第5話 改善提案書

「これって何を書けばいいんですかね。」

関さんは茶封筒の中から取り出したプリントを僕に見せながら尋ねた。

茶封筒は給与明細と共にひとりずつ手渡しされたものだった。

毎月15日の給料日には本社から副社長がやって来て、給与明細を手渡すのが慣例だった。

明細を渡される際にご苦労さまとひとりひとり声をかけてもらえるのだ。

僕もさっき受け取ったが健康保険か何かの書類と思ってそのまま私物入れに放り込んだ。

関さんが見せてくれた茶封筒の表には「改善提案書」と印刷されていた。

プリントを読んだ。

改善提案書というものを全従業員が本社に提出するようにとの事だった。

どうやら本社は社内改革でも進めたいらしい。

会社の問題点や改善すべき点を自由に書いてくださいとのことだった。

ただそこに書かれている問題点や改善点の例えに引っかかる部分があったが。

こんな話は本社からは聞かされてなかった。

「なんかイヤな感じですよね」と関さんは言った。「問題のある人を本社に密告しなさいって事ですかね。」

と言われて僕も首を傾げた。

そこに書かれていたのはそういうことだった。

トラブルメーカーや仕事ぶりが悪い人などを書けという趣旨の文言がそこには並んでいた。

このアンケートは無記名で構いませんとなっているが、問題のある人物については必ず名前を書くようにとなっている。

「特定してどうするんですかね。クビですか?」と関さん。

僕はもう一度首を傾げ、そのプリントを関さんに返すと作業に戻った。

この日は西尾君と山口さんの2人を休ませていた。

強面の都倉さんがもうすぐ帰ってくる。こんな事に構ってる場合ではない。

しかし関さんはプリントを読み返していた。

まったく納得いかない様子だった。

明細を配り終えた副社長が今日は不在で渡せなかった明細の束を持ってきた。

残りは店長からお願いしますと彼は言った。

明細を配る時くらいしかここへ来ることがない。彼はこの会社の会長であるオーナーの息子だ。アンケートの件もよろしく伝えといてと彼は言った。

僕は「はい」と返事をした。

よろしくと言われても、店長って肩書きがある僕でさえも改善書の記入について何ら説明を受けていない。

都倉さんが帰ってくる。

関さんはすでに作業に復帰している。

今日は休みの山口さんと今日は休ませた西尾君の給与明細と茶封筒を仕舞った。


「こんど二人で飲みにいきませんか?」と僕は関さんに言った。

関さんは僕が言ってる意味がよく理解できなかったのかきょとんとした顔つきで僕を見た。

「ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんで」と僕。

関さんはまだ何も答えなかった。

パンを袋に詰める手も止まったままだ。

6枚切りの厚さにスライスされた食パンを1枚1枚手作業で薄いポリエステルの袋に入れていく。もうひとりはその袋の口を卓上の密封シーラーで閉じていく。

ちなみにパンのスライスも袋の口をシーラーする人の担当である。

僕がスライスした食パンを関さんが袋に入れ、スライスを終えた僕がその袋の口を閉じていく。この作業をするのはクリーンルームと呼べるほどの設備ではないが、一応隔離された個室だった。

そこで僕は関さんと二人きりだった。

入り口に小さな窓はあるだけで、外からは窓に顔をつけて覗き込まないかぎり中の様子は見えない。

「いやたまには一緒に飲みにでも行きましょう」ともう一度言ってみた。

今度はお互い顔を見合わせている状態だ。たとえ滑舌の悪い僕の声でも聞き取れたはずだ。

狭い部屋でお互い背中合わせで壁に向かって作業をしている。

実際、作業に集中してると、狭い個室に二人きりであるとか、動けばからだが触れ合うとかそんな事はまったくと言っていいほど考えることはない。

ただ、さすがに飲みに行きませんかなどと声をかけてしまうと、この個室がふだんとは違う環境に思えた。

彼女は僕の顔をまじまじと見た。

そして、彼女は笑った。

「店長、お酒飲めないじゃないですか」と彼女は笑いながら言った。「だいたい店長がアルバイトの私に何の相談があるんですか。」

「いや、そりゃいろいろ・・・」 僕は口ごもった。

「このこと改善書に書いときますね。」と彼女は言った。彼女の顔から笑みは消えていた。「店長が仕事中に誘ってくるんですって」

「いや、それは変な意味では」と僕はその場を取り繕うとした。

けっして本気で誘ったわけではない。そう理解してくれるはずだと思っているから、そんな事を言ってみただけだ。

でも本当にそうか?

「これってセクハラですかね。」と僕は関さんに確かめた。

彼女は少し笑いながら首を横に振った。

「セクハラじゃないですよ」と彼女は言った。「厭な気分じゃないですから。」


僕も少し笑った。

久しぶりにいい気分になれた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る