第16話 残ったチョココロネ

「西尾君、大丈夫ですかね?」

関さんは店の方を覗き込んだ。

個室の中から店の様子は見る事が出来ないが、それでも窓から個室の前を西尾君が行ったり来たりバタバタと動きまわっている姿は見えた。

手には必ずパンを持っている。

「何してるんですかね」と西尾君のそんな姿を見て、僕に聞いてきた。

店でパンが売れて困ってるという感じではなかった。パンはウラからオモテに出されるのではなく、オモテからウラに運ばれ続けている。

「店からダメなパンを外しょうるんじゃろ」と僕は関さんの質問に答えた。

今朝、西尾君が言ったことは正しかった。

悪いパンは店に出さない。

当然の事だ。

西尾君は僕が店出しをしたパンの中から、これはお客さんに出せるような焼き上がりではないとダメ出ししたものを次から次へと店の棚から撤去して、パン製造チーフの小池くんへ抗議に向かい、焼き直しを指示していた。

小池くんから内線で「西尾君が焼き直せって言ってますけど、焼き直した方がいいんですか?」とちょっと面倒くさそうな感じで聞いてきた。

「言う通りにしてあげてや」と僕は小池君に答えた。

「時間かかりますよ。」

「いいよ。」

僕は内線を切った。


今日はかなりスライスの多い日だ。

山口さんは休み。もちろん西尾君もいない。

西尾君とのコーンパンを巡るやりとりを気にしているからか、僕の作業のペースは乱されたままだった。

病院用の作業を終えたらすぐに、かつて西尾君が主に担当していたスーパーマーケットに納品する商品の準備もしなければならない。伝票もある。取引先に提出する衛生管理に関する書類も書かなければならない。明日の出荷の準備もある。

彼が研修のためにこの職場を離れた次の日から僕は休みを取ってなかった。

と言ってもそれはそこまで特別なことでもなかった。

3週間連続で働くことなど今までだって何度もあったことだ。ただ早朝から閉店まで働くと言うことはなかった。昼過ぎには西尾君に任せて帰ることもできたから。

結局、僕も西尾君に頼って助かっていたのだ。

西尾君の前任者が辞めた時に、そのポストの人間がいつ辞めてもいいようにと仕事を与えないつもりだったのに。

出来ないヤツとバカにしていた西尾君の存在が実はある部分では必要な人材になっていたことに気づかされた。

だから今、そんな存在であった西尾君から逃げるために、僕はこの個室の中に隠れているような気さえした。

顔を合わせたくない。

それが正直な気持ちだった。

「なにやってんだろ。」

不意に口から出た言葉に関さんがチラっとこちらを見たけれど、僕は何事もなかったようにスライスする厚みの調整をした。

それにしても西尾君はたった三週間、よその店舗、主に社長が自ら仕切る本店だったが、販売の研修を受けただけなのにかなり自信をつけてきたみたいだった。

それとも元々自信があったのか。

彼には社長から目をかけられているという自負があるのだろう。

そしてその期待に応えてみせるという強い意志があるみたいだ。

彼の前任者がなれなかった、次世代を担う人材に西尾君はなったみたいだ。

「店長、大丈夫ですか?」

「え?」

「スライスしないんですか?」

スライサーの刃は勢いよく回転していたが、その前で僕は食パンをセットしたままじっとしていた。

「代わりましょうか?」

と関さんに言われて、僕は自分自身のスイッチを入れた。僕は忙しいんだ。

僕はスライスを再開した。

まず今の状況を整理しなければならない。

西尾君は改善提案書を本社に提出し、その結果、ウラと呼ばれる出荷作業の担当から店舗販売の担当につまりオモテへ異動になった。

異動というほど職場が離れているわけでもないし、僕も関さんも売り場に立つ事はあった。だいたい僕の中ではオモテとウラは同じくくりだ。

しかしこうして西尾君に改めて店舗の担当にとの辞令を交付されると、店舗販売の仕事の方がこちらのパンの出荷作業よりも優れた仕事のように感じられてしまう。

それまでただの向き不向きや見た目や年齢などでオモテかウラかと担当を決めていただけだったのに。

「暗いですよ」と関さんは僕に身体をぶつけて来た。「なに考えてるんですか。」

「いや、別に」僕はまたスライスを中断していた。

関さんは身体をすりよせるようにして僕をスライサーの前から押し出した。

「店長、袋入れしてください。」関さんは笑いながら僕に指示した。

関さんは食パンのスライスを始めた。

「でも順調でしたね」と関さんは言った。

「なにが?」

「西尾君のいない間も普通に仕事終わりましたね。」

「ああ。」

「なんとかなるもんですね。」

「うん。」

「さすが店長です。」

「え?」

「店長だから出来たんですよ。もしこれが店長が三週間いなかったら無理ですよ。西尾君が三週間ぶっ続けで出てもダメだったと思いますよ。店長だから、私も山口さんも普通に休めて、いつも通りの時間に上がらせてもらえたんですよ。」

「向き不向きでしょ。僕はウラ向きなんでしょ。」

ウラ向きなのか、ウラしか出来ないのか。

関さんと喋っていると気持ちが落ち着く。

彼女はいつも僕を気持ちよくさせる。

こんな人と結婚していれば今とは全く違う人生だったのかもしれない。

「関さんの旦那さんは幸せでしょ。」

「と言うと思いました。」関さんはスライスの手をいっさい止める事がなかった。「旦那には冷たいですよ。旦那の前では別人ですから。」彼女は笑った。

「それは旦那さんに問題があるから?それとも」

関さんはスライスの手をとめた。

「どっちって言うか、お互いにじゃないですかね」と少し考えて彼女は言って、またスライスを続けた。「なんなんですかね。気持ちってわかんないもんですよね。今となってみたら、元々お互いそんなに好きだったわけじゃなかったんだろうって思いますよ。子供にもお父さんとお母さんなんで結婚したんって聞かれるけど。まあ、アンタが出来たからとも言えないし、ほんと答えに困りますよね。昔、製造の独身の男の子が週何回くらい旦那さんとヤルんですか?みたいな質問してきたけど、週何回ってこの子何を夢見てるんだろうって思いましたよ。結婚して何年経ってるって思ってんの?週も月もそんなのあるわけないですよ」と関さんは熱く語った。「ねえ?店長んちもそうでしょ?」

「まあ、そうですよね」素直に答えた。

「でしょ」と関さんは満足したように笑った。しかし次の瞬間、「だからって夫婦仲が悪いってわけじゃないですから、誘ったりしないでくださいね」と小声で言った。

「え?」

「店長、たまに目が男になってるから。」

「そんな事はないですよ。」僕は咄嗟に否定した。

すると「なんですか?こんなおばさんにはトキメかんって言いたいんですか?」と関さんは拗ねるような顔をしてみせた。

「え。いや、そういう意味では、、」

「トキめくでしょ?」と関さんはわざわざ僕の顔を覗き込んだ。

「ああ、そうですね。」僕は目を合わせることもできず、ただ関さんがスライスした食パンを袋に入れた。

「いいですよね。このジジババの感じ。」彼女は言った。

「ジジババ?」

「恋するジジババなんですよ。」

「ジジババ、僕たちが?」

「いい歳して、好きな人が出来たり、相手の気持ちに悩んだり、振り回されたり。自分が子供の頃、40とか50のおじさんおばさんが誰かを好きになったりしてるなんて夢にも思ってみなかったですよね。そんなの若い時のもんだって思ってましたよ」と関さんは呆れたように笑った。

関さんのおかげでこの3週間を乗り切ることができたんだと強く感じた。

彼女がいなければ、僕は自分をここまで追い込んで働くことなどなかったのかもしれない。

彼女に良く見てもらいたいから。

頑張る理由などそんな単純なものなのかもしれない。

関さんは窓の方をちらっと見やると「まあ、恋も30代前半までか」と呟いた。

個室の窓から下田さんの姿が見えた。

彼女と目が合った。

下田さんは大げさに困った顔をしてみせた。西尾君が店に出た事で今日は彼女に一番影響が出ているはずだ。

下田さんが個室のドアを開けた。

「関さん、私と代わろうや。うちが仕分するわ。店出てや。」

「え?私?ムリですよ。」

「お願い、代わってください。」下田さんは関さんの肩にすがりついて泣く振りをした。

「どしたん?」僕も一応下田さんに声かけた。

「もう疲れた」と下田さんは言った。「これっていつまで続くんですか?」

僕は首を傾げた。いつまでと期限が決めらているわけではないとは思うが。いずれにしても今日が初日でまだお昼にもなってない。

関さんが代わってくれん。と下田さんはウソ泣きしながら部屋を出て行った。

まだ初日。そして間もなく昼の時間。

西尾君が焼き直しを命じたパンはまだ焼きあがってこなかった。


閉店時間を迎えてもまだ、この日の仕事は終わってなかった。

と言ってもあとはデスクワークだけだった。

結局、今日は朝の店出し以外は店に一歩も足を踏み入れなかった。

個室にこもってばかりもいられないので、個室の外で西尾君とは何度も顔を合わせることにはなったものの会話を交わすことはなかった。

西尾君が不在の間は僕が毎日店のラストを見ざるを得なかった。

でも今日からはその任務から外された。

下田さんが裏にやってきて「パンとらないんですか?」と僕に声かけた。「たくさんありますよ。キレイなパンが」

閉店後、売れ残ったパンは従業員がいくらかは持ち帰っても良いルールがあった。

「店長、早う来んと」と下田さんは僕のシャツの腕の部分を引っ張った。

余ったパンを持ち帰らせたいわけで店に連れ出したのではないことはわかっていた。彼女は今日のパンの残り具合を僕に見せておきたかったのだ。

店では手慣れた感じで西尾君がレジの清算をしていた。

レジの清算は今までもやっていた仕事だ。でもこうして彼が実際にレジを閉めている場面を目にするのは、ほんと3年ぶりくらいの事だ。僕が彼にこの作業を教えた。教えてからは二人が一緒に職場に残る必要がなかったから、こんな場面に出くわすこともなかった。

僕が店出ししたパンとは見違えるほどキレイな仕上がりのパンが並んでいた。

僕が店出ししたパンは「ボツパン」としてパン製造のメンバーに晒されたあげくに、製造のパートさん達に持ち帰られたんだろう。「今日はおみやげ沢山もろうたよ」とパートのおばさんの一人が嬉しそうに帰っていったのを目の当たりにした。

「今日の売上よりも残っとる方が多いと思うわ」と下田さんは言った。

西尾君は聞こえているのかどうかはわからないが無反応だった。

焼きなおされて店に並んだクリームパンを手に取った。

ぷっくり膨らんで艶もあるし、いい焼き色をしている。底も焦げていない。齧るとすぐにカスタードクリームが口の中にこぼれる。クリームのざらつきもない。美味しい。素直にそう思った。

「やればできる子なんよ」と僕は言った。

「え?」

「丁寧に作れば、いいパンできるじゃん。さすがやね、うちの製造は」

「はあ?店長、なに寝ぼけたこと言うとん」と下田さん。

西尾君にはきっと僕と下田さんのやりとりが聞こえているはずだった。

「これじゃったら、福岡のパンにも負けんよな」と僕は西尾君に声かけた。「そう思わん?」とクリームパンの隣に並んでいたチョココロネを手渡した。

焼き直されたチョココロネはコロネ型に丁寧にパン生地を巻き付けられて焼かれたのだろう。店に残ったチョココロネは朝僕が店出しをしたものよりもコロネ型の部分が倍近く長さがあった。コロネ型へのパン生地の巻く回数は同じ7回だとは思うが、朝の商品とはこうも違うもののように作れるのだ。

「やればできる子なんよ」と僕は西尾君にも言った。

僕は西尾君に笑いかけた。

お疲れ様。これからは仲良くやろうや。とでも僕は言うつもりなのか。

しかし「ダメですよ。意味ないでしょ、こんなの。」

西尾君は憮然とした顔で言った。

僕よりも先に下田さんが西尾君の言葉に反応した。

「意味ないってね、あんたが・・・」

「まあピークの時間を過ぎて焼けてきても意味はないよね」と僕は下田さんの言葉を遮った。

西尾君が焼き直しを命じたパンが焼けてきたのは15時過ぎだった。製造のメンバーは帰る間際にそのパンをまとめて焼いて下してきた。焼き直しを命じられた順に次から次へと作り直していけば、すべてがそんな時間になるような事はなかったかもしれなかった。ただ、西尾君がダメ出しの商品を1点1点ちょこちょこと製造に持っていくので、パン製造の段取り的には全ての焼き直し商品のリストが揃うまで他の作業をしようという事になったのだろう。結果、15時を過ぎての焼き上げになり、今目の前に広がる異常なまでのパンの残り具合となってしまった。

「明日からは朝の店出しの時にダメだったらすぐに焼き直させるよ」と僕は西尾君に言った。「今日は申し訳ない」と僕は西尾君に頭を下げた。

そんな僕の態度に、「はあ?わけわからん」と言ったのは下田さんだった。「パンなんかすぐ出来るわけないんじゃけ、そんなん、ボツじゃけえ焼き直せ言う指示出した西尾君が悪いんじゃないん。最初から間に合うわけないじゃん。それにお客さんがパン見とるのに、バカみたいにこれはボツじゃけえ言うて店から下げたりするけえ、今日は売上とれんかったんよ」

「出来の悪いパンを売って売上をとっても意味がないでしょ」と西尾君が下田さんに言い返した。「そんなことしてるからお客さんがどんどん離れていくんですよ。」

悪循環である。店の売り上げが思うように伸びないから店以外の外商の売り上げを伸ばす。外商の売り上げが増えれば製造が作業に追われて、ひとつひとつの商品を丁寧に仕上げられないしフォローできなくなる。丁寧な仕事ができないと、店に並ぶパンに魅力がなくなり売り上げが落ちる。売り上げが落ちるから更に外商に力を入れる。

そして今は外商での商品の販売には商品の出荷などの管理費や配送費などのコストがかかる割には商材が低単価のため利益が少ない。

だったら利益の高い店舗での販売を充実させると言うのがきっと西尾君の考えなのだろう。

彼の思いはよく理解できた。

「偉そうなこと言うても、こんなけ残らしたのは西尾君なんじゃけえね。あんたが頑なに焼き直しなんかさせるけえ、こんなけのロスになったんよ。あんたがそのダメなパンを店から引くだけにしときゃあ、追加のロスは出んかったんよ。ようはロスが倍になった言うことじゃけえ。そんなこともわからんけえ、あんたはダメなんよ」

「ダメ?何がダメなんですか。」と西尾君は顔を紅潮させた。

仕分けの担当の時、僕から叱責を受けて黙り込んでいた西尾君ではなかった。

ずっと我慢してきたのかなと思った。同時に、人ってすぐに変われるんだなとも思った。

下田さんはまだ何か言っていたが、僕がそれを遮った。

「明日からはちゃんと店出しのパンを見るから」と僕はもう一度二人に言った。

だからもう言い争うのはやめよう。

しかし「いえ、店長はもういいです」と西尾君が言った。

「もういい?」僕は彼の言葉に首を傾げた。

「明日からは僕が店出しをします」と西尾君は言った。「僕が責任を持って店のパンを出します。あさひ町店のパンをこころの中で一番のパンに変えてみせます。こんなんじゃダメなんです。お客さんが遠くからでも通ってきてくれるようなそんなパン屋にするんです」

「僕が店出ししますって、西尾君が休みの日は誰がやるん?」と下田さんが冷静に尋ねた。

「小池チーフにお願いします。チーフだって、ちゃんと責任を負うべきなんですよ」

「小池君がやるわけないじゃん」と下田さんは鼻で笑った。「そんな時間あると思う?」

「時間は作ればいいんですよ。それがお客さんのためになるんだから、その時間はつくらないといけないんです。今までは忙しいからとか、人がいないからとか、そんな言い訳ばかりして何も改善してこなかった。だから今、この店はこんな状況になってる。社長だって言ってます。あさひ町店はもっと売れるはずだって。売れると思ったから、あさひ町に店を出したんだって。それが売れないのは努力が足りないからだって。出来ない理由しか考えないからあさひ町店はダメになったんだって言ってます」

「あんた、店長に失礼じゃない?」と下田さんは言った。

僕としては下田さんのそのセリフこそちょっと勘弁して欲しかったが、言われてしまったものは仕方がない。

まあ西尾君のおっしゃるとおりだろう。

僕は朝の店出しをクビになったというわけだ。

「小池チーフには西尾君からお願いするん?」と僕は彼に確かめた。

西尾君は僕の態度が腑に落ちないのか、じっと僕の顔を見た。

何もないよと僕は心の中で彼に言った。

「僕から、チーフにはお願いしてみます」と西尾君は言った。

「いやって言われるだけじゃ」と下田さんは言った。

「いやって言われたら教えて。僕からも話してみるけえ」と西尾君に伝えた。

西尾君はわかりましたと頷いた。

「わけわからん」と下田さんが嘆いた。

「お疲れ、先に帰るわ」と僕は言った。

デスクワークは次の日に回すことにした。

もう今日はこれで十分だった。

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