第26話 退職

バス停での出来事があった翌日、下田さんはちゃんと休みを取ることができた。

ただの腹痛だった山口さんもこの日から復帰し、店も今日は学生のバイトが入ってくれた。

アルバイトは先週の土曜日に出てくれていた畠山さんだった。

僕は店長として彼女に職場で嫌な思いをさせた事を詫びた。

畠山さんは気にしてないですと笑ってくれた。

人数的には増えてないにも関わらず、山口さんが復帰したことにより、気持ちが随分楽になった。

一週間もあればこんな状況でも慣れてしまえるものなんだと思った。

しかしまだ一週間だからなんとか持ちこたえているのかもしれなかった。

ただ今日はこの1週間の中で一番心は軽かった。

昨日の出来事のせいなのかもしれない。

まだ体には彼女の重みを感じることが出来た。

なので社長に突然来られるのは、ちょっと勘弁という感じだった。

その思いは山口さんの方が僕よりも強かったみたいで、社長がやって来て僕にちょっと話があると言った時、おもむろに嫌な顔をしてみせた。

今まで放置しておいて、今さら来るか?

しかし、電話ではなく、わざわざやって来たという事は何らかの状況の変化があったには違いなかった。

「西尾から連絡があってな」と社長は休憩室の椅子に座ると同時に話し始めた。「退職したいらしいわ」

なんとなく予想はしていたので特に驚くことはなかった。社長の言葉にただ頷くだけだった。

あの出来事から1週間。

そんなもんなのか。

長いような。短いような。

「辞める理由は?」

「理由は、まあ他にやりたい仕事でも出来たんじゃないか」と社長は今更ながら言葉を濁した。

「やりたい仕事ですか。」

「じゃろ。」

「自信があるんですね。」

「ん?」

「いえ。別に。」

もしも僕が彼と同じ立場なら退職など選ぶだろうか。

彼の前任者である大森君のことが頭に浮かんだ。

ここで働いていても意味がない。

いったいどんな意味を求めろと言うんだ。

生きていけるだけの収入を確保できるだけで十分ではないのか。

そんな風に、自分に自信がない者だけがここに残る。

そんな気がした。

僕はいつまでもこの職場にしがみ続ける。

どんな目に合おうとも。

どんな恥ずかしい目に合おうとも。

「まあ、しょうがないわの。」社長はため息まじりに言った。「あんな事がありゃあ、会社にはおれんよの」

辞めるということは不適切な関係だったと認めたことになるのだろうか。


そんな事はない。ただ迷惑をかけたから彼は会社から去ろうとしているだけだ。

「止めないんですか?」社長に確認した。

「まあ、本人の意思が固いけぇ」

もしも今、僕も辞めますと言ったら、引き留めてもらえるのだろうか。

試してみる気にもならないが。

「どうや」と社長は僕に尋ねた。「大丈夫か?」

「西尾がいなくてもって意味ですか?」僕は確かめた。

社長は頷いた。

僕は少し考えるふりをして「大丈夫でしょう」と答えた。

「でも二人もいきなりおらんようになると大変じゃぞ」と社長は言った。

「二人?」

「二人じゃろ」

「西尾が辞めるだけでしょ」

僕がそう言うと社長は少し困ったような顔をした。

「関さんのご主人が本社に来たのは聞いてないんか?」と社長は僕に確認した。

「聞いてないです」と僕は答えた。

答えてすぐに体にだるさを感じた。

心の状況がこんなにもすぐに体調に影響を及ぼすものなのだと改めてわかった。

それは魂が僕の体の中から離れていくような感覚だった。

息を吸うことが出来なくて、果てしなく息を漏らし続けるような感じ。

社長にそのことを悟られてはいけない。

「旦那さんはなんと。」

「辞めさせるって」と社長は言った。「まあ、当然そうなるわの」

「本人も辞めたいって言ってるんですか?」

「本人って関さんのことか?」

僕は頷いた。

「本人と話したわけじゃないけえわからんが。でも、うちで働くのはムリじゃろ。本人も、もうよう出てこれんじゃろ。」

「でも・・・」と僕はそこから先の言葉を続けるのはやめた。

本当に不倫なんかあったのか?

ずっとそこで止まってる。

昨日の出来事はもう何の効果もないのか。

僕はすぐに引き戻される。

こんな終わりってあるのか?

また同じことを考える。

どこで僕は間違ったんだろう。

でも、昨日と違うのは目の前にいるのが下田さんではなく社長だと言うことだ。

弱味など見せられない。

「サンドのパートさん達がもっと働きたい言うとるんじゃ。」

「ばあさん達がですか?」

「使うてみんか」と社長は言った。「人材の有効活用じゃ。店長、提案書に書いてくれとったじゃろ」

「いえ。僕は書いてないですね。」

「そうか?」

「それは書いてないですね」僕は否定した。「社長、ちょっと聞いてもいいですか?」

「なに?」

「改善書、あれってどうだったんですかね」

「どうだったって?」

「いや、会社のためになったんですか?」と僕は社長に確かめた。

「会社のためになってないと思うんか?」と社長は逆に聞いてきた。

聞いてるのは僕の方だ。

と大きな声で叫ぶことなど出来るはずもなく、この期に及んで僕はただ首を傾げて見せることしか出来なかった。

「西尾の件は自業自得じゃと思うで」と社長は言った。「他にも辞めたり、異動になったヤツもおるんじゃが、まあ仕方ないんじゃないか。」

「自業自得だから仕方ない」僕は社長の言葉を繰り返した。

「じゃろ。それしか言えんわな」と社長は言った。「でも、あんたはええ事書いとったよ。若手をもっと登用せんといけんのはようわかる。西尾は残念な結果じゃがの。時間はまだまだかかるが若い人を育てていかんとの。」

「若い人もあまりいないんですけどね」と僕は言った。「サンドの婆さん達はうちで使わせてもらいますよ」

「うん。それがええよ」と社長はこの日初めて笑った。「時間はまだまだかかるが、みんなが出してくれた改善書が会社を変えてくれるよ。あんたも力を貸してくれんにゃあ」

社長の言葉に僕はわかりましたと頭を下げた。

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