。床がコーヒー臭くなるならばファブリーズすればいい。

 クッションが無いと座り心地が悪くなるが仕方ない。午後は我慢して帰りに適当なものを買おう。

 そう考えながら黙々と掃除していたら、ミカちゃんが鼻をひくつかせて訝しげに話しかけてきた。

先輩せんぱぁい。まだ何か匂いませんかぁ?」

 確かにコーヒーの臭いだけではなく、キンモクセイやラベンダーの匂いが混ざっている。ミカちゃんの言葉に不安に感じながらも私は引き出しを開けてみる。その瞬間、強烈な匂いが充満した。

「うぐっ…これは…芳香剤のゲル状粒ですね。うわあ、これ2、3個分はぶちまけられているしぃ、よぉく見ると液体の芳香剤もかけられているぅ。やだあ。」

 ミカちゃんはハンカチで鼻を押さえながら言った。私もあまりの臭いに頭痛がしてきた。引き出しには貴重品はないものの、中には書類の下書きや起案書などがある。液体をかけられていたこともあり、それらは全て滲んでいた。ああ、あの添削入り見積書も台無しだ。

「これって、この社内のトイレ芳香剤を集めてぶちまけたってこと?」

 鼻をハンカチで押さえながら私は推理したことを話した。

「でしょうねえ。数からしてえ、この階のものをささっと集めたようにも思えますぅ。犯人は余程慌てていたのでしょうね。多分、この階のお手洗いの芳香剤が無くなってますよぉ…ぐふっ。引き出しを開けなければ発覚しにくい用意周到なトラップってところ…げほっ。」

 ミカちゃんもむせながらどっかの名探偵ばりの推理をして、片付けを手伝ってくれる。見事に私の席にだけ嫌がらせがしてあるが、臭いは拡がっており総務に戻ってきた人達が次々とむせ始めている。

「いくら、お昼時は人気が無くなるとはいえ、この短時間でなんつーことをしてくれんだっ!」

 私は思わず大声になった。

 それからの総務課は大変だった。インフルエンザ対策に支給されたN95マスクを装着し、窓を全部開け、芳香剤でベタベタになった引き出しを何回も水拭きし、臭い消し用の消臭剤(純粋に臭いを吸収するタイプ)を買いに走るなど、午後は総務課全体の業務がマヒしてしまい仕事どころではなかった。

 上司にも報告しなくてはならなくなったし(そもそも、大声出したから周りも知ることになったし、激臭からして隠し通せるものではなかったが)、総務課の他の人にも迷惑をかけることになってしまった。

「イケメンは罪。付き合うも地獄、付き合わないのも地獄。」

 後始末をしながら何とはなしに、私はつぶやいていた。ああ、本当に厄介なことに巻き込まれてしまった。

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