第3話 2016年開幕

黒田とマエケン。

どちらがスゴイのか正直僕にはよくわからなかったけど、二人が揃った去年でさえも優勝を逃したのだ。マエケンが大リーグへ行ってしまった今、優勝はもうないだろうと誰もが思っていた2016年のペナントレースが開幕した頃。

僕は広島駅の近くにいた。

久しぶりにスーツを着て。

電話が鳴った。

着信は会社からだった。

きっとうちの職場のエースである西尾君からだ。

なぜエースか?

会社の期待を一身に背負っているからだ。

それにしても今から商談って時に、なに考えてるんだろう。

「いま電話よろしいですか」と西尾君。

低音が魅力的である。

僕はどちらかと言えば高い声でなおかつ早口。そして滑舌が悪い。まあ魅力的ではない。

よろしくなければ電話は取らないよと思いつつ「なに?」と言葉少なく聞き返した。

「さっきT病院から電話がありまして」

魅力的な低音かもしれないが暗いという印象をこの時は強く感じた。

クレームか?

「今朝納品したバターロールなんですが」

クレームだな。

「日付が切れてたみたいで」

「切れてた?」

「消費期限のシールなんですが、昨日の夜、僕が日付の設定を間違ったみたいで」

「マジ?」

「26日で日付をうたないといけないのを22って」

「なんでそんな?」

「逆に回したみたいで。日付の設定するときに。4から2回したら6じゃないですか。それを逆に回したから2になったみたいで」

「マジか?」

「すいません。僕のミスみたいです」

エース西尾はあっさりと自分の非を認めた「みたい」だった。

「で、どうせえって?」

「どうせえって、何も」

ちょっと間をおいて「すいませんでした」ともう一度西尾君は僕に謝った。

「すぐ来いとか言われんかったか?」

「いえそんなことはなにも。」

消費期限の誤印字っていうミスはうちの会社で発生する商品事故の中では髪の毛などの異物混入と並んで割とよくあるものだった。

「しあわせパン工房こころ」は広島市内で40年近く営業を続けるパンの製造販売業だ。リテイルベーカリーと言うタイプのパン屋で焼き立てのパンを店舗で販売するのが主である。

俗にいうバブル崩壊後ではあるが20年近く前に広島市南区のあさひ町に店舗兼セントラル工場を設け、市内にあるうちの系列店数店舗とレストランやデパートなどの取引先用にパンを作って納品を続けていた。

そんな日々のパン屋の業務の中でやはりクレームというものが少なからず発生する。

クレームの連絡を受けると、その納品先やクレーム先に出向いてお詫びと商品の回収を行うのが常であったし、僕の勤めるパン屋では店長が専ら担う仕事のひとつであった。

「特に怒ってるって感じはなかったんですが」と西尾君は付け加えた。

「マジで?」

「報告までって言われてたんで」とエース。「申し訳ございませんでしたって言っときました」

「それで終わったん?」

「はい、一応は」とエース。

とりあえず苦情の件で病院に電話を1本いれておくべきか。

でもすぐ来いと言われるかもしれない。

広島駅に来たのは広島駅の北口近くにあるイタリアンレストランがうちのパンを使いたいと言ってきたからだった。

それはうちの本社が持ってきた話だった。

「きっとうちの会社のためになる話だから」と本社は言った。

新規の取引、それも配達がからむ仕事をここ一年くらいはセーブしていた。

何をするにも人手が足りない。

配達する人も早朝から夕方まで車で走りっぱなしだし、パン製造も慢性的な人手不足だった。

直接僕のいる店舗に新規の取引話があれば「ちょっと今は難しいんですよ」ってすぐに断るのだが、本社経由で入ってきた話の場合はそうもいかない。

基本、僕は「本社」=「上司」の言葉には忠実に従う男なのだ。

それに「上司」の期待に添いたいという気持ちも会社員なら当然ある。

「わかった」と言って僕は電話を切った。

何をどうわかったのか?

僕はスマホを上着の内ポケットに隠し待ち合わせ場所へと向かうことにした。


新規取引の商談は順調に進んだ。

商談相手は二人。この店のシェフとフロアを担当している店長。

年齢は僕よりも10歳以上は若い。二人のうち取引の決定権をもっているのはシェフ。店長はただ同席という感じだった。

指定された時間はまだランチ営業の最中だった。

「お客さんが楽しんでる姿をぜひ見てもらいたくてね」とシェフは言った。とにかくこの二人がこの時間帯に抜けてもお店はうまく回るくらいスタッフの質と数には恵まれてるみたいだ。

「シェフのおすすめランチ」的なものが2000円。

それはこの周辺のお店の中では少し高い値段設定だったが、30代から40代の小奇麗な恰好をした女性達のグループでいい感じにテーブルは埋まっていた。

話も盛り上がっているみたいで笑い声が聞こえてくる。

商談はやはり最近の広島駅周辺の再開発がらみのネタをちりばめながら、特に取引条件に込み入った話が出てくるわけもなく、ほぼこちらの希望通りに進んだ。

本社が言うように「流行ってる店」のようだし悪い取引相手ではなかった。

ただパーフェクトではないのは事前に「本社」が伝えてきた毎月の取引額よりも商談中に相手側から提示された取引額がはるかに少なかったことだ。

シェフが言うにはランチとディナーで1日10本程度のフランスパンを使うとのことだった。

アイテムがひとつだけなので簡単な掛け算で答は出る。

本社が言って数字の半分だ。

それは大きな問題なのかもしれないが、本社が進めたがっている話なんだからと僕は相手の話も了承した。

配送のルートからも少し離れているが、本社もそれを分かったうえで勧めてきた話だ。

とにかく本社の意向に沿うようにしようと決めていた。


スマホはサイレントモードに設定していたが虫の知らせか着信に気づいた。

会社からだ。

きっと「クレームは解決しました」とエース西尾が僕に伝えようとしてる。

いや、そんなわけはない。


シェフと口約束みたいな感じにはなるが契約を済ませ、僕はレストランを後にした。

順調に取引が進めば僕がもうここを訪れることはほぼない。23時までにレストランからのパンの発注がFAXで届く。0時頃に出勤してきたパン製造の者たちがそれをみて作業に入る。

もちろん他にもいろいろ作るものがあるけどレストラン納品するフランスパンの1回目が焼けてくるのは朝の6時頃。お店用のパンを籠に盛り付けて棚に並べたりレストランや病院など取引先への出荷用のパンの準備を担当する従業員は4時に出勤する。それが僕だ。そして定刻までに商品を届ける。

着信のメッセージと同じ画面に映し出された時間を確認した。

出勤してからもうすぐ10時間が経とうとしている。

と言ってもまだ14時。

パン屋でなければ今からが仕事も本番って感じかもしれない。

そんなことを考えてる場合ではないのはわかっていた。

きっと状況は悪化している。

僕も今からが本番になるのかもしれない。

会社に電話を入れた。

「あれから病院から電話がありまして。なんで誰も来ないんだって」と西尾君。

「え?別に来んでええって言われたんじゃないんか?」

「いえ、あの、来んでええって言うか、報告までって最初は・・・」とエースの低音は乱れた。

「連絡してみるわ。誰なん?」

「あ、いえ、もう本社に頼んだんで・・・」

「は?」

「いえ、あの、店長と連絡取れなかったんで」

「で、本社に言うたわけ?本社なんかなんもわからんじゃろうが」

「でも、クレームが起きてもしも自分と連絡がつかなかったら、すぐに本社に連絡して対応しろって前に言ってたじゃないですか」とエースは言い返した。

「そりゃ、クレームの内容が違うじゃろうが。お前、そんなんもわからんのんか」

「内容って言われても・・・」

その時のクレームの内容なんて思い出せない。お互いそうだった。

ただそんな事を西尾君に言った覚えはあった。

西尾君からこのクレームの第一報が入ってから既にかなり経っていた。

パンなら発酵し過ぎてもう使い物にならないレベルだ。

膨らみ過ぎてへちゃげてる。

もう一生地を丸め直すか?

それは無駄に思えた。

「もうええ。わかったわ」と僕はそう言って電話を切った。

わかったのはこのクレームの対応を誤ったということ。

最初から僕は間違っていたのだ。

ただ今はそんなことも考えたくなかった。

何がどうなるか不安で仕方なかった。

ただ今日がこれで終わってくれることを祈った。



「よおわからんのんじゃけど」

次の日、出社してきた西尾君に僕はそう冷たく言った。

おはようの挨拶を返すことも顔を見ることもなく。

出荷作業をするフロアに僕とアルバイトスタッフの関さんと山口さんの3人がいた。そこに西尾君が加わり本日のメンバーはこの4人。

フロアには先ほど焼きあがったばかりの食パンが並んだラックが2台と7時の開店直後くらいに焼きあがったイギリスパンや2斤サイズのこぶりな食パンたちが並んだラックが2台。

バターロールや出荷用の菓子パンなどが並んだ焼成用の鉄板が20枚挿せる縦型の可動式ラックが7、8台。

今日はパンの焼き上げが遅れ気味で受け手の僕たちも配送の準備に追われていた。

焼き上げの時間の遅れなど納品先は考慮してはくれないし、契約している配送のドライバーさん達も出発の時間が遅れることを極端に嫌った。

「逆に回すってどういうことなん?」

一晩経ったら少しは不安な気持ちもやわらぐかと思ったが、今は不安+イライラだった。

何も解決してないのだから、それもそうだろう。

昨日はあれから、本社に確認の電話を入れたところ、とりあえずお詫びはしてあるので、あとは先方に渡す「報告書」を作れという指示だった。

何月何日こうこうこう言う商品事故があり、それはこうこうこういう理由で発生したと思われるので、今後はその作業をこうこうこう言う改善をし再発防止に努めます。そんな感じのものだ。

もちろんその報告書を作成するのは店長たる僕の役目である。

そして今目の前にそんな余計な仕事を増やしてくれた男が立っているのだ。

おはようございますじゃなくて申し訳ございませんじゃないのか。

だいたいクレームが発生した次の日にいつもと同じ時間に出勤してくるってどういう了見だ。

時計は午前9時を回ったところだった。僕は既に5時間は働いている。

なのにクレームの原因を作ったエース西尾君は今頃出勤。

と言ってもそのシフトを組んでいるのは僕なんだが。

西尾君が「ラベラー」と呼ばれる日付シールを打つ道具を持ってきて僕に「日付を逆に2回回すシーン」を再現した。

わざわざ最初の日付をミスを起こした24日に合わせてから実演。

一回クルッと。

もう一度クルッと。

ほら22になったでしょとでも言わんばかりに彼はラベラーを僕に見せた。

「アホかお前は」どことなく他人事のような彼に少し呆れた。「なんで確認せんのん?」

「いや、したつもりだったんですが」

「したつもりって、ただのつもりじゃろ。確認しとらんけえ間違うとるんじゃろうが」

「それはそうです・・・すいません」

「なんでせんのん?」

「え?」

「なんでちゃんと確認せんわけ?」

エース西尾は僕の言葉に首を傾げた。なにか答えようとはしているみたいだが適切な言葉が浮かんでこないみたいだった。

勝った・・・彼の態度に僕の中で浮かんだ率直な気持ちはそれだった。

彼に勝った。

「お前、ちゃんと声出して日付を読んどるんか?」強い口調でエースに問うた。「声を出して日付を読むって決まりじゃないんか?」

僕の確認にエースは小さく頷くだけ。

「なんで声に出して読まんといけんのんじゃと思う?」

「間違いがないか確認のためです。」

「なんでそれがわかっとるのにお前はやらんのんや。いつもじゃろ。お前、いつも声に出して読まんじゃろうが」

 いつも決まりを守れていないのを知っているのならその都度注意すればいいのではないか?

そうは思ったが、20歳近く年下の西尾君をやり込めたいと言う思いが沸々と沸きだす。

止めようにも止まらないのだ。

「すいません」とおそらくエースは言ったのだと思う。低音は小さいボリュームだと聞き取りにくい。聞こえなかったことにする。

「読むのが恥ずかしいんか?」

「いえ・・・そう言うわけでは」

「じゃあなんなんや。なんで声に出して日付をちゃんと読み上げんのんや。のお?これが初めてか?日付間違いはこれが初めてか?違うじゃろ。前にもあったよの」

「すいません」

聞こえない。

謝罪は却下する。

「前もお前が同じような間違いをしたよの。じゃけえ、ワシは今度から声に出して日付を読むように徹底しようって決めたんよ。お前もそれでわかったって言うたじゃろうが」

西尾君は今度は本当に黙り込んだ。

ふてぶてしい態度というわけではなかったが、僕としてはそんな態度も癪に障った。

彼が今一つ何を考えているのか僕にはよく理解できないのだ。

「お前はこの仕事をバカにしとるんよ」

「いえ、そんな」

「いやバカにしとる。バカにしとるけえ決められたとおりにできんのんよ」と僕は声を荒げた。それが自然に声が大きくなったのか、それとも意図的だったのか自分でも判断がつかなかった。もちろん西尾君が本当にこの仕事をバカにしているのかなんてわかるはずもない。

誰にでも出来る単純な仕事ですねと彼から言われたことももちろんない。

ただ決めたことを実行してもらえないとこの仕事ではなく、僕がバカにされているように感じるのだ。

とにかく言葉を続けないといけない。

とにかく西尾君を攻め続けないと。

勝ち負けなら既に決しているのかもしれなかったのに、僕はまだ執拗に彼を責めた。

ただの憂さ晴らしなのか。

「店長、もうすぐ便が戻ってきますよ」と僕と西尾君の間に割って入ったのはアルバイトスタッフの関さんだった。

関さんは主婦のアルバイトの方で10年近くここで僕と一緒に働いている。

僕よりも5つ年下なのだが年齢よりもかなり若く見える。

「西尾さんにこの伝票を処理してもらっていいですか?次の便で伝票もっていくって都倉さんが」と関さんは僕に確認した。

都倉さんってのは配送のスタッフのひとり。

ちょっと強面のドライバーさんだ。

僕が了承する前に、関さんは西尾君に処理すべき資料を数枚渡した。

つまりもうこの話は終わりってことだ。

いや、終わりではない。

一時停止だ。

でもそれでよかったようにも思えた。

関さんに頼まれるままパソコンに向かう西尾君に向けてそばにあった台車を軽く蹴った。

台車は全くと言っていいほど動かなかった。

もう一人のアルバイトの「無表情で無口な」山口さんが自分の作業に必要だったのかその台車を無言で奪っていった。

僕も僕の作業に戻らなければならなかった。

不安もイライラも別になくなったわけではなかったけれど。

焼き立てだったパンも扇風機の風にあたり、かなり冷めたみたいだ。

今日は65本の食パンをスライスする。

そしてクレーム処理として、病院への報告書を仕上げるのだ。

僕だって忙しいのだ。

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