第27話 イギリスパンの香り

西尾君からお別れの挨拶もないまま10月になった。

9時になったら西尾君がふらっとやってきて、僕から「お前、何日休みゃあ気が済むんな」と怒鳴られるようなことは起こらなかった。

そんなことがあれば、すべては元通りになるような気がした。

社長から話があったようにサンドイッチの製造にいる3人の高齢者のアルバイトさんは一日一人ずつこちらの作業に加わるようになった。

その中には息子が関さんの旦那の知り合いだという婆さんもいた。その婆さんはパンを取りに来て早朝から僕をイラつかせた婆さんとは違う人物だった。3人の中では一番おとなしく目立たないタイプで、僕には特に害のない人物のように思えた。

その婆さんが関さんがいた場所にいる。

こんな場面を関さんが見たらどう思うんだろう。

でも、こんな場面を関さんが見に来る様子もなかった。

山口さんはうちにヘルプで入るようになったサンドの婆さん達に辛く当たった。

婆さん達が作業について何か質問するたびに、無表情ではなく明らかに苛立ちを顔に浮かべ、説明をする口調もかなり高圧的だった。

そんな山口さんから一度だけ尋ねられたことがあった。

「関さんはもう戻って来ないんですか?」

その質問は僕も何度も自分の中で問いかけていたもので、いまだに答えが見つからない問いだった。

山口さんも関さんの復帰を望んでいるようだった。

「戻って来てもいいんですよね?」と山口さんは更に尋ねた。

「もちろん」と僕は答えた。

もちろん戻ってきて欲しい。

もちろん戻れない。

もちろん戻らない

もちろんの後にどんな言葉を続ければいいのか、僕には決めることがまだ出来なかった。


「店長さん、店長さん」とヘルプで裏にはいったサンドの婆さんが僕を呼んだ。

「さんづけしなくていいから」と僕は何度も言ったのだが、彼女はどうしても僕を「店長さん」と呼んだ。ひとりがそう呼ぶから他の二人も僕を「店長さん」と呼ぶ。

サンドの婆さん達はひとりずつではあるが早朝からこちらに入ってくれたので、小池チーフも店出しの手伝いをすることはなくなった。小池チーフは喜んでくれるかと思ったけど、そうでもなくて「婆さん達がいなくなったら言ってくださいね。すぐシフト組みなおしますから」と店出し応援の再開を望んでいるようだった。

このままサンドの婆さん達がこちらの作業に慣れてくれたら、僕も休みを取れそうだった。

でも、もしも休みがあっても何をすればいいのかよくわからなかった。

僕がこのサンドの婆さん達を受け入れたのは、この人たちが決してウラの作業をこなせるようにはならないと思っていたからなのかもしれない。

休まず働いたからって給料が上がるわけではない。

でも休まず働く事でしか、僕は自分の価値をアピール出来ない。

でもそんなアピールがこの会社の中で何の効き目もなかったことはなんとなくわかっている。

でも、いつかこんな僕を認めてくれる人が現れてくれるかもしれない。

どこかで見てくれる人はきっといる。

それがはかない夢だとしても、夢を見ないよりは幸せなのかもしれない。

それが僕にとっては関さんだったのかもしれない。

関さんの目にどう映るのか。

それだけを考えて僕は仕事をやり続けてきたのかもしれない。

それは会社から経済的や人事的な面で報われる事を半ば諦めてしまったために、僕が自ら創り出した代替えの報酬だったのかもしれない。

僕は得るはずもない形のない報酬を得ていると信じ込むことで、自分を騙して働き続けていただけなのかもしれない。

すべて夢に過ぎない。

しかし夢は覚める。

「タイムカードがゴミ箱ん中に捨ててありましたけど、こりゃあ大事なもんじゃけえ捨てちゃあいけんかと思いましての」とサンドのお婆は僕に縦長の黄色い厚紙を手渡した。

縦長の黄色い厚紙で出来たタイムカードはぐしゃぐしゃと握りつぶされたように丸まっていた。

丸まったものを開かなくてもそれが関さんのタイムカードであることは察しがついた。

月が変わってもまだ関さんのマスターデータは残っていてタイムカードは発行可能な状態だった。

ただしこれは関さんだからデータが残っていたわけではなく、本社の方でマスターデータを消去しない限りはいくらでも発行できるような仕組みだった。

ただ関さん以外の今は在籍していないアルバイトさん達のタイムカードを、例えマスターデータが残されていたとしても発行などしないけど。

とにかくデータ上はまだ彼女は在籍している。

だから僕はタイムカードを発行し、タイムカードフォルダーにいつものように関さんのカードを差し込んでいた。

彼女の定位置に。

そして、誰がこのタイムカードを捨てたのかも察しはついた。

この事について僕は彼女と話をする気はなかった。

「ありがとう」と婆さんに言って、僕は関さんのタイムカードを丁寧に伸ばし、自分の私物入れにしまった。


「今日は早く帰ろうね」まだ閉店には時間があったが、裏の片付けも早々に終わらせて僕は店に顔を覗かせた。

いろいろあった9月だったけど、月末の伝票や売り上げなどの処理も終わった。

10月に入ってから既に5日も経っていた。

下田さんとはそれっきり西尾君や関さんの話をしたことはなかった。

あんな事があったから気まずくなったというわけではなかったが、お互い敢えてその話はしなかった。

僕は自分の気持ちを悟られないために。

彼女は僕にその気持ちを忘れさせたいために。

お互い敢えてその件については話さなかった。

売上を確認した。今日の予算まではほど遠い数字だった。

パンはまだまだ棚にあるけど、予算を達成するにはまだまだお客さんが必要だ。

時計を見た。

閉店まであと30分。

うちのお客さんの平均購入金額からザックリ計算すると、あと15組は来てくれないと予算達成は難しそうだった。

自転車が店の前に止まり、女性のお客さんがひとり入ってきた。

下田さんは元気な声でいらっしゃいませと声をかけた。

まず一組。

続けてもう一台自転車が入ってきた。後ろに幼稚園児くらいの女の子を載せた女性だ。

下田さんはもう一度明るい声でいらっしゃいませと声をかけた。

二組目。

「いい感じじゃね」と下田さんは僕に耳打ちをして微笑んだ。

なんか下田さんと一緒に店に立っている事が素直に嬉しかった。

お客さんがパンを選んでいるのをカウンターの中で待っていると店の電話が鳴り、下田さんが電話をとった。

こんな時間にクレームの電話だと嫌だなと咄嗟に思った。

明るく元気に電話をとった下田さんだったが、その声は次第にトーンが低くなっていった。

クレームか?

お客さんを気にしながら横目で下田さんを見た。

保留を押して受話器を戻した。

そして僕に近づき、耳元で小さな声で言った。

「関さんからよ」

彼女は微笑んではいなかった。

時計を見た。

売上を確認してからまだ1分くらいしか経っていない。

時間は僕が感じるよりもゆっくりと流れているのかもしれない。

お客さんがもう一組入ってきた。

こんな時間に3組で計4人のお客さん。

なかなかいい感じだ。

「店長。関さんから電話」ともう一度下田さんは言った。

わかってる。

でも、心の中ではなぜ今なんだ?と自分の境遇を呪った。

「店長、かけ直しますか?」

お客さんがパンを選らんでいる。

以前よりもずいぶんパンはキレイになったはずだ。

「店長、電話なんですよ?」

わかってると僕は自分に言い聞かせた。

僕は電話を替わった。

「お待たせ致しました」と僕は言った。

お待たせ致しましたなどと堅苦しく言ってしまったことを言った端から後悔した。

受話器の向こうの関さんもきっと僕の余所行きの態度を感じ取ったに違いない。

すぐに反応はなく、しばらくして「関です」と名乗った。

「あ、はい」と僕は短く返事した。

久しぶりに聞く関さんの声は僕の口調のせいなのかやはり余所余所しさがあった。

「久しぶりですね」と僕は静かに言った。

お客さんがもう一組入ってきた。

これで合計5人。

たいして広くもない店だ。

パン棚の前は5人もいれば、ごったがえしと呼べる状態だった。

押し出されるように最初に店に入ったお客さんがトレーいっぱいに盛り上げたパンをレジカウンターまで運んできた。

ありがとうございますと下田さんは明るく挨拶をした。

「すいませんでした」と関さんは言った。「ほんとにごめんなさい」

下田さんはレジにパンの値段を素早く打ち込み、金額を伝えるとお客さんから渡されたトングを使って手慣れた様子でパンをひとつひとつ袋に入れていった。

うしろには既にもう一人のお客さんがトレーにパンを載せて並んでいた。

最初のお客さんが店から出ていくのと入れ替わりに、年配の女性がひとり店に入ってきた。その女性はカウンターに直接やってきて、会計待ちのお客さんを押しのけるようにして、イギリスパンを6枚切の厚さでスライスして欲しいと言った。下田さんはにっこり笑いかけ、少々お待ちくださいとその女性に言って、先のお客さんの会計を終わらせた。

「私・・・」と関さんが何かを言いかけた。

「はい」と僕はそれしか言えない。

関さんは何について謝っているんだろう。

彼女が僕に対して謝るべきなのはいったい何に対してなんだ。

僕に黙って休み続けたことなのか。

それとも、僕を騙した事なのか。

そもそも僕は彼女に騙されたのか?


下田さんはパン棚に並べられたイギリスパンを取り、スライスを始めた。

下田さんと目が合った。

パンを選び終えたお客さんがレジに並んだ。

幼稚園児くらいの女の子はおとなしい子だ。お母さんの後ろをちゃんとついてきている。

いい子だ。

スライス待ちをしていたおばあさんは冷蔵ケースに並んでる1リットルの牛乳の消費期限を下田さんに尋ねた。

下田さんは僕を見た。イギリスパンを切り終え、おばあさんが目を細めて調べる牛乳の消費期限を代わりに確認する。

「ごめんなさい」と関さんが言った。

「店長」と下田さんは僕に声かけた。

お客さんがまた一組入ってきた。

すてきな店だ。

こんな時間にこうやってお客さんが来てくれる。

「ごめんなさい」ともう一度関さんは言った。

だから、なにがごめんなさいなんだ?

関さんは何度も何度も僕に謝った。

下田さんはイギリスパンのおばあさんの会計を終わらせた。

お母さんの後ろについていた女の子と目が合った。

何をしてるの?とその女の子は僕に聞いているみたいだった。

何をしてるんだ?

何も言えない。

何か言わなくちゃ。

関さんと話さなくちゃいけないことがあったんじゃなかったのか。

謝ってなど欲しくない。

そんなの必要じゃない。

「関さん。あの・・」僕は言葉を探した。

でも用意していたはずの言葉がすべて消されていた。

「店長、スライスお願いします。」下田さんが僕に言った。

別のお客さんからイギリスパンのスライスを頼まれた。

うちのイギリスパンは美味しい。

僕も大好きだ。

関さんもうちのイギリスパンは大好きだと言っていた。

僕もうちのイギリスパンが一番好きだ。

「また、いつか」と僕は言った。

下田さんは女の子にパンが入った袋をカウンターから身を乗り出すようにして渡した。

女の子は嬉しそうにパンがいっぱい詰まった袋を受け取った。

電話の向こうで、ようやく言えた僕の言葉に関さんは、何も答えなかった。

またいつか。

そんな日がもう来るはずないことはわかっている。

この電話を切ればもう終わりになる。

終わりに出来る。

僕は下田さんを見た。

彼女は僕を見てくれなかった。

それどころではない。

受話器を耳に当てたまま電話が切れるその最後の瞬間まで、関さんが何か言ってくれやしないかと、それでもまだ期待している自分にうんざりもした。

僕はイギリスパンをスライスしなければならない。

焼きあがってからもう8時間くらいは経っている。

袋からパン取り出しスライスをした。

機械的な音を発しながら高速回転するスライサーの刃がイギリスパンの皮に当たった瞬間から、その断面から香ばしく甘い香りが漂う。

だから僕はスライスする作業が好きだった。

パンを作る職人ではない。

こんな所で働いてもパンも作れないのに意味ないと言われたこともあったけど、僕はそうは思わない。スライサーを使ってイギリスパンを切る。これはパン屋に勤めなければ出来ない仕事だしこの香りを誰よりも先に嗅ぐ事が出来るのもこの仕事だからだ。

関さんもこの香りが好きだと言ってくれた。

よく笑う関さんについても、僕は結局は無表情な山口さんと同じく知らない事ばかりだったのかもしれない。

彼女と初めて出会った時のことを思い出した。

アルバイトの採用で彼女を面接した時に、「うちのパンで好きなパンはありますか?」と尋ねたら、彼女は「イギリスパンが好きでよく買いに来ます」と答えた。

でも、彼女がうちの店に買いに来た記憶がなくて、相槌もろくに打てずに固まっていると、「今から好きになります」と彼女は答え直した。

嘘つきかもしれない。

でも憎めない人だった。

働きはじめてからしばらくして彼女は「いろいろ食べ比べたら、やっぱりイギリスパンが一番美味しかったです」と僕に言った。

「パン屋さんになれて良かったです。」

彼女は笑ってくれた。


僕たちはしあわせパン工房こころのイギリスパンが大好きだった。

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