第25話 抱擁

「明日はゆっくり休んでね」と下田さんに言いながら僕は通用口のドアの鍵を閉めた。

今日も一日が終わった。

当然のことだが下田さんに出勤してもらって助かった。

連休を潰してしまい申し訳なくて、すぐに代わりの連休を考えるからと言ったけど彼女は職場が落ち着いたらでいいと断った。

いつになったら職場が落ち着くのか、先行きは不透明なままだったが、そのことに関してはお互い何も言わなかった。

「明日はゆっくり出来んのんよ」と下田さんは少し笑った。「ごめんね。幸せで。」

今から恋人と会うのだろうか。着替えて降りてくるのが少し遅かった。制服の深緑色の三角巾を外した彼女は僕が思っていたよりも長い髪をしていた。

お出かけ用なのだろうか。化粧を直した彼女は正直言って魅力的だった。

「お幸せに」と僕も少し笑った。

「本当に?」

「ん?」

会話がまだ続くとは思っていなかったし、本当にと尋ねられた意味がわからなくて少し戸惑った。

「店長は幸せ?」と彼女は僕に尋ねた。

少し考えて「幸せじゃろね」と僕は答えてみせた。

「意外じゃね。不幸じゃって言うと思った。」

どこからどこまでが幸せで、どこからどこまでが不幸せなのか。その線引きがよくわからなかったが、今この状況を幸せと呼ぶことさえ出来たら、僕はこれからどんな状況でも乗り越えられそうな気もした。

「と、強がってみたりしてね」僕は笑った。

「店長は不倫は似合わんね」と下田さんは言った。「よかったね、関さんとなんもなくて」

何をくだらない事を言ってるんだと、背中を丸めて笑ってみせた。

「関さんに手を出したのが西尾君でよかった。」

大げさに笑う僕を下田さんは冷静に見つめた。

僕は滑稽に振舞う事しかできない。

でもそれももう限界なのかもしれない。

「二人は本当に不倫なんかしとったんかね。」僕は下田さんに確かめた。

下田さんにそんな事を確かめたところで本当のことがわかるわけでもないのだろうが。

本当は何もないんじゃないん。

そんな言葉を僕はまだ期待しているのか。

でも彼女は何の言葉もくれなかった。

眉間に少しだけ皺を寄せて、一歩後ろに下がった。

「お疲れ様」と僕はこの場から立ち去ろうとする彼女に言った。

彼女も軽く頭を下げた。


彼女が自転車に乗って去っていくのを見送った。

最初の交差点を左に曲がり、彼女の姿が見えなくなった。信号が変わると右手から仕事帰りらしき自転車の一団が彼女の後を追いかけるように流れていった。

しばらく僕はそのままで彼女の姿が消えた交差点を眺めていた。彼女が引き返してくることは当然なかった。

今日はまっすぐ家に帰ることは出来なかった。

どうしても気になることがあった。

この1週間近く、ずっと我慢してきたことなのかもしれない。

でももう限界だった。

下田さんとの会話のせいかもしれない。

僕はまっすぐ家には帰らなかった。

それはあまりにも滑稽だった。

家に戻る道筋とは違う道筋を歩いていた。

19時を過ぎるとすっかり暗くなり、うまい具合に僕の姿を隠してくれた。

僕は西尾君の住むマンションの前にいた。

職場の近くだとは知っていたけど、実際訪れたのは初めてだった。

5階建ての白いワンルームマンション。

西尾君の実家は三次市だった。

彼は今、ここにいるのだろうか。

それとも実家に帰ってるのか。

道路からは見える範囲では、彼の消息はなにもつかめなかった。

僕はさらに自分の家とは逆方向に進んだ。

もう18年もこの町で働いてるから、地理はばっちりだった。

5分ほど歩いた。

バス停が見えた。

バス停の前のマンションの名前を確認した。

関さんの住むマンションだった。

8階建ての茶色いマンション。

もちろんここに来たのは初めてだった。

社内の住所録を見て覚えてきた彼女の部屋の階を目で数えた。

おそらく彼女が住むであろう部屋の窓から明かりは見えなかった。

この二つのマンションをつなぐ道のりを関さんは何度も通ったと言うのか。

バスを待つ振りをしてしばらくそこにいた。

スマートホンを見た。

LINEを立ち上げた。

関さんと僕の会話は先週の金曜日から更新されていない。

職場で直接最後に交わした言葉を思い出そうとした。

思い出そうとしただけで、涙があふれてきた。

こんな終わり方があるのか。

どうして彼女は連絡をくれないんだ。

どうして僕は彼女に連絡が出来ないんだ。

ずっとその繰り返し。

僕には何の準備も出来ていなかった。

なんの準備もなく突然に別れの時がやってきたのだ。

関さんが自分の目の前からいなくなることなんて今まで考えてもみなかった。

何の根拠もないのに、何の約束もしたことなどないのに、僕はいつまでも関さんが僕の傍にいてくれると信じていた。この10年間、僕には彼女が一緒にいてくれる事が当然のように思っていた。当然のようになっていたから、時に彼女に冷たくあたることもあった。時に理不尽に怒ることもあった。子供のようにふてくされては彼女から話しかけられても答えないなんてこともあった。何の約束もないのに、僕はそんな態度も彼女は許してくれると信じていた。彼女だけが僕を理解し、認めてくれていると信じていた。この10年間、僕が生きてこれたのは彼女のおかげだったのかもしれない。彼女の存在なしではこの10年間は形を成さなかったのかもしれない。でも今はその気持ちも伝えることが出来ない。

見上げれば彼女がいるのかもしれない。

電話をすれば彼女につながるのかもしれない。

ここで待ち続ければいつか彼女と直接話せるかもしれない。

このまま関さんを失うことはどうしても納得できなかった。

でも動けない。

何もしようとしない。

ここまで来ることは出来ても、そこから何も出来ない。

「もう帰ろ」

そんな声が聞こえた。

下田さんだった。

「店長、もう帰ろ」と彼女は言った。「もうやめよ。もう帰ろ。」

嫌だと僕は首を横に振った。

でも何も出来ない。

ただ帰りたくはない。

帰ったってただ考えるだけなんだ。

どうしてこんな事になったのか。

ずっと考えるだけ。

なんでこんな事になってしまったんだろうと考えるだけ。

どこで僕は間違ったんだろうと。

この10年間を思い出しながら、どこで間違ったのかを探し続ける。全ての場面に僕の傍には関さんがいる。その全ての場面で僕を許し続けてくれた彼女の姿が実はどれもが嘘だったのかと、僕の都合の良い思い込みだったのかと思うと体が崩れる。両手で顔を覆い、ただ泣くことしかできない。

下田さんは僕の腕を引いた。僕の姿をどこかに隠そうとするかのように。僕はこの場所にいてはいけない人間なんだと腕を掴む彼女の力は語っていた。ここにいてはいけないと。

僕は彼女の手を振り払った。

誰が見ていても構わなかった。

むしろ騒ぎが大きくなって、関さんに僕の存在を気づいてもらえればそれもいいと思った。

僕はここにいる。

もう一度、下田さんが僕の腕を掴んだ。

今度はさらに強く掴んだ。痛みを強く感じるほどに掴んだ。

でもその痛みも関さんをこのまま失う痛みに比べたらどうってことない。

頬を平手打ちされた。

一度。

構わない。

二度。

構わない。

三度。

構わない。

どんなに叩かれても構わないけど、どうして下田さんが泣いているのかわからない。

なぜ君が泣く?

もう一度彼女に頬を平手で打たれた。

それから何度も何度も頬を打たれた。

せっかく化粧直しをしたのに、彼女の顔は涙でくしゃくしゃだった。

どうしてここにいる。

それは僕も。

彼女も。

僕たち二人は今ここにいる必要があるんだ。

必要かあるから今二人でこの場所にこうして立っている。

泣いている彼女を抱き寄せようと手を伸ばした。

しかし彼女は僕の手から体をかわした。

当然のことだ。彼女は僕に抱きしめられる理由はない。

でも彼女は泣きやまない。

そして彼女は自分から歩み寄り、崩れるように僕の胸に顔を埋めた。

顔を埋めて声を出して泣いた。

そして、ごめんなさいと言った。

僕を平手打ちした回数よりも遥かに多くのごめんなさいを彼女は言った。

僕たちがこの場所で抱き合う理由はわからない。

でも、なにか理由があるはずなんだ。

僕にも。

そして彼女にも。

滑稽な姿かもしれないが、たとえ何の解決にもならないとしても、僕たち二人は今こうするしか他に出来る事は何もなかったのかもしれない。

理由はわからない。

でも今はこうしている事が二人にとっては正義だった。

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