第18話 暗くて冷たい空気の中

立場が変わってからというもの、西尾君がかなりの「イラチ」であることがわかった。

やる気に満ち溢れていると言えるかもしれないけど、予定の時間にパンが焼き上がってこないとすぐに製造に電話を入れた。忙しくて製造がなかなか電話に出ないと受話器を叩きつけるように電話を切り、わざわざエレベーターに乗って2階まで確認に行った。

そんな彼の姿を見て一番嫌だったのは、その姿が昔の自分のように思えることだった。

ほんの数年前まで僕自身そんな感じでいつもイライラしていた。

いや数年前などではない。

ついこの2,3か月前までそうだったのだ。

職場の中で苛立ちを自由に見せつけることが出来る人はきっとそこで一番強い立場の人間なのだ。

立場が本当に変わってしまったようだ。

今、ここで苛立ちを見せることが出来るのは西尾君なのだ。

もう僕ではなかった。

僕は怯えるように苛立つ彼から眼を背けた。

いつ噛みつかれるか不安でしかたがなかった。

いや、違う、僕が不安な気持ちなのは彼のそんな荒々しい態度のせいではない。

しかし今日の西尾君のイライラ感は常軌を逸していた。

不安ながらも僕は彼の苛立ちの原因が何であるか見当がついていた。

その原因は昨日の売り上げだった。

「赤ヘルパン」はあさひ町店では360個売り上げた。

「赤ヘルパン」の売り上げ数は「しあわせパン工房・こころ」の全店舗の中であさひ町店が一番多かった。そしてあさひ町店の売り上げ自体も昨日の日曜日が土曜日よりも遥かに大きいだけでなく、西尾君が店舗販売の担当になって以来、一番の売り上げだった。

「赤ヘルパン」360個と言う数はうちくらいの店の規模では驚異的な数だった。

菓子パン生地を帽子型に成形してアルファベットの「C」の字に抜いたクッキーを乗っけただけの「しょぼい」パンなので作る事自体はさほど手間のかかるものではなかったみたいだったが、それでもそれだけの生地を優勝が決まってから用意し、「お客さんがいる時間」に焼き上げることができたのは小池チーフの手腕と言えるものだった。

僕も昨日は店の手伝いに何度もウラからオモテに連れ出された。

おかげで小池君から聞いた「気になる情報」による不安からはいくらかは逃れることが出来た。

その「気になる情報」について、僕は小池君に確認し直すこともできないままだった。


「わけわかんねえ」と悪態を吐くのは、今は僕ではなく西尾君の役目だった。

西尾君は「赤ヘルパン」の追加を製造に頼んだ。

優勝した次の日から2日間、「赤ヘルパン」を販売する予定になっていた。

もちろん2日目に当たるこの日も「赤ヘルパン」は銀色のトレーに盛り付けられ店に並んだ。

カープ優勝翌日の昨日ほど出だしはよくなかったが、10時にはほぼ1回目の100個が売り切れるくらいの勢いはあった。こんな「しょぼい」パンが2日目も売れるのだろうかと思っていた下田さんも「さすがカープじゃね」と感心した。

売り切れる前には当然、西尾君が追加の焼き上げを指示したのだが、製造部門の返事は追加は出来ないとのことだった。

今日は小池チーフがお休みだった。

本当か嘘かはわからないが「赤ヘルパン」の帽子型の成形は小池チーフしかうまく出来ないらしい。今朝焼き上げたものも小池チーフひとりが前日に仕込んだみたいだ。つまり小池チーフがひとりで460個作った計算になる。もちろん他にも仕事はいくらでもあるわけで。

「意地か・・・」僕は呟いた。

言い忘れてたけど、もちろん関さんは出勤している。

彼女は僕のすぐそばにいた。


「赤ヘルパン、もう焼かないんですか?」関さんが内線を切った直後の僕に尋ねた。

西尾君が製造に追加を断られた件を下田さんが僕に報告してきたので、念のために僕からも製造に確認を入れたのだ。

「チーフが休みなんで今日は手が回らないらしい。明日急な別注も入ったから、その準備もあるし」と僕は関さんに答えた。小池君しか成形できないってのは追加を断るために用意された嘘のような気がしたので、関さんには伝えなかった。

「昨日は忙しかったんですね。下田さんがめちゃくちゃ売れたって喜んでましたよ」と関さんは病院用のバターロールを2つずつ袋の中に入れながら言った。

そして「昨日はね・・・」と僕は言葉を続けようとして何も言えなくなった。

「昨日」と言う言葉を口にした瞬間、不思議な感覚に襲われた。

それは僕の体の中心に蓄えていた圧力みたいなものが突然開いたひとつの穴から一気に抜け出してしまったような感覚だった。

なんなんだ?

その圧力が僕を内側から支えていたのだ。

僕はその穴を一生懸命に塞ごうとした。

あっという間に空になったのがわかった。

僕のからだは意外にも卵の殻よりも薄い膜のようなもので出来ていて、内側の圧力が抜けたために外圧と内圧のバランスが崩れて、内側へと砕け落ちていくような感覚がした。

なんなんだ?

自分に問いかけた。

空っぽになってしまったみたいだが、塞ぎさえすればまた圧力が蓄えられていくような気がした。

いや、そう信じたかった。

なんなんだ?

何度も自分の中でそう繰り返し尋ねた。

今日は山口さんが休みだ。フルメンバーで3人なのだから、ほとんどふたりの日ばかり。

だから今日は関さんとふたりの日。

気持ちの良い一日のはずなのに。

昨日は何をしてましたか?

今までなら普通に聞けたことが聞けない。

どこか行きましたか?

誰と一緒に?

普通に聞けたことだったのに聞けない。

聞きたくない。

「西尾君、まだバタバタしてますね」と関さんが言った。

西尾君は内線で電話をしていた。

「はよ頼まんからよ」

「え?」

「朝イチから赤ヘルパン作らせんけえよ。追加を言うタイミングが遅いんよ」

「そうなんですか」

「パンなんかすぐに出来んし。赤ヘルパンなんか売れんと思っとったんじゃろ。昨日あんなけ売れたんじゃけえ、さっさと追加の指示を出しときゃ良かったんよ。西尾、昨日山ほど売れたけえ、今日は売れんと読んだんじゃろ。もともと試作の赤ヘル見たときに売れそうにない言うとったし。西尾のミスよ。」

勢いで「昨日」と言う言葉を入れ込むことが出来た。

何かそれだけでひとつ問題をクリアした気分になれた。

一時的ではあったとしても。

「どうしたんですか?」と関さんは少し心配した顔つきをした。

「え?」

「なんか、今日はみんなイライラしてますね」と関さんは言った。「嫌ですね」

確かにそうだ。

こんな悪態を吐く必要などあるのだろうか。

西尾君に対してではなく僕の言葉は関さんに向けられたものだった。

西尾君の名前を出して、彼女に何かを確かめようとしている。

そんな遠回しなことなどせず聞けばいいじゃないか。

昨日は何をしてましたか?


個室の外で大きな物音がした。

誰かがゴミ箱を蹴っ飛ばしたみたいだ。

誰かがって、そんな事をするのは僕以外ではひとりしかいない。

僕は個室を飛び出した。

「やかましいんじゃ、お前は」と西尾君を怒鳴りつけた。「わりゃ片付けや」

西尾君は一瞬僕の声にたじろいだみたいだったが、すぐに気を取り直し「はあ?」と僕に食って掛かってきた。

「何が、はあな?われが倒したんじゃろうが。はよ片付けや」と最初よりも強く怒鳴りつけた。

一瞬間をおいて「わけわからん」と言って、西尾君はゴミ箱を元の位置に戻した。

散らかったゴミはまだそのままだ。

「はよ拾えや」と2度目よりも強く怒鳴った。

そして「はよせえや」ともう一度怒鳴りつけた。

穴が塞がった。

圧力が戻ってきた。

でもそれはさっきまで僕を満たしていた圧力とは違っていた。

それはとても暗くて冷たくて。

西尾君がふてくされながらも散らかったゴミを手で拾ってゴミ箱に戻していく姿を見ていた。

とても暗くてとても冷たくて。

個室の中から関さんも僕たちの様子をずっと見ていた。

僕の声を聴き、僕の態度を見た。

彼女が見ていたから余計に西尾君を怒鳴りつけた。

メスを前にした2匹のオスだ。

猿かライオンか。

いや、ただのヒトである。

こんな行為に意味があるんだろうか。

ヒトなんだ。

たとえここで西尾君を罵ろうが殴ろうが、いや殺すことが出来たとしても状況は何も変わらない。僕と彼女と彼の関係は変わらない。

今3人がどんな関係なのか、僕と彼はオスで彼女が僕らが奪い合うメスなのか。

なんなんだ?

「はよ店に出とけや、このバカが。」何度怒鳴りつけても気がおさまらない。おさまるはずなどないのだ。僕たちは人間だから。たとえここで彼を打ちのめすことが出来たとしても、僕と彼女の関係は何も変わらない。

なんの解決にもならない。

そしてなにを解決させたいのかもよくわからない。

こうしている間にも時間だけが無駄に過ぎていく。

こんなことしている暇はないはずなのに。

でもその忙しさは僕が自ら作り出したもので、きっと本当はそこまで忙しくしなくてもなんとかなる事なのだ。ただ意地を張っているだけで。

関さんは暗くて冷たい空気の中にいる僕と西尾君を見ていた。

でも僕たちを見ていたのは関さんだけではなかった。

社長も見ていた。

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