二七



「そんな……」

 私は沙織の顔を見つめた。しかし、数秒の間を置き沙織はクスッと笑う。

「本気にしました?」

 思わず、沙織に「ひどい!」と口走る私。

 百歩譲って万引きする理由があるならまだしも、それが冗談なら笑えなかった。本当に頭にきた。

 沙織は怒ってるのを察知したらしい。それまで私の顔をつまらなそうに見ていたが、視線を地面にそっとそらす。

「先生は……愛されて育ったんですね」

「えっ」

 沙織の言ってる意味が一瞬わからなかった。沙織の瞳の奥にあった光がゆっくりと消える。そして、静かに言った。

「私、親から……嫌われてるんです」


 人は誰でも、自分の心の中にしか置いておけない辛い思いがある。まるで言葉にすると、それが本当に存在しているようで。その辛さに負けてしまいそうで。

 沙織の口から出た言葉はこんな可愛い子から言って欲しくない、そういう類いのものだった。

「お義父とうさんの……こと?」

 私はおずおずと言った。家庭内のことに他人が踏み込んで、沙織に嫌がられたくないという気持ちがあったから。

義父ちちと……母、両方です」

 沙織はその時、私の目をまっすぐ見て言った。そのいじらしく、誇り高い強さがたまらなかった。沙織の過酷な人生に文字通り胸が張り裂ける。


「私の本当の父は、母と私を捨てたんです。……浮気して、今は女を連れてアメリカで生活してます。離婚は私がまだ小学生の時でした。それまでは、母はすごく優しかったの。……でも、今の義父ちちと再婚し、夫婦の間に子供が生まれて……母は変わった。先生、わかるでしょ? みんな、私が……邪魔なの。私が、実の父に似てるから。今は……誰も私のこと、家族だなんて思って……ないんです」

 沙織の告白は、胸をえぐられるように悲しくて重苦しかった。

 口に出したからといって、軽くなる類いではない。無理矢理に勇気を出さなければ、口に出せないほどのつらい事実。

「……沙織さん、ごめんなさい。……私、何にも知らなくて、嫌なこと、無理に言わせて」

 何かしてあげたいと思った私は、傲慢に沙織をただ傷つけた。それを知り泣きそうになる私に、沙織は気付かないそぶりで言う。


「あの……学生カバン、あの日、友達に貰ったんです。……使い古しのお下がり。だから壊れてたし、何にも入ってなかった。学生カバンがほしかったんです……私。だって、親に買ってもらえて、なかったから。ほら、母親にも無視されてる、でしょ。学校からのプリントとか、大事な要件とかあっても、全部、迷惑かけないでって言われるだけ。でも、あの日、カラのカバンを持って真結美堂へ行ったの……お母さんの誕生日が近かったから。お母さんの好きな真結美堂のお菓子を、プレゼントしたかった。お金はないから、万引きしてプレゼントしようと思って……バカみたい。結局、出来なかったけど。本当にそんなこと……私、考えたの」


 沙織は泣いていた。

 倫理的には間違ってたとしても、母親を思う子供の悲しい理由がそこにはあった。

 この世には幸せな家庭が幾つもあって、幾つも暖かい電灯をつけてるというのに沙織にはそれがなかった。

 学生カバンを買ってもらえなかったから、嫌われてるという意味じゃない。

 沙織の言うカバンは比喩のようなもの。貰えなかったモノ。与えられなかった愛情。ひとつの目に見える理由。

「私……親から無視されて、嫌われてるなんて、誰にも知られたくなかった。恥ずかしい、でしょ? バカみたいだけど、親にカバンを買ってもらえる人になりたかったんです。だから真結美堂で、これは友達からの貰い物……だなんて言えなくて。中身の入ってない、あのカバンを……誰にも、見せたくなかった。今思えば、言い訳なんて、いくらでも思いつくのに……」


 日本では十八歳に満たないものを児童とし、育児放棄ネグレクトは児童虐待にあたる。家庭内での見えない虐待。

 無視され愛されないという扱いを受けても、沙織は母親を愛していた。

 理解していたのだ。母親が自分の親ではなく、女になったことを。生きていくために原始から行われている決断をしたことも。

 自分の表情に、母を捨てた男が重なることを知っていたからこそ沙織は苦しんだ。どうしようもない、行き場のない母の感情と娘の苦しみ。埋まらない距離。

 運命の重さとは反対に、沙織の横顔は酷く儚かった。

「私は沙織さんの側にいるから……ずっと」

 家路へ辿る分かれ道に来た時、私は言う。

 沙織は私の一番弟子になってくれた。その縁を改めて胸に刻む。私には見守る義務がある、決意を持って。


「ありがと……先生。別に、もう大丈夫です」

 大丈夫なんていう沙織の言葉は信じない。でも、ふたりで目を見合わせた時は微笑んだ。深刻な顔で別れたくないから、私は笑顔を見せる。

 お別れはいつ訪れるか誰にもわからないし、訪れないなんて保証はない。母の死によって、私はそれを学んだ。母からの最後の教えだった。

 私は決めたのだ。人はいつどこで最後になるかもしれない。だからわかれ道に来た時は、相手のその瞳に悲しみが映らないよう微笑んで別れようって。どんなときも。

 


 今夜の夕飯は、貴子と洲と三人一緒だった。

 珍しく私と貴子はふたりでチキンカレーを作ることにした。みんなで準備する手料理は楽しくて好き。

 本日、洲はお休みにも関わらず、顧客からの御用で呼ばれていたらしい。だが、その積み重ねが口コミで客を呼ぶという。洲はそれを知っている。

 出来るセールスマンは一定の時期から、営業を掛けなくても顧客が新客を連れてくると何かで読んだ。洲はそれを実践してるように、自信に満ちた顔を見せていた。


「あー、マジでやってらんねぇわ。昨日はさぁ、特に散々だった……」

 あれ、今、心の中で褒めまくってたのに自虐かい。

「戸建ての住宅地を、新規獲得キャンペーンの営業でまわってたらさ。突然知らないおっさんに怒鳴り散らされたんだよ。……俺、別にあんたには営業してねぇじゃん。それなのに鬼の首取ったように悪者扱いしやがって」

 洲はコーラを片手に珍しく愚痴っていた。

「そんな時ってどうするの? 落ち込んだ時。例えば、貴ちゃんならビール飲んで暴れて発散するけど」

「ちょっと果耶、私を例に出さないでよ。しかも大げさね」

 私と貴子から視線をずらし、洲は考える仕草を見せた。


「これも慣れだから、前みたいには落ち込まなくなったかな。だけど、昨日はさすがに同期の奴に電話したよ。……そしたらさ、そいつ、『俺なんか、今、庭に出てたジジイに、ホースで水掛けられてスーツがずぶ濡れなんだよ!! ふざけんな。死ねっ、このクソジジイ!』だって。上には上がいるってことだよな。超ウケた」

 上なのか下なのかわからないが、みんなそれぞれ必死に生きてるようだ。


「旅行代理店だってね、私たちみたいなカウンター業務は大変なのよ。昨日も整理券十五番とかさ。ラーメン屋と違って回転率も悪いのに。待ち時間長くて、だんだん客も苛立ってくるじゃん。ったく……みなもの、落ち着けっつーの! それなのに、中学生の子供があまり食べないから旅館の夕食をお子様用に変えろだの。帰りの飛行機、仲間の一人だけ日にちをずらしたいだの。ワガママいうんじゃねぇ!って、マジでキレたくなるよ。中学生からは大人料金だからね。……そうそう、霊感強いから幽霊の出る客室は困るって言われたこともあるの。幽霊が出るかどうかなんて、こっちは知らねぇから。部屋にある絵画の裏に御札が貼ってあったら、とりあえず用心して下さいねって教えといた。……ま、全部すました顔して対応してるけどね」

 貴子も暴走しながら、洲の話に楽しげに乗っかっていた。


「旅行業界って縦割りっていうか暗黙の縦社会があってね。一番上が航空会社、次が旅行会社、そしてホテル業界や旅館って流れなの。だからまあ、旅館なんかには、すみませんって言って多少のお願いも出来るんだけど。航空会社には言えないから、何かあったら四苦八苦するのよ。所長なんかさ、ミスってお客の飛行機の席を確保出来なくて、朝一で空港でキャンセル待ちしたり。それでもダメで、お客に土下座したことあるって言ってた。安月給なのに、ミスひとつが命取りの世界なのよぉ」


 最後は十八番おはこの泣き真似まで登場した。だけど、それでも日々頑張ってる貴子には大変以上の魅力があるんだろう。

 洲も貴子の話にも、愚痴りながらでさえ清々しい誇りを感じる。

 自分たちが社会人として貢献している誇り。がむしゃらに困難を乗り越えていく謳歌のそれ。私ももっと頑張らなきゃ。

 さあ、そろそろカレーの出来上がりだ。

 私たちは今日もみんなでバカな話して、笑って、幸福に浸ってる。友情と恋と少しの悩みと……。まさに青春の中にいた。

 いくら悩みにもがいていても、振り向けば、眩しくてかけがえのないもの。

 それなのにこの先、何もかもがひっくり返るようなあんな出来事が待っていただなんて。


 この時はまだ、そんなこと思いもしないで、私たちは笑いあっていたんだ。 

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