第10話 自給自足

「なんか暗いですよ。」と関さんが僕を見て言った。「店長、本社の人と話した後は必ず暗い顔してますよね。」

まあ給料が上がらないと言われてニコニコ笑ってる人もいないだろう。

去年だって、その前の年だって僕は昇給などなかった。

世間ではデフレ脱却などと騒がれているし、こんな地方のパン屋でさえ商品の値上げをする。しかし僕の給料は上がらない。消費税が5%から8%に上がっても給料は上がらない。時には、「本当は上げたいんだけど、、」などと本社から言われた事もあったけどその時でさえも上がらなかった。

給料が上がらないなら上がらないで何も言わないで欲しかった。

わざわざ上がらないと言われると、自分に何か問題があって昇給がないのかなどといろいろ考えてしまう。一応、会社がこんな状況だから昇給や賞与がないという認識である。それ故の納得である。

だからワザワザ言わないで欲しかった。

国産の高級車で乗り付けるようなヤツから言われたくもない。

それとも昇給がないのは僕に原因が?


個室で僕は病院に納品するための食パンをスライスした。

食パンを6枚切りの厚さにスライスしていく。それを丁寧にトレイの上に積み重ねていく。トレイいっぱい6枚切りを4斤ずつ並べて24枚になる。うちの食パンはとても柔らかい。それ以上重ねたり並べたりするのは食パンの形が崩れるからダメ。そんな決まりまである。

「昇給ないって」と僕は小さく言った。スライスを続けながら。

関さんも食パンを指定の枚数ずつ袋に入れていきながらお気の毒にと言わんばかりに眉間に皺を寄せた。

しかし続けて出てきた言葉は「店長、お金ないんですか?」と言うあまりにも直球すぎる言葉だった。

僕は笑って頷いた。

少し気分が和んだ。

関さんらしい質問だった。

「店長、自給自足の生活がしたいって言ってたじゃないですか。」

「うん。いいよね。そういう生活は。」

「自給自足の生活なんてきっとお金ないと思いますよ。だって収入なんかほとんどないでしょ。野菜育てて野菜食べて、余ったら道の駅かなんかでちょこっと売って。」

「はあ。」

「貧乏じゃなくて自給自足をしてるって思えばいいんですよ」と関さんは自信たっぷりにそう言った。

関さんは前向きに物事を考える人だ。

「でも、自給自足の生活って好きなことをして生きてるからお金なくても心が救われるんじゃん。この仕事はそういうわけじゃないから。」僕は反論した。

「店長、ここの仕事楽しくないんですか?」

「楽しくないでしょ?」と聞き返した。

「なんで楽しくないんですか?」

「なんでって、給料は上がらないわ、クレームは多いわ、休みもないわで・・・」

「そんな会社は多いですよ。うちのダンナの会社だってそんなもんですよ。」

「ダンナさんは愚痴ったりしない?」

「しますよ。」と関さんはあっさり言ってのけた。

「愚痴るでしょ」

「だからダンナのこと嫌なんですよ」と関さんは言った。「愚痴るだけだから」

「愚痴るだけ・・・」

「そんなに今が嫌なら、自分でなにか変えてみればいいじゃないかって思うんですよ」

「そんなに簡単なもんじゃないんだと思うよ」と僕は関さんの旦那さんを弁護した。

もちろん自己弁護でもある。

「簡単じゃないから何もしないっておかしくないですか?簡単じゃないなら、すぐに始めないと。時間がもったいないじゃないですか。そうやって嫌だ嫌だって愚痴っている間にも歳を取っていくわけですよ。やり直せない歳になっていくわけですよ」と関さんは言った。

パンを入れる手は止まっていた。

「文句言ってる暇があったらさっさと変えてみせろって」と関さんは言った。

「しゃべってる暇があればさっさと入れろってのもあるよね」と僕は言った。

もちろん冗談だ。

「私、ここの仕事楽しいですよ」と関さんは言った。

まだパンを入れる手は止まったまま。

「店長と一緒に働くの楽しいですよ」

スライサーを止めた。予定の枚数を切り終えたからだ。

「店長や山口さん、都倉さん、西尾君、みんなと働くのって楽しいですよ」と関さんは言ってくれた。「いい職場だと思うんですけど」

僕はスライサーからシーラーへと移動した。

彼女の言葉がとても嬉しかった。

とても嬉しすぎて返事ができなかった。

笑顔でいられるはずがそうではなかった。

そもそも暗いのは昇給がないからではない。それは追加された悩みに過ぎない。

「提案書、けっこう出とるみたい」と僕は食パンの入った袋の口をシーラーで閉じながら言った。

6枚切一枚で50円を病院に請求する。

二人で作業するから25円と言う感じになるのか。

「誰が書くんですか?あんなの・・・」

「うちの店からはかなり提出されているみたいだけど」

「無記名なのにわかるんですか?」

「つまりうちに関する事柄が書かれてるって意味でしょ。」

「うちのなにを改善するんですか?」と関さんはちょっと声を荒げた。

僕は首を傾げた。改善すべき点はいくらでもあるだろう。赤字だ赤字だと言われるんだから何か問題があるはずだ。

ただ今回の「改善提案書」と言うものがそういう問題を扱っているのではないと思えた。目的は別にある。

僕の名前もそこに書かれているのだろうか。

僕の名前を書くなら誰が?

西尾君。

西尾君は提出したのかなと言いかけて言葉を止めた。

「私、書かれてるかも」と関さんが言った。

「え?」

「私みたいなのを嫌がる人はいるでしょ」と関さんは言った。

遅れを取り戻すためかパンをすばやく袋に入れる。

パンの触り方が荒い。

それじゃあパンが曲がってしまう。

僕は彼女が無造作に袋の中に入れ込んだパンの形を整えながらシーラーをしていった。

関さんが誰を想定してそんな事を言っているのか僕には心当たりはなかった。でも関さんには自分を悪く言うであろう誰かの姿がはっきりと見えているみたいだった。

「関さんは大丈夫ですよ。誰も関さんのこと悪く言ったりしないですよ」と僕は言った。「大丈夫です」

関さんは黙ったままパンを袋に放り込み続けている。

「書かれてるのは僕だと思いますよ。パワハラだとか・・・」と僕は言った。

「パワハラ?」関さんは聞き返した。

僕は小さく頷いた。それに関しては心当たりがないわけではない。

「西尾君ですか?」と関さんは僕に確かめた。

僕は首を傾げてみせた。

「あり得ないですよ」と関さんは言った。

「あり得ない?」

「西尾君はそんな事書かないと思いますよ」

「そうかね・・・」

「書かないと思います」と関さんははっきりと言った。

何の根拠があってそう言えるのか。もちろん僕だって西尾君が僕について何か本社に報告したと言う根拠は何もない。

ただ僕が西尾君に対してとっている行為が「パワーハラスメント」と呼ばれる類のものに該当するのではないかという気はしている。

いや、きっとそうなのだ。

それなら明日から僕は西尾君に対する態度、それを今までは指導だと信じていたのだが、それを改めることが出来るのか?

いや、指導だろ。指導じゃないか。

指導か?

指導だよ。指導。

今までもこれからもそれは指導なのだ。

次世代のために指導していかなくてはならない。

なのになぜ恐れる?

「店長、シーラーが溜まってますよ」と関さんが言った。「悩んでる暇があったら・・」

「さっさとシーラーしてしまえと」と僕は言った。

「はやく口を閉じないとコバエが袋に入って、またクレームになりますよ」と関さんは言って笑った。

 確かにコバエが発生しやすい季節になった。

毎年1回はコバエや虫がパンの袋に入っているというクレームがある。

いや、1回なら少ない方だ。

「気を付けましょう」と僕は言った。

「はい、店長」と関さんは言った。

「関さんは大丈夫よ」と僕は言った。「もしも誰かが関さんのことを悪く書いてても、僕が関さんを守るから」

「店長が?」

「大丈夫。絶対に関さんのことは僕が弁護する。僕が関さんを守る。もし関さんの悪く書くような奴がいたとしたら、そいつをクビにするよ」

「そんな事したらまたえこひいきとか言われますよ」と関さんは言った。

うちを辞めていったパートさんが僕や山口さん関さんの悪口を近所で言いふらしていたことを関さんも知っているみたいだった。

耳に入らないほど広い世界ではない。

「いいよ。えこひいきで」と僕は言った。「僕はそんな人間だから」

関さんはそれ以上は何も言わなかった。納品の時間も迫っていた。

関さんはパンを丁寧に袋に入れていった。

とても丁寧だった。

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