第6話 ホテルの朝食
彼女は自分が探してるパンがどんなパンなのか理解してないみたいだった。
彼女と言うか「ばあさん」といつも心の中では呼んでいるのだが、パンの出荷作業場と同じ1階にあるサンドイッチなどを作る厨房のパートさんだ。
すでに後期高齢者の域に達している。
背の低い「ばあさん」だった。その背を伸ばしたり屈めたりして覗き込んでいるパンラックには彼女がとって来いと命じられたパンはない。
山口さんが休みの日の早朝は僕ひとりの作業になる。
もちろんパンの焼き上げ数が少ない日を選んで山口さんを休ませている。でもそれでも一人で処理するのはかなり大変な作業だった。
パンはだいたい決まった時間に毎日焼けてくるものだ。
ただ焼き上げが少ない日は製造の方も人手を絞っているので、その分焼き上がり時間に遅れが生じることも多かった。また焼き上がりが遅れると「ボツ」と呼ばれる出来が悪いものが増える傾向もあった。
山口さんを休ませる日は僕もいつもよりも1時間くらい早く出勤するのだが、今日はとくにパンの焼き上がりが遅い。
店だし用のパンを籠に盛りつけ、店の棚に並べていく。
出荷用のパンは冷めるまで待ってから、番重と呼ばれるパンを入れる箱に並べる。
毎日の作業だ。
焼き立ての熱々の鉄板が上の段から下の段まで全て挿さったパンラックがエレベーターに乗って2階から降りてくる。
次から次へと降りてくるラックを、片づける順番に経験に従って並び替える。
僕が並べたラックを「ばあさん」が少し動かす。
まだ見つけられないみたいだ。
イライラする。
この「ばあさん」はパンを取ってくるだけの仕事にどれだけ時間をかけるつもりなんだ。
年を取っているとは言え昨日今日入ったばかりのパートじゃない。覚えが悪すぎる。と言うか覚える気があるのか。
それとも何かの病気か?
この3ヶ月くらい、この人がここにパンを取りに来るたびに同じような場面を目にする。最初の一ヵ月くらいは教えてあげたが、それからは少し声を荒げてしまうか無視かのいずれかの選択だった。山口さんがいてくれたら、「無表情」なりにも「ばあさん」の相手をしてくれるのだが今日は休み。
無視しとけ。こんなばあさんに構ってる場合じゃない。
もう5時になる。ドライバーさんも出勤してくる。
俺のラックにさわるな。
もっと違うやつに取りに来させればいいのに。その方が作業も早く進むだろうに。
と言っても、サンドイッチを作る厨房にいるスタッフのほとんどが長くてもまだ半年くらいしか在籍していない人が多かった。
そしていつまでも不慣れなこの「ばあさん」と同じような老人がたくさんいた。
早朝のアルバイトの募集をかけて応募してくるのはここ最近はほとんど高齢者か外国人ばかりだ。元気な高齢者達が集う職場なのだ。
だがやっと入った高齢者も次から次へと辞めていく。
仕事が思ったよりきつかったとか、体調の悪化とかの理由で。
働いてくれる高齢者は大切にしなければならない。
高齢者や外国人ばかりだと言ったものの、それでもなかなか人手の確保は難しい状態なのだ。
「しあわせパン工房こころ」は時給が安く仕事はキツイ。
「なに探しとるん?」とできるだけ穏やかな口調で彼女に尋ねた。
「あのね。ソフトフランスのパンをね持ってこいって言われたんですけど」と彼女は言った。
そのセリフもよく聞くセリフだった。「さてどこにあるんでしょうかね」
それは隣のラックに挿さってる。
上下ではなく視線を少し横に動かせばいいだけだ。
「これでしょ」と僕はラックからそのパンが乗った鉄板を取ると彼女に渡した。
「あら、こんなとこにあったんじゃね。」と彼女は言った。「お忙しいのにすいませんでした。なかなか見つけられなくてね。そこもさっき見たと思ったんですが。見方が悪かったんですかね」
受け取ったらさっさと消えてくれればいいのにまだしゃべり続けてる。
このあさひ町店の中にサンドイッチの工房もあるのだが、これがうちの会社のレストラン・総菜部門の管轄で、僕が管理する部署ではなかった。
「しあわせパン工房こころ」は小さい会社の割には意外と縦割りなとこのある会社だった。
もともとはあさひ町店の管轄だったので僕もサンドイッチを作る現場の応援に週何回かは入ったりしてたのだが、西尾君の前任者が退職した際に僕も出荷の作業から抜けることができなくなり、また会社も商品開発や製造により力を入れるためにサンドイッチの厨房はレストラン部門の管轄にするということになった。
レストランコックさんが作るサンドイッチと銘打って販売しているのだが、実際はほとんどパートさん達が作っている。
まあ、そんなもんである。
パンの製造も同じく正社員の製造担当者は責任者のチーフを含め4人で、あとはパートさん達である。もちろんパートさんだから出来が悪いというわけではない。パンの製造に関してはパートさんの方がベテランが多かった。
そしてこの日はパンの製造は人手を絞っている。つまりベテランのパートさん達が休みなのだ。
ホテルの朝食用に納品する小さな食事パンがいつもより30分遅れで焼きあがってきた。
パンは全部で4種類。熱々である。
そして焼きあがったパンはボツばかりだった。
発酵し過ぎてパンがべっちゃっと横に広がり潰れたような感じ。
なおかつ焼き過ぎて色も黒い。
ドライバーさんは既に出勤して、僕がそのパンを番重に並べるのを待っていた。
販売担当の女性社員は6時半に出勤してきた。
その子に7時から出てくる関さんに伝言を頼もうと思ったが、やはり直接LINEすることにした。
「足らずのパンの納品に行ってきます。今日はボツパンだらけ」とLINEを入れた。
すぐに既読がつき「了解しました」的な可愛いウサギのスタンプが返ってきた。
朝イチのホテル用の食事パンは使えそうなものだけを選別してドライバーさんに納品してもらった。焼き上げ失敗に気づくと同時に製造にはそのパンの焼き直しを指示したが、パンなんてすぐに出来るものではなく、ちょっとして別のレストランがランチ用で発注した食事パンが焼き上がってきたのでとりあえずそれを数合わせのためにホテルに納品することにした。もちろん注文とは違うパンを納品するのだから代金は請求できない。
今からホテルのコックに嫌味を言われるか怒られるかそのどちらかなのに、関さんのスタンプだけでちょっといい気分になれた。
特に嫌味や小言を言われることもなく納品は終わった。
モーニングの忙しい時間帯に小言など言ってる暇はホテルの厨房にもないのだろう。
3か月に1回くらいこんなことがある。
いや、もっと頻繁か。こういう失敗は続くときは続くものだった。
納品を終え職場に戻ると、関さんがひとりで奮闘中だった。
僕もすぐ作業に合流した。西尾君が来るのは9時。それまで関さんと二人で朝からの作業の遅れを取り戻さなければならない。
西尾君が出勤してきた時には何事もなかったかのような状態にしておかなければならない。
なぜそんな必要が?
それは店長としての意地みたいなものだ。
9時になり、西尾君が出勤してきた。
関さんも僕の「意地」を理解してくれているからか、かなり頑張ってくれた。そのおかげで彼がタイムカードを通した時には普段通りのフロアの状態になっていた。
しかし時計を見たらまだ8時30分にもなってなかった。
西尾君は早めに出勤したみたいだった。
「大丈夫ですか?」と西尾君が僕に尋ねた。
「なにが?」
「いや、パンが失敗して店長が配達に行かれたって聞いたので」
「ああ。もう終わったよ」と僕は言った。「朝食用じゃけえ、すぐに届けんと間に合わんよね。てか、なんで知っとるん」
「あ、私が連絡したんです。」と関さんが軽く挙手をした。「でも終わっちゃいましたね。なんかやばいかなって思ったんですけど。さすが店長」
「終わるじゃろ」と僕。
なぜ西尾君を呼ぶんだ。
西尾君になにが出来る?と口元まで出かかっていたが、その時電話が入った。
電話はホテルの「調達課」からだった。
「こころさん、どういう事なのか、ちゃんと説明してくれる?」とホテルの調達課の事務所で担当の大木さんが僕に詰め寄った。
ホテルの調達課という部署はうちのような納入業者に発注を出し、納品時の検収作業をする部署だ。早朝は厨房に直接納品するのだが、だいたい8時くらいからはこの調達課を通してからの納品になる。発注と納品の数が合っているかどうかを確かめるのが主であるが、時にはパンの出来不出来などのチェックなどもされることもあった。それが厨房の人よりもかなり厳しくチェックされたりもする。
大木さんは僕にラップで包まれた食事パンを渡した。
ひとつは今朝ドライバーさんが納品したこのホテル用に焼いたパン。もうひとつは僕が数の不足分を埋め合わせるために納品した別のレストランが使用する予定だった食事パン。
「これなに?」と大木さんはあきらかに不機嫌そうだった。
本日二度目の訪問。
大木さんにこのホテルの調達課の事務所に呼び出されて楽しかったことなど一度もない。それはそうだ。呼び出しをくらうのはクレームの時だけだからだ。
地下2階にあるこの事務所は薄暗く、すぐそばに商品の搬入口もあり頻繁にトラックなど納品の車が出入りすることから事務所の中まで排気ガスの匂いがした。
「こんな焦げたパンをよく納品できたね」と大木さん。
朝イチのボツ達の中から選りすぐったつもりではあったが、通常納品しているものに比べたらかなり焼き色が濃いのは確かだった。
「うちがいつも頼んでるのこんな色してますか?」
「いえ、そうですね。確かにちょっと黒いですよね」と僕。
「確かにって黒いでしょ。黒すぎでしょ。こころさん何言ってんの?ちょっとじゃないでしょ。むちゃくちゃ黒いでしょ。」
「そうですね・・・」僕はとにかく頭を下げた「申し訳ございません」
「あのね、厨房は仕方なく受け取ったみたいだけど、こんなの納品して良いわけないよね。なんでちゃんとしたものを持って来ないわけ?ちょっと驚きだよね。こころさんがこんな黒いパンを平気で持ってくるなんてね」と大木さんは腰かけている椅子の背もたれをギイギイと音を立てながら揺らした。「あのね、こころさんおかしいんじゃない。」
すいませんと僕はただ頭を下げた。
「で、その見たことないパンはなに?」大木さんは僕に手渡したラップに包まれたパンを顎で指し示した。「なんなのそれ?」
「これはパンの数が足りないのでとりあえず用意させていただいたんですが・・・」
「いや、だからそれなに?」
「それなにって言うか・・・」
「いや、それうちが頼んでるパンなの?違うよね。見たことないよ。うちに納品してるパンじゃないよね。なんでそんな危険なことすんの?あんた何かあったら責任とれんの?それ誰の指示?誰がそんなパンを勝手に納品しろって言ったの?誰よ?誰が言ったの?」
「誰と言いますか・・・僕の判断で」
「僕の判断って、なんであんたがそんな判断するの?」
「いや、数が足らないとモーニングでお困りになるかと・・・」
「数が足りないってなんで足りないの?うちちゃんと発注だしてるよね。これ、ほら。これうちが流した発注書。ほら、これ」大木さんはホテル定型の発注書の控えを僕に渡した。「ほら、これうちの発注書。これ届いてない?こころさん、この発注書届いてないですか?」
「いえ、届いてます」
「届いてますじゃないでしょ。そこになんて書いてあります?」
「ええ、ちゃんと発注していただいてます。」
「発注していただいてますじゃないよ。ちゃんと読んでみて。そこになんて書いてあるの?」
「バターロールの小35個。よもぎロール25個。ミニクロワッサン60個。胚芽ロール25個。」
「で、こころさん何個持ってきたの?」
「最初、バターロールが15個で、ヨモギが10個。ミニクロは60個オッケーで胚芽はゼロでした。」
「で?」
「その足りない数をとりあえず納品させていただいたんですが」
「とりあえずって何?」と大木さん。
「とりあえずと言いますか・・・」
「いや、なんでうちに納品してないタイプのパンを平気で持ってくるの?」
「平気でって言うか、お困りになるかと・・・」
「困るよ。困ってるんですよ。あんたんとこがちゃんと発注どおり納品してくれないから。あんたんとこがうちが注文した通りのパンを揃えてくれりゃあ別に何の問題もないんですよ。あんたんとこがパンを焦がそうがどうしようがうちには関係ないでしょ。うちはちゃんと注文出してるでしょ。それも1週間前までにはちゃんと発注出してるんですよ。あんたんとこが1週間前までには注文してくれって言うから。ちゃんとうちは決められた通り発注を流してるんですよ。で、あんたんとこも注文承諾の連絡をうちにしてるでしょ。承諾したんだから責任もってちゃんとしたパンをちゃんとした数で納品してよ。そうでしょ。違う?」
「はい。おっしゃるとおりです。」
「で、そのいつもとは違うパンをなんで納品するの?それうちが頼んでるパンとは違うじゃない。うちがね知らないパンを勝手に納品されたら困るのよ。それがわかんない?」
「アレルギーとかですよね」
「そうよ。そんな何が入ってるかわからないもんお客さんに出せっこないじゃない。そのパンの仕様書、うちに提出してるの?してないよね。なのになんでうちに持ってくるの?なんでそれをお客さんに食べさせるの?」
「原材料に関しては発注いただいたバターロールやよもぎ、胚芽と同じ生地を使ったものですから。ただ成形が、巻きのロールか丸めた状態の成形かの違いだけで。」
「なに?同じ生地使ってるから問題ないって言いたいの?」
「問題ないと言いますか、アレルギーは同じであると」と僕。
何を言っても言い訳に過ぎない。
とにかく謝るしかない。
「申し訳ございません」僕は大木さんに許してくださいと頭を下げた。
「でもこれ仕様書出てないですよね?」
「はい。申し訳ございません。この成形のバターロールやよもぎなどの仕様書は出してません」
ただ今までも焼き損じなどの事態の時は何度か納品した実績はあった。
生地のグラムも同じでただの成形違いだ。
もちろん急な追加の発注などが来た時に「なんでも良いから持ってきて」と言われ納品したこともある。「なんでも良いから持ってきて」と言ったのは大木さんの時もあった。
その時は大木さんが発注を流すのを忘れたのだ。
「仕様書をちゃんと出して」と大木さん。「あとちゃんと書面で今回の件をうちに報告してください。なんでこんな事になったのか。今度こんなことがあったら、あったらいけないんだけど、あったらどうするのか。ちゃんと書面で提出して」
「はい。確かに書面で。」と僕は答えた。
そして「このたびはまことに申し訳ございませんでした」と僕は大木さんに深々と頭を下げた。
頭を下げながら1,2,3,4,5とカウントした。
「今日のは払えないから」と大木さんは言った。
僕は頷いた。
ここから帰してもらえるなら金を払ってもいいくらいに思えた。
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