第1章-8 新たなる予感は「晴れ空」と共に
とりあえず直接対決は終わった。私は大きく肩で息をつき、ベンチに座り直した。このまま職場へ戻ることも可能だが、今戻っても彼に鉢合わせるかもしれないし、このテンションではいろいろ気が昂ってまともに仕事はできないだろう。気分を落ち着かせるために、一旦カバンにしまっていたお茶を再び取りだして飲もうとしたその時。
「あの、すみません。」
不意に声をかけられ、カバンから目を離して見上げるとバイオリンの君が目の前にいた。弦を張り終えたらしいバイオリンを手に持っている。
「なんか、その、は、話を聞くつもりはなかったのですけど、その、元気出してください。」
目の前で起きた修羅場に戸惑っているのだろう。さっきのスズヤ氏とは違ったうろたえ方である。
「いいのよ、気にしないで。むしろ演奏の邪魔をして悪かったわ。ごめんなさいね。」
そう、さすがに大学生にはあの修羅場はきつかっただろう。嫌なものを見せてしまって申し訳ないことをしてしまった。
「は、はい。あっ、それから、僕のバイオリンを褒めてくれてありがとうございます。」
そう言うとバイオリンの君は深々と頭を下げた。
「え?まさかやり取りが聞こえていたの?」
動揺する私とは対照的に彼はニコニコとして頷いた。
「はい。そこまで気に入って頂けてうれしいです。」
私は顔が熱くなっていくのを感じた。待って、ちょっと待って。なんで?どうして?って、よく考えてみたら、さっき勢い余って『バイオリンの君』と口走ってしまった気がする。修羅場を聞かれたということは、あの呼称も彼に聞かれたことになる。それはすっごく恥ずかしい。
「え、いや、聞かなかったことにして、やだ、恥ずかしい。」
慌てて打ち消そうとするが、バイオリンの君はさらっと確認してきた。
「それって『バイオリンの君』のことですか。」
ぐはっ!そんなにダイレクトに言わなくてもいいじゃないか!今度は私が精神的ダメージを受ける番だ。改めて人の口、しかも本人から聞くとなんて中二病チックな呼び名。顔の熱さに加え、心拍数がどんどん上がるのがわかる。うう、今度は私がここから逃げ出したい。穴があったら迷わず入る、いやダイブする、深さが十メートルあっても今ならダイブできる気がする。
「あ、えっと、僕の名はスバルと言います。」
「あ、ああ、スバル君というのね。」
もう、話が逸らせるならなんでもいい。って、思わぬ形で名前を知った。
「は、はい、ご存知かもしれませんが、普段はユウヤと一緒に演奏しています。あ、ユウヤというのは親友で、コントラバス担当で、今日はたまたまいないけど。い、いや、そうじゃなくて、えっと、ま、まだ会社へ戻るまで時間ありますか?」
バイオリンの君改めスバル君はよっぽどテンパっているのか、噛みながら尋ねてきた。
「ええ。」
本当は恥ずかしいのもあってさっさと上がりたいところだし、昼休みももうすぐ終わるが、もういい。総務課の面々にはスズヤ氏と直接対決すると宣言してあるし、多少遅れても構わないだろう。
「じゃあ、お姉さんの元気が出るように曲を一曲演奏します。『晴れ空』という曲です。」
「晴れ空…。」
そういうとスバル君は先ほどの演奏位置に戻り、おもむろに演奏を始めた。先ほどのテンパっていた彼とは打って変わってキリっと引き締まった顔になり、そして楽しそうに弾いている。『晴れ空』は穏やかだけど、例えるならどんより曇った空が晴れていくような、癒されて再生できるような曲だ。正に日差しが爽やかに降り注ぐこの公園にぴったりだ。青い空の下、バイオリンを弾く白いシャツのスバル君の色のコントラストと曲のイメージがとてもよく合っていた。
聞き惚れながら、私は確信していた。自分にとってこのバイオリンの音色はかけがえのない大事なものになっていることに。この音楽があればきっと私は大丈夫。
あんなバカに引っかかっていたのも、めんどくさがっていろいろ怠けていたからだ。これからは見た目をしっかりさせよう。人との付き合いも面倒がらずにもうちょっと関わろう。せっかく先輩にヘアサロンを教えてもらったし、メイクやファッションも教わろうかな。
大丈夫。だって、こうしてバイオリンの君の名前も知ることができたのだから、人と関わることはもっとできる。私は新しい一歩を踏み出せる。
そうだ、これから暑くなるから、スバル君達にはうちのスポーツドリンクを差し入れしよう。今回の件で営業には貸しができたから
「この曲みたいに、私にも“晴れ空”が来るかしらね。」
彼の楽しそうな演奏を見ながら、私はつぶやいていた。
~第1章 Fin~
(サブタイトル及び話中の「晴れ空」はstyle-3!のベストアルバム「The BEST」に収録されている曲です。)
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