第4話 こころの仲間
この職場でのキャリアは「無表情で無口な」山口さんの方が関さんよりも遥かに長かった。
関さんよりもと言うか山口さんは僕よりも勤続年数は少し長い。僕がこの職場に入る1か月くらい前に採用されたアルバイトさん。僕と同い年の女性だが今も昔も独身の女性である。
ずっとアルバイトとして早朝から夕方近くまで勤務している。
口数は極めて少ない人で山口さんについての個人的な情報はほとんどなかった。別にシークレットと言うわけでもないのかもしれないが、僕もあえて彼女について踏み込んで知ろうとはしなかった。仕事ぶりは真面目というよりもやはり「無表情」。何をしてるのかよくわからないけどコツコツと仕事を終わらせてくれる人だった。
ただスピード感はなかった。そのために出勤してるほぼ毎日がかなりの長時間勤務となった。昔「本社」から山口さんの拘束時間が長すぎるから何とかしろと言われたことがあった。
うちの店舗ではないが待遇面で揉めて退職した人物がその筋の役所にうちの会社の労働実態を通報したのだ。
それを受けて長すぎる勤務時間を改善しようとする動きがかつてあった。
山口さんに本社の意向を告げたところ、それはちょうど昼過ぎだったが、表情をいっさい変えず無言でタイムカードを通した。
いきなり帰るのか?
と驚いたが、そうではなくタイムカードを押して仕事の続きをした。
その日から、ほぼその時間、だいたい13時には山口さんは退勤を通すようになった。
その慣習がもう10年以上も続いている。
別にタイムカードを通せとも通すなとも言ったわけではなかった。ただ本社が勤務時間について文句言ってきたんよと言っただけだったのだが、彼女はそんなことを言われるのを面倒臭く感じたか、もしくは本社に言われて僕が困っているのを気にして自主的にそんな行動をとってくれた。
別に無駄な残業をしているわけではない。
それだけの作業量はあるのだ。
でも僕は山口さんのそんな自主的な「優しさ」に甘えただけだった。
何ら解決策など講じてはいない。それきり本社から山口さんについて言われたことはなかった。勤務状況の改善などではなく、ただの「人件費の節約」になっただけだった。
一方、関さんは「表情豊かな」人だ。
美人というより可愛らしい感じのする女性で年齢はもう40歳を過ぎているが顔つきは実年齢よりは10歳くらいは若く見えたし服装も若い印象を与えるものだった。
非常におしゃべりな人で誰とでも隔てなく会話した。
職場のムードメーカーだ。
人懐っこさがあり時々ここを見回りに来る「本社」の人にも強面のドライバーさん達にも評判が良かった。
時々話に夢中になって仕事の手が止まることもあったが、彼女の出勤している日と出勤していない日を比べると、あきらかに彼女がいる日の方が、同じ仕事量なら早く作業を終えることができた。山口さんはひとりっきりで作業する人だったが、関さんはみんなで協力して作業を終わらせようとする人だった。
以前は関さんと同じ年齢くらいのパートさんが4、5人は在籍していた。
関さんもそうだが、この近所の主婦の人たちで小学校に通うくらいの年齢の子どもがいるごく普通の家庭の人たちだった。
僕自身も彼女たちとは同じような家族構成だった。
僕にも妻と子供がいる。
そのため彼女たちの「子持ち主婦特有」の都合にも一定の理解を示し、可能な限り応じた。
土日祝日は休みだし、参観日などの学校行事の際も休むことを認めた。学校の夏休み期間なども本人が希望すればまるまる休ませた。
ただみんなの子どもの学校や年齢が同じ、もしくは近すぎるせいもあって、学校行事のスケジュールは重なった。そんな状況ではあったが、関さんだけはいくらかは仕事を優先してくれた。
「うちの子、あまりかまってほしくないみたいなんで」と関さんは言って学校の長期休暇中もほぼ普段通り出勤してくれた。
関さんだけが主婦スタッフの中では「ご主人の扶養の範囲」から外れての勤務だった。こちらにとってもそういうスタンスで働ける彼女は非常にありがたかった。
しかし2、3年前くらいから状況がちょっと変わってきた。
それまで手がかかった子ども達が成長し中学や高校などに通うようになるとみんながもっと稼ぎたくなったのだ。より長い時間働けますよとみんなが一斉にアピールを始めた。
ただその希望をかなえるだけの仕事量も人件費の余裕もここにはなかった。
関さんは「ちょっと私が仕事をセーブしましょうか?」と言ってくれた。「私ももう若くないし」と彼女は笑った。
でも僕はそんな必要はないと彼女の申し出を断った。
その結果、関さん一人を残して同時期に在籍した主婦スタッフは順次職場を去っていった。
僕は彼女たちを引き留めることはなかった。
彼女たちに認めてきた「子持ち主婦特有の都合による休み」というものを実際にはまったく快く思っていなかったのかもしれない。そしてその休みを可能に出来たのは僕の寛容さなどではなく、関さんの「譲る気持ち」や山口さんのある意味前向きな「われ関せず」的な態度のおかげだった。
多くのパートさんが辞めていき、その後しばらくしてお客さんからこんな話を聞いた。
うちにいたパートさんのひとりがここの職場の悪口を言いふらしてるということだった。
職場の責任者である僕やムードメーカーの関さん、寡黙な山口さんに対してただの悪口だった。僕は二人にはそのことは伝えなかった。
それは僕の側からすれば真実ではなかった。
ただその悪口を言いふらしているとされる女性にとってはそれが真実なのだろう。僕は「えこひいきをする上司」で、関さんは「かわいこぶるおばさん」で山口さんは「不気味なおんな」なのだ。
いずれにしても二人とも僕にとってはこの職場で欠かせない人材だった。
そして若きエース西尾君なのだが。
彼の話をする前にまだ「主婦パート全盛時代」の続きがある。
それは西尾君の在り様にもかかわってくる話だ。
「子持ち主婦」の皆さんの休みの希望を叶えることができたのは確かに関さんと山口さんの二人の存在が大きかったわけだが、実際にはもうひとりのスタッフの力も大きかった。今の西尾君と同じポジションの若い男子社員がここには在籍していた。彼は4年制大学を卒業後に新入社員としてうちに配属された。
学年は西尾君と同じ。
アベノミクス前で就職活動は売り手市場と呼ぶにはほど遠い、特に広島のような地方都市においては就職氷河期とまではいかないが、一流大学の学生たちを除いてはあまり職種を選べない状況にあった。彼もまた聞いたことのない名前の大学の出身者で食品やパンなどとはまったく関係のない学部の出身者だった。なおかつ営業希望でもなく、なにかをデザインする仕事に就きたかったみたいだった。聞いたことのない職業で、今も思い出せないような名前の職業だったけど、「お前がそんなんになれるかい」と僕は彼に毒づいた。
彼はあまり自己主張のないタイプだった。おとなしい子だった。僕のそんな雑言にもただ苦笑いをするだけだった。
彼の入社が決まったのは大学の卒業間近の2月末。僕自身その年はここに新入社員が入ってくるとは思ってなかった。「特有の事情がある」とは言え主婦のパートさん達がいてくれたおかげで人手は足りていた。
本社は「次の世代」を育てないといけないから彼を採用したと言った。この会社「しあわせパン工房こころ」の離職率、特に男性の店舗責任者や営業系の職種の人材の離職率は極めて高かった。僕が入ってからも時代を追って20人くらいの非製造系の男性社員の顔を思い浮かべることができるが、今この会社にいるのは僕と西尾君とよその店舗だが去年入社した高卒の男性社員だけだ。「しあわせパン工房こころ」はここ含めて現在広島市内に7店舗あるが店長と言う名の役職者がいるのは3店舗だけだった。売り場責任者的な女性スタッフはいるがその4店舗は本社が直接管理という具合だ。
とにかく男子は辞める。
なぜか?
それはあまりにも得るものが少ないからだ。
と西尾君の前任者は僕に言った。
「パン屋に勤めてるのにパンも作れないってどうなんですかね」と彼は言った。「パン職人なら、この給料でも将来的には独立したりして大化けすることもあるかもですが。」
創業からしばらくは「製造店長」と言ってパンの製造に携わる人が店長として店舗の運営にもあたるって感じだった。
確かに僕がここに入った時、このあさひ町店の店長は元パン製造の男性だった。僕と同い年だった彼は将来独立してパン屋をするつもりなんだと言った。そして数年後実際独立をして何のつてもない広島県の北部の田舎で天然酵母パン専門のパン屋を開いた。
「なんにもならないと思うんですよ」と彼。「2年間働いてきて、朝の3時から夕方の6時まで働いて。疲れて寝て、起きて疲れて寝て。その繰り返しで。」
西尾君の前任者が在籍してた頃は今より1時間早く3時からが出荷メンバーの出社時間だった。そして先に述べたようにこの頃、主婦のパートさん達がどんどん辞めていって、そのしわ寄せが残ったメンバーに来ていた。
「残業代がつかないのは入社の面接の時に聞いてたんで。それを納得した上で入社したんで今更どうこう言うつもりはないんですが」と彼。「でもなんか将来が何も見えてこないんですよ。ただ毎日疲れるだけで、なんかこの先のことを考えたりする力もないくらい働いて。レジも打てますよ。パンの袋入れだってできます。予算だって組めます。在庫だって見れます。お客さんからの問い合わせだって答えられるようになりました。でもなんかそれが何かにつながっていくような気がしないんです。」
「パン職人になりたいの?」
「いや、そういうわけでは」
「やり甲斐がない?」
「て言うか・・・」
「ようは給料が安いんだよね」と僕は言った。「わかるよ。俺だって給料少ないなって感じるよ」
「そうでしょ。そうですよね」と彼は僕が同意したことが嬉しそうだった。「この会社、おかしいですよね。給料安すぎですよね。それも異常ですよ。ボーナスがないってのは面接の時に聞いてたから仕方ないけど、月々が以上に低すぎませんか」
彼の言葉に僕もうなずいた。
「無理ですよね。ここの給料で結婚とかって」と彼。
学生時代から付き合っている恋人がいると彼からは聞いていた。
「共働きじゃろ」と僕は言った。「うちだって嫁が働かんと息子ひとりををまともに育てられんよ。」
「と言うかここの給料じゃ誰も結婚してくれないですよ」と彼。
「まあ、俺もここに入る前には結婚してたし、子供もいたからね」と僕。「で?」
彼からの言葉を促した。
だから会社を辞めますと。
彼は黙り込んだ。もう腹は決まっているはず。なのに黙ったのは何かまだ言い残したセリフがなかったか頭の中を整理しているのだろう。
「悪かったね」と僕は言った。「本社から次の世代を育てなきゃいけないって言われてて。ちょっとハードだったかね。」
「いえ、別に店長に責任があるとは思ってないです」と彼は言った。「店長も僕なんかよりもずっと長く、休みもほとんどなく働いてるんですし。給料だってそんなに良いわけないし。」
僕は苦笑いするしかなかった。
確かに彼に食事をおごったことさえ一度もなかった。
僕自身「社畜じゃけえ」と言うのが口癖だった。
「無駄ですよね」と彼は言った。
「無駄?」
「なんかここで何をやっても無駄になっていくような気がするんです。自分のためにもならなければ、どんなに頑張っても会社のためにもなってなくて。」
「会社のためにもなってない?」
「わかりませんか?」
なんとなくはわかるような気もしたが、それをうまく表現できなかった。
いや、それは「無駄」と言う言葉につきるのかもしれない。
僕はそれ以上は何も言えず、ただ彼もこれ以上は何も言わず、ただ黙ってここから去ってくれればと願うばかりだった。
とにかく西尾君の前任者の彼は非常によく働いてくれた。
今月いっぱいで辞めますとこの日僕に打ち明けるまで一言たりとも会社や職場への不満を漏らすことはなかった。
僕が彼の退職から学んだことは、僕の下のポジションにつく男性社員には仕事を多く振り分けないということだった。会社的に次世代に辞められないようにしなけりゃならないし、この次世代にいつ抜けられてもローテーションが回るようにしなければならないと感じた。
彼にここでの仕事を教えるために費やした僕の時間は無駄になったのかもしれない。
だから西尾君には彼とは違う対応をしようと決めた。
西尾君に早朝の勤務はなかった。
僕は彼に9時から18時までの勤務を命じた。
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