第21話 クレーム処理

「店長、なんかヤバいんですけど。」学生アルバイト畠山さんが店から走ってきて、僕を呼んだ。土曜日の朝だ。と言っても10時を回ってお客さんもひと段落っていう感じだった。西尾君と2人で回せないほどお客さんが入っているような感じもなかったが、あれこれ考えている場合でもなく急いで店に出た。

お客さんは3組いた。まだトングとトレイを手にパンを選んでいる最中だ。

1組目は若い男女。女の子はよく買い物に来てくれるOLさんだ。彼氏が部屋に泊まったのだろう。部屋着のままの二人はまだ寝起きの顔だ。2組目はお母さんと子供2人。お姉ちゃんと弟だ。弟の方がジュースを買いたいとゴネているが、お母さんはジュースなら家の冷蔵庫に入ってるからと、どんなにゴネようと取り合おうとはしない。3組目は50代の男性ひとり。鳥の唐揚げをよく買ってくれる常連さんである。

店内は応援に入るような状況ではないのは明らかだった。

でも、バイトの子が僕を呼んだのは正解だった。

店の中に西尾君の姿はなかった。

西尾君は店の外にいた。

「しあわせパン工房こころ」のロゴが入った壁一面の窓ガラスの向こうに西尾君はいた。見慣れぬ男性と一緒に。

「クレーム?」とバイトの子に確認した。

バイトの子は首を横に振った。

「なんか、関さんの旦那さんみたいです。西尾さんに、怒ってます。」

畠山さんの言葉に僕は一瞬で血の気が引いた。

しかし、僕以上に畠山さんも動揺していた。

畠山さんはうちの息子よりも1学年上なだけだ。近い年齢の子供を持つ親の身からしても、あまり見せたくない光景だった。

「店長、行かないんですか?」

と畠山さんに言われたものの、僕自身、関さんの旦那の姿に体が固まってしまって、どうすればいいのかもよくわからなかった。

いったい僕が何をしに二人の傍へ行くのか。

どうして関さんの旦那が店に?

思いつく答はひとつしかないはずなのに、それでもまだ僕は違う解答がないか探しているみたいだ。でも頭の中のどこを探しても見つからない。

売り場からサンドイッチ製造の厨房が見える作りになっている。

高齢のパートさん達3人が頭に茶色い三角巾を結び、ガラス越しにサンドイッチを作っている。

3人は店の外で繰り広げられている光景を見つめながら、マスクで隠した口を開いて、何か言っている。きっと下世話な話だ。

しゃべらないで、さっさとサンドイッチ作れよ。

そんなどうでもいい悪態を頭の中で吐いて、見たくない現実から目を逸らそうとしていた。

僕がレジを打つ横で、畠山さんがレジカウンターに運ばれてくるパンをトングを使って袋に入れる。

久々のレジ打ちだったが、意外にパンの値段って覚えてるもんだなと感心したりする。

いや。

こんなことしてる場合ではないんだ。

お泊りの彼氏は財布を持ってきていないようだ。女の子が支払いを済ませた。

そんな彼氏をいい身分だなと思いながらも「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げ、僕は畠山さんに後を任せた。

店の外へ出た。

「じゃけえ、どう言うつもりか説明してみい」

僕が二人のもとに駆け付けた時には関さんの旦那さんは強い口調で西尾君に詰め寄っていた。

「いや、どう言うつもりも何もないですよ」と西尾君は青ざめた顔で両手の平を向けて、迫ってくる関さんの旦那を押しとどめようとした。

「お前、バレてないと思うとるんかい」と関さんの旦那さんは今にも西尾君の胸倉を掴みかかりそうだった。

サンドイッチを作っていた3人の「おばば」達が厨房から店にまで出てきて、お客さんと一緒にこちらの様子を興味津々で見守っている。

「おはようございます」と僕は言って二人の話に割り込んだ。「お世話になります。」

関さんの旦那さんは横目でチラリと僕を見た。

「あんた誰や」

「この店の責任者です。関さんのご主人様ですよね」

「ほうよ。」 関さんのご主人様はぶっきらぼうにそう答えた。

西尾君は一歩、また一歩と後ずさりした。

「今日はどうされたんですか?」僕は関さんのご主人様の腕にそっと手を当てた。

なんとか人目の届かぬところまで揉めている二人を誘導したかった。

「どうされたんですかじゃないわ。お前んとこの、この男はうちの嫁になにしてくれたんや」

そう言うなり関さんのご主人様は西尾君に掴みかかろうとした。

僕はすかさず二人の間に割って入った。

西尾君の代わりに僕が右胸を小突かれた。

サンドの高齢者達が盛り上がっているのがわかる。

僕は何をやってんだろう。

なんで西尾の代わりに小突かれなくちゃならないんだ。

でも意外に冷静になれた。

こんな事になっている唯一の答から目を背けることで僕はこの状況に冷静に対処できると信じた。これは関さんの旦那さんの誤解なんだ。

「ちょっと待ってください。僕もご主人のお話がよくわかってないんで。ほんとうに申し訳ございません。何か西尾が関さんに失礼なことでも言ったんでしょうか?」

「失礼なこと?お前、ほんまにうちのと、この男のことを知らんのんか?」

「申し訳ございません。ほんとになにも」と僕はもう一度関さんのご主人様の腕に手を添えた。「西尾がなにかやったんですか?」

「手出しよったんじゃろうが、うちのに」

「手を出した?西尾が関さんに?」

「ほうじゃ、お前んとこのこいつがうちの嫁に・・・」

「手を出したん?」と僕は西尾君に聞いた。

社長が確かめろと言っていたのはこの事だ。

でもこの件に関しては既に社長に回答済みだった。

「何もないみたいですよ」と僕はあの日社長に電話をした。

関さんが娘さんと一緒にカープ優勝の記念グッズを買いに行ったと聞いたその日、

つまり社長から二人がどうなってるか確認しろと命じられたその日には「二人には何もない」とはっきりと答えていた。

「何もないんじゃろ?」と僕は西尾に確かめた。

「何もないです」と西尾君は関さんの夫をチラッと見ながら僕に言った。

怖がっているのか声は小さかった。

「そんなわけないじゃろうが。お前、ワシをなめとるんか」関さんの旦那は畳みかけるように西尾君を怒鳴りつけた。

「関さんが何か言ったんですか?西尾と付き合ってるとか」と僕は旦那に尋ねた。

「そんなもん言うわけないじゃろうが。どこの誰が、うちは他の男と付き合うとるって旦那に言うんじゃ。そんな人間おるまあが。」

「そりゃあそうですよね」と僕は頷いた。「で、西尾、マジでどうなんや?」

西尾君は体を硬直させたまま「何もないです」と言った。「本当です」

本当なのか?

本当になにもないなら、どうしてそんなに怖がるんだ。

例えどんな口調で迫られようとも、違うなら違うと突っぱねればいいじゃないか。

西尾君のそんな態度は僕にとってあまりゆかいなものではなかった。

気に入らない。

「嘘つけや、わりゃあどう責任とるんな」関さん旦那の興奮は収まらない。

旦那さんが西尾を殴ったりしたらどうなるんだろう。

そんな展開が頭に浮かんだ。

西尾はこの男に殴られたらいいのに。

いい体格をしていた。写真で見たのは娘さんがまだ小学生の頃だったからずいぶん昔だ。今は水泳などしてないはずだ。いい体格と言うよりも太っている。こんなおっさんが関さんの旦那なのか。こんなおっさんが関さんを抱くわけか?

嘘だろ。

なんなんだ。

興奮するデブと顔面蒼白のパン屋と。

嘘だろ。

どっちも関さんには似合わない。

あり得ない。

関さんはこんな奴らにどうにかされるような女性ではない。

僕は違う。

僕はこんな奴らとは違うんだ。

「お前、責任とってもらうけえのぉ」と旦那は西尾君に言った。

「責任ってどうすれば?」と僕は尋ねた。

「あ?責任言うたら責任よ。ひとの嫁に手を出してただで済むと思うとるんかい」

「慰謝料みたいな、ですか?」と僕は確かめた。

「あ?何をわけわからんこと言うとんじゃ、お前は」

「じゃあ、どのように」

「クビにせえや、この男を。お前んとこのパン屋はこんな男をよう雇えるの」

「でもこいつ、何もやってないって言うんですよ」と僕は敢えて笑った。「たいして使えん男なんでクビにしてもいいんですが。何もないって言うんですよ。」

「じゃあ聞くが」と関さんの旦那は言った。「うちのは何時からが仕事なんや」

「何時から?」

「ほうよ。うちのはここで何時から働いとるんや」

なんの質問だ?

何時からって7時からだろ。

こいつ一緒に生活してるのに奥さんが何時から仕事に出てるのか知らないのか。

7時だろ。

違うのか?

「時間は、まあ早いですよね」と僕は言った。

「早いとかじゃないわいや。そんなことは聞いとりゃあせんわ。うちのは何時にここに来とるんや」

「朝早いから心配ですよね。ほんとうに申し訳ございません」

「何をごまかしようるんな。はよう言えや」と旦那は僕に迫った。

何か言ってくれればいいものを、西尾君は固まったままだ。

「サンドとかもやってもらう事があるんで、深夜からもありますよ」と僕は言った。「ウラ

は4時とか5時とかもありますし。本当に申し訳ございません。ご家族のかたに大変ご迷惑をかけている事は承知してるんですが、どうしても関さんの力を頼ることが多くて。時間がバラバラでほんとご家族の方にご迷惑をおかけしていると思います。本当に申し訳ございません」

僕は深々と頭を下げた。

顔を隠すためだったのかもしれない。

この男は僕と同い年だったはずだ。

こんなデブを関さんが好きでいるはずがない。

僕はまだ頭を上げない。

上げるもんか。

このまま頭を下げ続けてやる。

それでこいつの気がいくらかは収まるなら、いくらでも頭を下げてやる。

「本当に、このたびは誠に申し訳ございません」ともう一度お詫びの言葉を付け加えた。そしてもう一段頭を下げた。

「嘘つくな。そんな仕事があるんかい」と旦那は僕を怒鳴りつけた。

「本当に申し訳ございません。僕が関さんに無理なシフトをお願いしたせいで、ご主人やご家族をこんな不快なお気持ちにさせていたとは。本当に、本当に申し訳ございません。」

「仕事のことを言うとるんじゃなかろうが。わりゃあ、なんでごまかすんな」

「本当に申し訳ございません。本当に何かをごまかそうなどとはしておりません。ただ、僕が組んだシフトのせいで、こんなにも不快な思いをさせてしまい、本当に、本当に申し訳ございません。」

頭は上げない。

とにかく頭は上げない。

小突かれてもいいやと思った。

殴られてもいいかなとも思った。

「サンドには新しくアルバイトが来ることになったので、もう今までのようなご迷惑をおかけすることはないと思います。仕分けの早朝も・・・」

「いや、もう辞めさすし」と関さんの旦那は言った。「もうここでは働かせられん」

は?このデブは何を言ってるんだ?

「とにかくわしは納得しとりゃあせんけえの」とデブは言った。「お前には絶対責任を取ってもらう」

だから、デブ。西尾は何もやってないと言ってるだろ。耳の穴が脂肪で塞がれとるんか。

「お前んとこの本社にも言うとくけえのぉ」とデブは言った。「ただで済むと思うな」

うるせえデブ。

本社でもどこでも言えばいいだろ。

僕は無罪だ。

騒ぎ立てるお前とも、うろたえるだけの西尾とも僕は違う。

僕は何もしていない。

僕は関さんに何もしていないのだ。

「本当にこのたびは誠に申し訳ございませんでした。」僕は頭を下げたままもう一度だけ言った。

クレーム処理は店長の役目だ。

これがこの日最後の「申し訳ございません」になることを祈った。

西尾君には出来ない仕事だ。

僕は少しだけいい気分だった。

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