十六夜を飛び越えて
片瀬智子
一
新月から数えて、十六日目の月。
ためらいがちに昇る、欠けた
人生には何度も転機があるという。
それがどのような形で表現され、どのような仕掛けを
かろうじて理解出来たのは、突然示された不幸な巡り合わせ。
心にぽっかり穴が開いた私に浮かんだ気持ち、それは柔らかくも温かくも優しくもないということ。いきなり重たい荷物を持たされ、ゴールのない迷路へ進み出すようなもの。
人生の終わりは横一列ではなかった。運命の時間と、それからみんなスタート地点が違うから。
欲しいものを全部手に入れ満足するには、私たちの人生は短すぎる。振り返れば、心残りばかり。
無機質な重々しい空気の中で、私はそのことを母の死から教わった。
半年前、不慮の事故で母が亡くなり、突然私は天涯孤独の身となった。
搬送された病院の白いシーツの上で、母の
いきなりの別れに、私は悔しさと苛立ちを覚えていた。
自分勝手な死。そうだ、母は昔からこうだった。
昭和の銀幕を飾るクラシカルな女優を思わせる容貌のまま、ドラマティックに幕を引いたのだ。鮮やかな死に際。
その身体は、死してなお、触れたくなるような艶のあるミルク色の肌をしていた。豊満な胸元と、華奢な肩。女らしいくびれたウエストはゆるやかに腰へと繋がり、あらゆる男性の視線を引きつけた美脚へとたどり着く。
その美貌は、無意識のうちに身近にいるものの気持ちを圧迫させる力があった。そばにいる者を図らずしも、引き立て役にまわしてしまう。
生前の母はまるで太陽のようにまわりにいる者たちを飲み込み、激しく輝いていた。母の存在は簡単に説明できる。美しく、華やかで、絶対的なのだ。
そしてそれは、側にいる私の影をいっそう濃くした。
母の人生は波乱に満ちていた。類にもれず、若くして子供を産んだ。私はいわゆる私生児。父親の存在さえ知らない。
母は死の間際まで頑なに口を閉ざし、その名を言うこともなかった。これでもう、永遠の謎だ。
私が想像した父親の姿は幾つもある。オートバイにまたがり仮面を付けたヒーロー、通学路にいつも佇んでいた(今思えば怪しげな)おじさん。お洒落なドラマや映画に登場した主役級の中年俳優(最近は二十歳年下の若手女優と結婚しており、私の中でロリコン俳優と成り下がった)。
想像は自由。
それは私の心を、大空へ舞う一羽のカモメに変える。風向きに逆らわず、どこまでも飛躍する思考。翼は上昇気流に乗り速度を高め、眼下では南へ向かうカブリオレが小さく遠のく。優しい風。降り注ぐ陽射しが眩しくて、私は目を細めた。
「あてっ」
間抜けに微笑みまで浮かべ、太陽へかざしたおでこに突然、激痛が走る。
「すみませーん!」
目を開けると、小学生の男の子とその母親が遠くから叫んでいた。私の足下にラジコンヘリが落ちている。どうやら、私の空想のカモメはラジコンヘリに激突し、痛みと共に現実へ引き戻されてしまったらしい。
ヘリコプターを取りに来た少年が、私をじっと見つめる。
公園のベンチでぼんやりしてるお前が悪いという無言の視線を少年の瞳に感じつつ、私は重い足取りでその場を後にした。
まだ少ししか歩いていないのに、顔から汗が噴き出す。
私がこれから向かう先は友人の祖母がオーナーを務める、いわゆるシェアハウスと呼ばれる戸建て住宅であった。
神奈川県、鎌倉。
観光地としては、古くから歴史的名所として言わずもがな。地元民としても、移りゆく自然の景色と相模の海を感じられるハイソな地域だ。
そんなありがたい場所に佇むシェアハウスは、海を見下ろせる高台に位置していた。最寄りの公園まではタクシーで来た。大きめのボストンバッグを抱え、ゆるやかな坂を一歩一歩あるく。
ジリジリと鳴く蝉の声を聴きながら、私は覆い被さるような木々の香りを感じていた。心の隙間から、陽射しがキラキラとこぼれ落ちた。
これからは自転車が私の足になるだろう。ここには
私が軽いパニック障害と診断されたのは、つい先月のことだった。
病気の理由はわかっている。
母が亡くなり、母一人子一人だった境遇では私に全てがかかってきた。
お葬式や様々な各種手続きなど初めて経験する事柄で、毎日が忙しく過ぎる。目まぐるしい日々が勝手に流れる。
当時はゆっくりと悲しみに暮れる暇もなかった。私の心は疲弊し、だんだんと置いてきぼりになっていった。
ある日、仕事に行こうとした私は電車の中で突然、心臓の異常な鼓動を感じた。それはだんだん大太鼓が高鳴るかのように激しく乱れ打ち、その場に立っていられない。次の駅で思わず降りる。そのまま自販機の脇に駆け寄り、息が出来なくてうずくまった。
落ち着いてからも自分の身体に起こった意味不明の恐怖に怯え、その日はいくつもの電車を見送り続けた。潜在意識が主導権を握り、私自身をコントロールしようとしている。私はこの日以来、電車に乗れなくなった。
電車に乗るのが怖いなんて、自分でも本当に参る。まず、仕事に行けない。私の職場は都内で、神奈川県民の私に電車は不可欠だった。
しかも私でなければという専門職ではなかったため、会社に無理を言って長期休暇を求めるほど強気に出られない。有給を使い果たすと皆に迷惑を掛けるのがいやで、私は静かに身を引いた。
これから私は一人どうなるのか、どうすればいいのか。
怖すぎて、呼吸が乱れ突然目覚めるような夜を何度も経験した。孤独の穴は、何をしても埋められない。
死んでから一層、母の生き様を感じる。支配的な存在を疎いと感じることもしばしばだったのに、今は出来ることならすがりつきたかった。ちっぽけな自分自身に怯えた。毎夜、価値のない者の涙が静かに頬を伝うだけ。
この時の私は、漆黒の闇が明けるなど到底思えなかった。
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