第9話 昇給ナシ

3月分のあさひ町店の実績が出たのは5月の末だった。

副社長がうちの状況を確認するためにあさひ町店にやってきた。

いつもビシッとしたスーツ姿で、国産の3ナンバーで乗り付ける。

パン職人でもなければ営業マンでもない。生まれつきのオーナー一族だ。

だからなのか、こちらの都合など気にする事もない。

好きな時に来て、好きなことを言って、好きな時に帰る。

気持ちが表情に出やすい関さんだけでなく、いつもは全く表情の無い山口さんでさえ、作業の真っ最中に僕を連れ出す副社長に不快感を感じていた。

僕は2人にちょっとゴメンと頭を下げると副社長についてその場を離れた。

工場の3階にある事務所兼男子更衣室で面談だった。

「売り上げが前年より1割落ちてる」と副社長。「なんか言い訳ある?」

言い訳?言い訳をするつもりはないのだが。

「客数が前年の85%で。」と「客単価は上がってるんですけど。」

「お客さん少ないね」と副社長。「値上げが失敗だったんじゃないの?」

パンの値上げを決めたのは僕ではない。

値上げは本社からの指示である。

客単価が上がったから客数が落ち込んだけど売上は1割ダウンで持ちこたえた。

客単価が上がったのは値上げのせいもあるが、お店を担当している女の子達がパンだけではなくレジ横に並べたクッキーやラスクなどの商材をプラスでお客さんに勧めてくれたおかげだった。

まあ、いずれにしても僕の努力ではない。

もちろん副社長も関与はしてない。

「まあ、あさひ町は店舗はついでだからね」と副社長は言った。

確かにこのあさひ町店のメインは工場としての役割だ。

「どこの店も人手が足りなくて困ってるんだけどね、あさひ町の店舗を閉店させて人を異動させようって話もあるんだよ。」

「本当ですか?」初耳だった。

「一極集中と言うかね、そういう根本的な改革もありかねって。」

「根本的な改革」僕は副社長の言葉を追唱した。

一極集中ならば、工場強化でここから全店舗へのパンの出荷数を増やせばいいのではないかなどとも思った。なんの為に作った工場なんだ。しかし、本社的には店舗での焼きたてパンの販売にこだわりがあり、菓子パンや調理パンだけでなく、本来なら工場での一括焼き上げで製造するはずだったクイーンブレッドなどの食パン類も各店舗毎で焼かせていた。

「あさひ町店の優秀なとこは改善提案書を提出してくれてる人がけっこう多くて。そこは本社も評価してるよ。」

副社長のその言葉はあさひ町店閉店の話などすっかり忘れさせてくれた。

「みんな提出してるんですか?」

「店長はまだなんかね?」

「え?あ、はい、まだ仕上げてません」

「そうなんか。店長が書いたんかなってのがあったから」

提案書は無記名のはずだ。

無記名で良いって言うのは書いた人物を特定しないからと言う意味ではなかったのだろうか。

「僕が書いたような内容だったんですか?」と確かめた。僕が書いたと勘ぐられるような内容が知りたかった。

「いや、まあそれはまた。店長がまだ出してないんならそれでいいよ。」

「名前書いた方がいいんですか?」

副社長は僕の質問に笑った。

「無記名でいいよ」と副社長は言った。「まあ書いてる内容でだいたいわかるから。」

副社長は僕の顔をじっと見ていた。


話がひと通り終わり席を立ち事務所から出て行こうとしたところ、「あっ、店長」と何か言い忘れてたのか副社長は僕を呼び止めた。

今回は昇給ないから。

副社長はポツリと言った。

それ以上は何も言わなかった。

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