第24話 有給休暇
月曜日。
予定の時間になっても西尾君は出勤してこなかった。
もちろん予定通り、山口さんは休ませていたし、西尾君の代わりに店出しをしてくれる小池チーフもいない。
でも西尾君とどんな顔をして働けばいいのか、僕自身まだよくわからなかったので彼の不在には内心ほっとした。
予定ではないが、彼が出勤しないことは予想出来たので、僕もいつもより早めに出勤して早朝の作業に取り掛かっていた。
出荷の準備も店出しもひとりでこなせた。
開店近くになって下田さんが出勤してきた。
西尾君が来ていないことを知ると「来てないなら、なんで連絡してくれんのん?」と僕を責めた。
確かに彼女の言う通りだ。店出し云々よりも、販売の段取りも変わってくる。
「店長って、自分勝手よね」と下田さんは言った。
「自分勝手?僕が?」ちょっと心外だった。自己犠牲の精神に満ち溢れているとまでは言わないが、自己中心的な振る舞いを今までしてきたつもりはなかった。
「どうせ、店出しも出荷も全部ひとりでできましたよって感じでしょ」
その指摘は正解だった。
そして開店の時間になった。
店出しも朝の出荷も間に合った。
でも関さんは来なかった。
西尾君の消化できてない休みを今のうちに消化させるようにとの指示が副社長からあったはその日の9時頃だった。本社のメンバーは9時から出勤だ。
今、予定外に西尾君に休まれると業務にどんな影響があるかわかっていないようだった。
それはみんなの精神的な影響とかではない。
西尾君に休まれると、単純にシフトが回らない。
それは無理ですと断りを入れたのだが、副社長からは社長の命令だからと突っぱねられた。
続けて「今、西尾がおっても困るじゃろ」と副社長は言った。
そんな事を言われてもと思ったが、これ以上そんな話に時間を割いている暇もなかった。
今日は僕だけでなく店も下田さんひとりなのだ。
「それなら誰か応援を寄こしてください」とだけ言って、僕は電話を切った。
少しイライラしていた。
当然のように誰も応援など来ることはなかったし、本社の誰かがこちらの様子を見に来ることもなかったが、とにかく一日は終わった。
下田さんは「店長、休憩行っていいよ」と閉店作業をしながら僕に言った。
僕はレジの清算中だった。
昼のピークが終わった後には下田さんの休憩交代にも僕は入った。我ながら大活躍の一日だった。
「レジ締めたら休憩行っていいよ」と下田さんは言った。
「ありがとう。」僕は頭を下げた。
「ほんと、もう休憩しても大丈夫だからね」下田さんは笑ってくれた。
関さんからは休むとも辞めるとも何の連絡もなかった。
LINEは金曜日の夜に僕から送ったメッセージが既読になったきりだった。
昨日の話の続きはなかった。
僕も下田さんもこの日はこれ以上何もしゃべらなかった。
お互い疲れ果てていた。
火曜日。
「入れ替えた方が早くない?」
個室のドアを開けたのは怪訝な顔した下田さんだった。
僕は個室の中で日付シールを剥がしていた。
病院へ納品する予定のロールパン45g×1個入り250袋に、日付の設定を間違えて1日長い消費期限の入ったシールを貼り付けてしまった。全部貼り終えたと同時に間違えに気づいた。
「剥がしても、跡が残るし」と下田さんはロールパンが入った袋を手にとり、袋についた日付シールの跡を見せた。「ほら、うっすらね」
丁寧に剥がしたつもりだったが、目を凝らせば確かに跡はついている。
「日付の偽造と思われるから、張り替えは厳禁って決まりですよね。」
下田さんの言う通りだ。
シールを間違ったら、張り替えるのではなく、袋からパンを出して、新しい袋に入れ替えるのがうちの決まりだ。
その決まりを作ったのも僕だった。
「もったいないですよ」と下田さんは言った。
「袋がね」
「時間ですよ」と下田さんは僕の答を訂正した。「そんなチマチマ剥がしてたら時間がもったいないですよ。人が少ないんだから」
個室の外では山口さんが孤軍奮闘中だ。
「店長」
「ん?」
「しっかりしてください。」
「ごめん」
「店に戻りますよ。」
「はい。」
「私もひとりなんで」と下田さんは僕の肩をポンと叩いた。「店長、ファイトです。」
ファイト。
僕は何と戦っているんだ?
シールを張?がし終えたものも含めてすべて、袋を破って中身を取り出した。
決まりは守らなければならない。
関さんが同じ失敗をしたことがあった。
二人で一緒に入れなおした。
でも今日は僕一人だった。
水曜日。
「店長、ちゃんと言ってくださいよ。言ってくれれば、ちゃんとシフト組みますから」小池チーフは手慣れた感じで店出しをした。
ボリュームを出すつもりでパンをてんこ盛りなどしなくなった。柔らかいパンはそんな事したら一発でへこんでしまうから。
この日は山口さんと2人だと思っていたが、小池チーフが応援に下りてきてらくれたので3人での早朝作業になった。かなり作業的には楽になったが、のんびりなどはしていられなかった。今日は早朝よりも昼間の作業がハードになる予定だった。少しでも作業を進めておかないといけない。
「まあ、1週間だから」と僕は小池君に答えた。
「1週間で戻ってくるんですか?」
「誰が?」
「誰がって、西尾君が」小池チーフの声は聞き取りにくい。作業中の工場内の騒音に簡単にかき消されてしまう。社長から「小池、ちゃんと声を出せ」と叱責されたことも過去には何度もあった。でもそれは一向に改善されないままに、社長も諦めたのかそんな事を言わなくなった。
「1週間で戻ってくるって連絡あったんですか?」
「いや、ないけど。」
「じゃあなんで1週間で戻ってくるんですか?」
「消化できてない休みって、西尾君の場合はそんなもんよ。」
彼が店に出始めるまではちゃんと休みを毎月消化させていた。
「てか、そんなん関係ないでしょ。彼、うちには戻ってこれんでしょ。」
「なんで?」
「なんでって、戻って来て欲しいんですか?」と小池君は僕に確かめた。
戻って来て欲しいのか?などと聞かれても、そもそも西尾君が何をしたんだ。職場から追放されるような悪事を働いたわけか?
「戻って来てくれんと困るじゃろ」
「困らんでしょ」と小池君は言った。「店出しのパン、前のやり方に戻したけど売上なんも変わってないし。」
西尾君的には不満そうだったが、社長からの命令と言うことで出荷作業の繁忙期、つまり秋から年末までは店用のパンの焼き上げは朝イチの1回と言うことになっていた。
売上は西尾君の案が採用される前も採用された後も、実際それほど変わってはいなかった。
売れる日は売れる。
売れない日は売れない。
「でも西尾のおかげでパンがキレイになった。」
「今からは西尾君がいなくても気を付けますよ」と小池チーフは約束してくれた。
しあわせパン工房あさひ町店にとってはとても大切な約束をしてもらったところで、下田さんが出勤してきた。
「朝っぱらから、男二人がなにをニコニコ笑って働きょうるんかいね」と下田さんは呆れた顔した。でも僕たち二人を見て、彼女も機嫌よさそうだった。
僕も下田さんの機嫌が良くて嬉しかった。
でも、今日も時間になっても関さんは来なかった。
木曜日。
「すいません」と山口さんは申し訳なさそうなのか、苦しそうなのかどちらともとれそうな声で言った。
僕のスマホに電話があったのは就寝中の午前2時半だった。
山口さんは昨夜からおなかが痛いらしい。
「下痢なんです。」と山口さんは正直に言った。
「大丈夫?」としか言えなかった。
「夜に食べた魚がいけなかったんですかね」
「なん食べたん?」
「しめ鯖」
「怪しいね」と僕は言った。
「すいません」
「わかった。お大事に。朝になったら病院へ行ってみて。」
ノロウイルスなど食中毒などの発生の可能性も考えられるので、吐き気があったり下痢をしたりすると出社を停止する決まりだった。
この人手が足りない状況でも、それは守らなくてはならない。
僕は電話を切った。
まだ時間ではなかったが、顔を洗って服を着替えて出かけよう。
コーヒーは会社で飲もう。
一応、LINEをチェックしてみる。
関さんからは何も連絡はない。
山口さんのいない今日を想像してみる。
なんとかなるだろう。
僕は笑った。
僕以外誰もいない寝室で。
とりあえずそう信じる事しか、もはや出来なかった。
金曜日。
山口さんの体調は回復しなかった。
下田さんは今日と明日で連休の予定だった。
日中は裏の作業を山口さんに任せて、僕が下田さんの代わりに店に立つ予定だった。
「山口さんがダメだったら出るけえね」と下田さんは言ってはくれたものの、彼女に迷惑をかけるつもりはなかった。
今日もまた早めに出勤した。
頭の中ではオモテとウラと、なんとかひとりで出来るように作業計画を立てていた。
まあ帰りはかなり遅くなりそうだけど、それも仕方ない。
西尾君をしばらく休ませることを拒否できなかった僕に責任があるのだ。
僕に責任がある。
僕が責任者なんだ。
何度も自分にそう言い聞かせてきた。
でも特に奮い立つということはなかった。
誰が見てくれるんだ?
こんなことして誰が見てくれるんだ?
誰に見てもらいたいんだ?
僕が頑張る姿を見せたかった人は今ここにはいない。
サンドの婆さんがいつものようにパンを取りに来る。
「フランスのパンはどこにあるかいね」と聞こえるような独り言を言いながら、僕が整理したパンのラックを動かす。
「フランスのパンはそこにはないよ」と僕は言った。
「フランスのパンはどこでしょうかね」
「フランスのパンはまだ焼けてないんよ」
「フランスのパンは今日は遅いんですかね」
「フランスのパンは今日は遅れてるんですよ」
「どうしてですかね?」
「今日はね、週末で納品するパンの数が多いからね、サンドイッチで使う小さいフランスパンは後回しになっとるんよ」と僕は彼女に説明した。「焼けたら持ってくけえ」と彼女に言った。
「忙しいのにすいませんね」と彼女は言った。
サンドの婆さんは手ぶらでサンドイッチの厨房へと戻っていった。
西尾君と関さんの件に絡むサンドイッチのメンバーが誰だったのかまだ確認したことはなかったが、何となくこの婆さんのような気がした。
大きく深呼吸した。
気にするな。自分に言い聞かせた。
その時、「キレんかったね」と後ろから声がした。
下田さんだった。
「店長も大人になったじゃん」と下田さんは言いながらタイムカードを通した。
「どうしたん?」
「店出しするよ」と下田さんは言った。「店長、出荷の方やりんさいや」
「何しに来たん?」
「ん?」下田さんは何のことと言うように首を可愛く傾げた。
「何で来たん?」
「山口さん休むんじゃろ。休むんじゃったら出るって言うたじゃろ」と下田さんは僕を押しのけ、鉄板の上からパンをとって籠に並べた。明太子を挟んだ上にチーズをかけて焼き上げたフランスパンだ。「店長、絶対連絡してくれん思うたけえ、山口さんに直接電話してみたんよ。」
「休んでくれんか?」
「はあ?」
「休みじゃろ。休んでくれんか?」
「なんで?」
「休みじゃけえよ」
「山口さんが出れんかったら出るって言うたじゃろ」
「出んでもええよ。休めや。」
「いやよ」
「は?」
「いやよ。休まん」と下田さんは言った。「どいて、邪魔。」
右手には明太子とチーズのフランスパンが。
左手にはバターシュガーをサンドした胡桃とレーズンの入ったフランスパン。
下田さんは店出しを続けた。
僕は彼女の腕を掴んだ。
勢いで籠から明太子とチーズのフランスパンが1本床に落下した。
「なんよ。落ちたじゃん」下田さんは僕の態度に抗議した。
「帰りんさい。頼むけえ今日休んでくれんか」
「いやって言うとるじゃろ」
「何がいやなんや。休めや」
「休まん。絶対に休まん」
下田さんは僕の手を振り払った。
その勢いで胡桃とレーズンのフランスパンが1本床に落ちた。
「もうやめてや」と下田さんは言った。「もう、やめてや」
下田さんが涙ぐんでいるのがわかった。
「店長が悪いんじゃないのに、なんで店長だけ自分が悪いような顔して頑張るん?なんで?」
「僕のせいじゃけ」
「何が店長のせいなん?店長がなにをしたん?」
「何もしてないよ。何も出来んのんよ。何もできてないんよ」
「わけわからん」と下田さんは言った。「わけわからんのんよ」
彼女の言う通り、確かになにがどうなっているのか僕にもよく理解出来ていなかった。
不倫の疑いのある二人が職場から突然いなくなった。
ひとりは僕の部下の正社員で、もうひとりは信頼していたパートの女性で。
部下の正社員をしばらく休ませろと本社から言われ、もうひとりの信頼してきたパートの女性は何の連絡もないまま休み続けている。
部下の正社員がいつ戻ってくるのかもわからないし、信頼してきたパートの女性がこの先どうするつもりなのか、このまま辞めるのか、それともしばらく休んだら戻ってくるのかもわからない。
僕はと言えば自ら誰かに連絡をとるわけでもなく、ただ相手からの連絡を待ち続けてるだけ。
わからないと言うよりもわかりたくない。
怖い。
このまま何もわからないままの方がまだ、少しは自分の都合が良いことだけを頭に思い浮かべることができる。
現実はあまりにも残酷過ぎる。
ひとりで頑張ることで何かが変わるわけでも、何かを達成できるわけでもない。
月曜日から今日まで。
これがいつまで続くのかもわからない。
わからない方が怖くなかった。
わけわかんない今の方が、何もかわかってしまった未来よりも遥かに幸せなのだ。
「休まんのん?」僕は下田さんに確かめた。
「休まんよ」と下田さんは言った。「店長だけおいて休めんじゃろ」
「わかった」と僕は答えた。
「明日は休むけえ。明日は土曜日じゃけえ、バイト来るし」と下田さんは言ってくれた。
「ありがとう」と僕は下田さんに行った。「ごめんね」
「これ、貸しじゃけえね。今度、店長になんか食べに連れてってもらうわ。」
「いつでも」と僕は言った。
下田さんもようやく笑ってくれた。
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