第29話 意外と青空

「まさかの失恋」と彼女は言った。「嘘じゃろ。」

彼女は眉間に皺を寄せた。

「なんで?」

隣に座る僕の顔を覗き込んだ。

蔦屋家電の2階にあるスターバックスの窓側のカウンター席に僕と下田さんは並んで座った。

眼下の駅前のロータリーにはタクシーと広電が引っ切り無しに入っては出てはを繰り返していた。

予備校の学生達が空になったアイスコーヒーのカップを前に自習中だった。

しあわせパン工房こころ あさひ町店にとっては元旦以外では初めての休日だった。

これからは月に一度、店を休むことになった。ただし工場は外商の納品があるので稼働はしている。

去年提出した改善提案書に書いた提案のひとつだった。

少しずつだけどいい方向に向かっているのかもしれないと思うことにした。

「仕返しなん?」彼女は僕に確かめた。

「なんの仕返し?仕返しなんかじゃないよ」と僕は笑った。

だいたいこんな事で何かの仕返しなんてものが出来るのか。

「仕返しって言われた方が私には都合いいんだけど。」

「なんで?」

「そりゃそうじゃろ」と彼女は少し怒った。「フラれた原因は、ふたりを辞めさせた仕返しって方がいいじゃん。私の容姿や性格や、ましてや年齢が原因じゃないんだって。」

もちろんそんな理由じゃない。僕は首を横に振った。

それに西尾君と関さんが結果的に会社を辞めることになったのも、下田さんの責任ではない。

「けっこう、うちらいい感じって思わんの?」

彼女の言葉に同意した。

彼女との交際はきっと楽しいものになると思う。

「でもダメなん?」彼女はもう一度確かめた。

彼女の飲みかけのキャラメルマキアートもまだ冷めてないから、顔にかけられたら少しヤバいかもしれない。それにこのカフェにも迷惑だろう。

それでも僕は交際というのは無理だと答えた。

「ねえ、ちょっと店長。もしかしてモテる男の気分になってない?」

「なってないよ。」

「たぶん店長にとって年齢的にも、あらゆる条件的にも、これが最初で最後のラッキーチャンスだと思うんじゃけど」と彼女は言った。

彼女の言ってる意味はよく理解出来た。

でも「今のままでいい」と僕は言った。

誰かを忘れられないからでもなく。

ましてや僕には家族がいるからと言うわけでもない。

下田さんのことは好きだった。

今、ここで彼女を失うことなど考えたくもなかった。

それでも僕は彼女とそういう仲になることは選べなかった。

会社にバレたらヤバいからというわけでもない。

考えつく理由をことごとく却下してしまうけど、僕が彼女から求められているような関係にはなれないと頑固なまでに考えている。

あれから半年経った。下田さんとはかなり親しい仲になった。

僕たちはお互いのことを本当によく話したし、お互いを理解するためにたくさんの時間を費やした。

それはとても自然な流れだった。

でも、そこから先へは進まなかった。

僕と下田さんは男女の仲にはならなかった。

ここ最近になって、その件について彼女から問いただされていた。

「どういう関係をお望みですか?」と。「結局、私を女としては見てないんかね?」

今日はその答えを出すつもりだった。

そもそも、どうして僕なのかと確かめたことがあった。

「くだらん事を聞かんのよ」と彼女は言った。「好きってそういうもんじゃろ。」

どこにもいいとこはないよと僕は自分自身についてそう語った。

「よう自分のことわかっとるじゃん」と彼女は僕に言った。「じゃけぇ、これから私がいいとこ創ってあげるよ。」

そう言われたのは2人で会い始めた最初の頃だった。

「店長はまだいいとこが表れんね。」

彼女は紙カップに印刷されたロゴを指でさすった。

「まだまだ私の力が足りんって事よね。」下田さんは自らに言い聞かせるように頷いた。「頑張るわ。」

初めての店休日を2人で過ごす。

店が休みだから彼女は休みをとれたけど、工場は稼働してるので僕は午前中は仕事。

そして、イタリアンレストランにフランスパンを2本配達し、何故かシェフに怒られる。

「一番休めてない人が休めんのんなら店休日なんて意味なくない?」と下田さんは僕に言った。

まるまる一日を一緒に過ごせないことを責める風でもなく、彼女は単にこの会社の取り組みや方向性に疑問を持っていた。

あの日以来、週に2度くらいのペースで仕事終わりに2人で会うようになった。

でも、こっそりではない。

僕は小池くんや山口さんに2人で会っていることを教えていた。決して怪しい関係などではないと知らせるためだ。いろいろあったから職場ミーティング的な位置づけの食事会だと言った。よかったら一緒にどうとも。

「遠慮しときますよ」と小池くんはニヤケながら断わった。

山口さんは返事すらくれなかった。

なので結果的に下田さんと2人きりだっただけだ。

ただ今日は誰にも内緒だった。

初めての店休日に初めて誰にも内緒で、二人きりのお茶会だった。

そして僕はこの席で彼女に今のままがいいと伝えた。

「それは都合が良すぎるかね。」と僕は彼女に確かめた。

「都合がいいって言うか」下田さんは顔をしかめた。「まあ店長は結婚しとるし。」

「そうよ。」

「でもそれは気にしないよって言ってあげたよね」

「気にしないことはないでしょ。」僕は笑った。

それが気にならないなら西尾君と関さんの不倫を密告した件をどう説明するんだ。

下田さん的にはあの2人を辞めさせるために会社や関さんの家族に不倫関係にあると密告したとの事だったが、それはあの日の西尾君の僕に対する態度に怒りを感じての売り言葉に買い言葉的なものだったのかもしれない。ただそれがどういう理由であれ、実際に彼女は密告をしたのだ。

そして二人が会社を去った。

その彼女が妻帯者の僕と関係を持つなど有ってはならない事なのかもしれない。

でも、やはりそれが理由で僕は彼女の求めに応じないわけではないような気がした。

彼女はそんな事を一切無視してでも押し倒したくなるくらい魅力的な女性だった。

でも、そんなことは出来ない。

だいたい彼女に対して責任がとれるのか。

大きなお世話と言われたけれど、今の彼女には結婚を前提としない男女交際などに費やす時間的な余裕はないように思えた。

「自然じゃないよね。」彼女は言った。「不自然よ。」

彼女の言葉には正しいのかもしれないけど、だからと言って従うわけにはいかなかった。

「そうなるのが自然かもしれないけど。」

「悪の道に入る事はないと。」

「いいことじゃないよね」と僕は言った。

良いとか悪いとか本当はそんな事を気にしているわけではない。

ただ始まってしまえば、やがて終わりが来るのかもしれないという恐怖は心の中にあった。

だからと言って何も始めないと言うのが馬鹿らしい事だともわかっていた。

ただ僕は彼女と離れたくないと本気で思っている。

たった半年なのかもしれないけれど。

特別な出来事など何もなかった半年だったけど。

僕にとっては彼女はかけがえのない人になっていた。

「もしかしてうちが黙っとけば、店長の方から迫ってきたんかね」と下田さんは言った。

それも一理あるかもと思ったけど、黙っていた。

「羨ましかったんかね」と彼女は言った。「結婚もしてて家族もいて、恋人もいて。そして私が好きな男の人まで夢中にさせて。嫉妬なんじゃろうか。」

「僕だって西尾君に嫉妬してた。きっと関さんとどうにかなってるって知る前から嫉妬しとったんじゃろ。じゃけぇキツく当たった。ミスしたら必要以上に注意した。何に嫉妬しとんか。若さ?僕も西尾君くらいの年齢からやり直したい。でもそんな事は出来るはずもない。こいつに今から追い抜かれるんじゃないかって恐れ?こいつは今から成長出来るのに、自分はもう成長などできないと感じる焦り?」

「まだ今からでも変われるじゃん。」下田さんは僕に言った。

私が変えてあげると彼女は言った。

好きだという言葉で。

「変われたよ」と僕は言った。「今、こんなに大切だと思える人と一緒にコーヒーを飲んでる。」なのになぜ彼女の言う通りにしてあげられないのだろう。

彼女の手に触れたくなる。

でもそれを我慢する。

「キスしたいじゃろ」と彼女は言った。「でもそれを我慢したね。」

「超能力があるんか?」

「女の子にはね。あるんよ」と彼女は笑った。「もう女の子じゃないじゃんって言いんさんなよ。言うたら叩くけぇね。」

「言わないです。」と僕はとりあえず彼女に頭を下げた。

「なんか、わかるからやだ。」と下田さんは言った。

「何がわかる?」

まさか本当に超能力があるわけでもないのだろう。

「ほんと、大切にしてくれとるんよね。」と彼女は言った。

スターバックスはかなり混み合っていた。自習をしていた予備校生たちでさえも、混み合った店内の雰囲気を察し、自然と席を空けざるを得なかった。

早く席を空けてあげた方がいいのかもと僕はソワソワしていたけれど、彼女はそんな事を全く気にしてないみたいだった。

僕には彼女のそういうところも魅力的に思えた。

彼女からすれば僕は小さいことを気にしすぎる。

まったくドリンクを飲まない彼女のペースに合わせるには僕の喉は乾き過ぎていた。

もう一杯頼もうかなと彼女に言ったら、黙って自分のキャラメルマキアートを僕の前に滑らせた。

「お前との間接キスは嫌じゃって言わんとってね」と彼女は窓の外を見たまま言った。

「間接キスなら何度もしとるじゃろ」と僕は彼女の飲みかけのキャラメルマキアートを一口飲んだ。ぬるくて甘ったるい。

「そんなに大切にしてくれんでいいよ。もっと適当に扱ってくれりゃあ。」彼女は言った。「私、おかしいかね?」

どうなんだろうと僕は首を傾げた。

どちらかと言えばおかしいのは僕の方のような気がした。

「誰にも言わんよ。内緒にするけぇ」と彼女は言った。「私が言うても信用されんかもじゃけど。」

笑うとこかどうかよくわからなかった。

「まさか今でも関さんのこと・・・」彼女は大袈裟に泣き出しそうな顔をしてみせた。

「それはない」と僕ははっきりと言うことが出来た。

そうはっきり言えたのも下田さんのおかげなのかもしれない。

彼女と過ごしたこの数か月が関さんへの思いを自然と薄れさせていた。

そしてそんな自分を薄情だなと責めたりもした。

でもそんな責める気持ちさえも薄らいでいく。

「今は下田さんのことばかり考えてる」と僕は言った。

それは本当だった。

野球の試合があるから駅前には赤色の人が増えていく。このカフェの中にも白や赤のユニフォーム姿の男女が複数存在した。

「じゃあ、付き合ってください。」と彼女は言った。「ちゃんと恋人同士になってや」

「今も恋人みたいなもんじゃん」

「違うじゃろ。みたいなだけじゃん」と下田さんは言った。「別に欲求不満ってわけじゃないんよ。ただこういう関係は不自然なんよ。理性的な選択かもしれんけど。」

「やれば嫌になるかもよ」と僕は笑って言った。

でも彼女は笑わなかった。

「試してみてや。」彼女は言った。

僕はそれも笑いながら、ただ首を横に振った。

キャラメルマキアートを飲み干した。これで飲み物をぶっかけられる心配もなくなった。

「おかわりしようか?」と彼女は言った。

「マジで?」

「ここでじゃなくて。うちに来る?」と彼女は僕に言った。「うちでコーヒー飲む?」

「うちに行っていいの?」

僕は一度も彼女の部屋を訪問したことはなかった。なぜなら彼女は実家暮らしだ。ご両親と弟さんと一緒に住んでいる。

「挨拶するのはまだ早いかね」と彼女は笑った。

「同僚として挨拶は出来るけど」

「ひとり暮らししよっかな」と彼女は言った。「どうかね?」

「やめんさい」と僕は言った。「お金がもったいない」

「じゃあ、どうしゃあええんよ」と彼女はイライラして足をバタバタさせた。

「このままで」と僕は静かに答えた。「このままでいればきっといつまでも一緒にいられる」

「そんなことないよ」と彼女は真顔で言った。

「どうして?」

「付き合ってもらえんのなら、他の男にいくし」と彼女は言った。「結婚だってするし」

それも当然だろう。

彼女を止める資格は僕にはない。

でも、「それはダメよ」と僕は言った。「他の男と付き合うのも、結婚も許さんよ」

何の資格もないけど、僕ははっきりとそう言った。

それが正直な気持ちだった。

「わかった」と彼女は言った。

「わかった?何が?」と僕は彼女に確かめた。

「店長の言う通りにする」と彼女は言った。「店長の気が変わるか、奥さんと離婚した時のために体を空けて待っとくわ。」

「そんなんでいいん?」

「いいわけないじゃん」と彼女は言った。「でも、そんなに時間かからんかもしれんし」

そうかもしれない。

なにを躊躇しているのか自分でも理由がわからない。

でも、とにかく今日もまっすぐ家に帰ろうと決めた。

それでも、「別れたくないんよ」と僕は言った。

この言葉はとても卑怯な言葉なのかもしれない。

でも、その言葉が正直な気持ちだった。

「ずるいよね」と彼女は言った。「そんなグダグダ攻撃してくるようなおっさんだとは思わんかったわ」

僕は彼女の指摘に納得した。

「でも結局、今は店長のことが好きじゃけえ、そんなのも許せるんよね」

彼女は短く笑った。

「別れたくないって言われたら胸が締め付けられる。病気かね」と下田さんは苦しそうな顔をしてみぞおち当たりを押さえた。

彼女と僕はスタバを出た。

しばらく蔦屋家電の中を二人で見て回った。

彼女に会う前に既に時間つぶしのために全てのフロアを一通り見て回った後だったが、彼女と一緒だとひとりで回っていた時に感じた疎外感はまったくなかった。

彼女は文房具売り場で僕のためにボールペンを選んでくれた。

それは彼女が来る前にひとりで店内を回った時に手にとった、自分には無理だと戻したボールペンだった。

「記念に買ったげる」と彼女は言った。「このボールペン使うたびに、俺は下田を振ったんだって思い出してね」

「振ってないよ」と僕は言った。

支払いを済ませると、彼女は僕にそれを渡した。

「きっといい使い心地だと思うよ」 と彼女は言った。「似合うよ」

「ありがとう。」

僕は大事にすると言った。

「大事にせんでええから、使いこなして。」

彼女は僕にそう言うと、僕の腕に自分の腕を絡めた。

「貢いだんじゃけ、腕くらい組ませんさいや。」

彼女は笑った。

「何か欲しいものあった?僕からも何かプレゼントするよ」

「4Kテレビ」と彼女は言った。

ここはただのTUTAYAではなく蔦屋家電なのだ。テレビだって売っている。

僕たちは蔦屋家電から出るまで腕を組んで歩いた。


「まさか帰るん?」と建物を出てすぐの横断歩道で信号を待ちながら彼女は僕に尋ねた。

「まだ時間はあるけど。」

「ドトールでも行く?」と彼女は笑いながら言った。

「タリーズなら」

「ローソンでいいじゃん」と彼女は笑った。「ローソン行ってから、一緒に不動産屋さん行こうや。一緒に部屋を探そうや。」

「部屋なんか借りんでええって。」

「ええじゃん。仕事前にやりに来りゃあ」と彼女は笑った。

「それって関さんじゃん」と僕は関さんの名前を使って笑うことが出来た。

信号が青に変わった。

下田さんは僕の横ではなく少し前を歩いた。

「どこでもええよね」と彼女は振り向きもせず話した。「一緒にいれたらね。」

「うん。」聞こえたかどうかわからないけれど、僕は彼女の言葉に同意した。

思っていたよりもずいぶん細い肩だった。

西尾君を追い返したのもこの彼女だ。

僕はただ好きだという言葉だけで彼女を繋ぎ止めようとしている。

それがどんなに自分勝手なことなのかわかっている。

そしてそんな言葉の効き目がそんなに永くは続くこともないと経験として知っている。

「こうしていられるのが毎日だったら、そりゃあ幸せかもしれんけど、週に1回でも会えれば、会えん一日よりは幸せよね。」

「うん。」

「そう思ってあげるよ」と彼女は突然振り返って立ち止まった。

つられて僕も足を止めた。僕たち2人を境に人の流れを二手に分けた。

こんなところで急に立ち止まったら通行の邪魔になる。彼女にはそんな考えはなかった。

彼女は何事もなかったように再び歩き始めた。

どこへ向かっているのか僕には見当もつかないけれど、彼女の後に従って駅前を歩いた。

「物分かりのエエ女じゃろ。」彼女は振り向かず言った。「でも都合がエエ女とは思いんさんなよ。」

「ほんと、ありがとう」と僕は言った。

「ちょっと。ありがとう、ありがとうってなんか今日で最終回なんね?」

「いや。違う。」

「もうすぐこの改札口閉鎖されるんよ」と下田さんは広島駅の正面まで来ると言った。「こっから新幹線口へ抜ける新しい通路が出来るんと」

広島駅の正面である南口から新幹線口のある北口を突っ切る新しい通路が建設の真っ最中だった。アクセスが随分変わるはずだ。

「今度、ここに来る時にはもうこの中央改札口はないんよ。今日の二人の思い出の改札口はなくなっとるんよ。」

「今度って、僕は来週には売り場の応援で駅に来るよ。」

「初の店休日に振られる私の身にもなってみんさいや」と彼女は言った。

「だから振ってないって」

「いやいや。私は振られたんよ」

彼女は立ち止まった。

「こんな気持ちじゃったん?」

「何が?」

「関さんが自分のことを特別なひとだと思ってなかったってわかった時。こんな辛い気持ちじゃったん。」

平日なのにカープの試合があるからこんな昼間から赤いユニフォームを着てトートバッグの口から応援用のミニチュアバットをのぞかせた人たちがうようよいる。紙屋町に昔の広島市民球場があった頃、こちらに移転することを反対する署名活動なんてものもあった。でも今は誰もそんな事を言う人はいない。

「でも、下田さんのおかげで僕は大丈夫だった。」僕は彼女に近づいた。

「ごめんなさい」と彼女は言った。「こんな辛い思いをさせとったんじゃね。」

「僕は大丈夫。」

「JRとめたらごめんね」と彼女は僕にサヨナラと手を振った。

「そういう冗談は悪趣味。」

「ごめんなさい」と彼女は素直に謝った。「でも傷ついてないわけじゃないんよ」

確かにそれはわかっている。

「ふざけんとやっとれんし。」彼女は笑った。

赤いユニフォームの連中に抗うように僕たちは歩いた。

「死ぬわけないじゃん。こんな素敵な人生なのに。」

僕の前を彼女は道を切り拓くかのように進んでいく。

彼女に触れたかった。

少し前を歩く彼女を僕はストーカーのようにつけまわしているみたいだ。

手を握り、振り向かせたい。

彼女は自分の女性としての魅力を十分に発揮できるような服を着ていた。

その形も。

その色も。

僕はどんな離れた場所からでもきっと彼女を見つけ出せると思った。

彼女を抱きたい。

でも、もしかしたら、その時に彼女ではない女性のことを想うのかもしれない。

そんなはずはない。

下田さんは誰かの代わり?

そんなはずはない。

そんなつもりはない。

最低だ。

そんな事をふと考えてしまうと、彼女に伸ばしかけた手を静かに戻した。

それが僕が下田さんと先に進めない理由なのか?

そんなことあるわけない。

それが理由ではない。

違う。

そうじゃない。僕が彼女と先に進めないのはそうじゃないんだ。

先に進めない理由は僕が思いつくありとあらゆるすべてなんだ。

関さんのことも。僕が妻帯者であることも。会社にも秘密だし、誰にも言えない関係になってしまうであろうことも。彼女自身の年齢と生活のことも。別れた後の僕の家族のことも。僕が家族と別れることがなかった時の下田さんのことも。

思いつく限りのありとあらゆる事が僕を先へと進ませない。

彼女は歩くスピードを緩めた。

僕に歩調を合わせた。

彼女が僕の手をとった。

「超能力があるって言ったじゃろ」彼女は笑った。「そんなに悩みんちゃんな。」

悩みんちゃんなと言ってくれる彼女の目は充血し、今にも涙が零れ出しそうだった。

悩んでいるのは僕だけではないどころか、彼女の方が僕なんかよりもずっと深く悩んでいるのかもしれない。

彼女はその涙を零さぬように空を見上げた。

細い首筋から顎にかけての美しい線に僕は見惚れた。

ありとあらゆる理由がそこから先へ進まないようにと僕を足止めする。

でもたったひとつの理由のために僕は彼女との仲を一歩先へと進めようとする。

先へと進みたい理由はたったひとつしかない。

でも、そのひとつが占める範囲は心のほとんど全てだ。

ただ彼女を好きになってしまったから。

ただそれだけだ。

彼女は決して涙を零さなかった。

「意外に青空じゃん。」

彼女は空を見上げながら言った。

僕も彼女に同意する他なかった。

彼女が見上げた空はどこまでも青く晴れ渡っていた。

「意外にね。」

僕も彼女と一緒に空を見上げた。

僕たちのいる広島の空は雲一つなく見渡せる限りどこまでも青空だった。

僕は彼女のすぐ隣を歩いた。

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