二
ゆるやかな上り坂の石畳が膝を酷使し出した頃、やっと緑のアーチを抜けた。
目の前に広がったのは、何とも可愛らしいレンガ造りの洋館。夢の中、鬱蒼とした森の中に突然表れた、憧れのお菓子のお屋敷といったところ。
子供時代、お菓子の家に住みたいと思わない人間がいただろうか。私の心は、幼い子供みたいにはにかむ笑顔を見せた。
ここまで頑張って坂を上った甲斐もあり、南側の庭からは遠くに相模湾が見える。それもご褒美。
そして、アパート暮らしだった身の上には生まれて初めての庭。土、夏草、風。地球の恵みだ。この広さがあれば、BBQなども出来るだろう。古い洋館とは話に聞いていたが、その古さがいい意味で歴史を感じさせ、洋館に価値を見出していた。
壁を覆う赤茶けたレンガは汚れを隠していたし、所々渋色に錆び付いたバルコニーの鉄柵にも味がある。新築のピカピカさにはない、古美術風なあたたかみを感じた。
何よりここが、これからの私の住処だ。五人の多彩な人間が共同生活を送るシェアハウス。
私は思わず、友人・
彼女は、私を孤独の縁から救い出そうとしてくれた。心を閉ざしつつある私を見かねて、一部屋空きが出たからルームシェアしようと誘ってくれたのだ。
仕事にも行けず、天涯孤独。
孤独死まっしぐらの私を、また光溢れる場所へ。
人が生きるには、水と食事だけではダメだとわかった。私たちは独りきりでは生きられない。うさぎは寂しいと死ぬ……なんて、昔そんな歌あったよね。人間だって、そうだった。
「すみません……」
ボストンバッグを胸に抱え、ぼんやりと庭に佇む私に後ろから突然声がした。ハッとして、振り返る。
「どちらさまですか」
「あ、あの、私、……今日からこちらで暮らすことになった者で、
「あー、新しい住居人ね。そっか。
声の主はラベンダー色のランドセルを背負った子供の後ろに立つ、背の高い男性だった。顔は木々の影に隠れ、充分に見えない。
「貴ちゃんが言ってたね、パパ」
私が急いで次の言葉を繋ごうとする前に、ランドセルの女の子が愛くるしい表情を見せ言った。笑顔は万国共通の言葉だと、改めて気付く。
「おととい、荷物が運ばれてきてましたよ。二階の海が見える部屋。
最後のひと言は娘への問いかけだった。未亜の頭にのせた手から陽に焼けていない腕へと続き、私は視線を彼の顔へと向けた。
そこにあったのは、無邪気で優しい父親の顔そのものだった。その眼差しは唯一無二を見つめる愛おしさで溢れ、私には手に入らない羨ましいものの一つだと感じる。
「……荷物、持ちましょうか?」
未亜の父親が、私に言った。
私は先程から照りつける陽射しを浴び、額から汗を垂らしながら間抜けな感じでボストンバッグを胸元に抱いていた。
「あ、いいえ。大丈夫です。……ありがとうございます」
彼が私の顔を見たとき、何だか急に恥ずかしくなって私は下を向いてしまった。夏の爽やかな風が私の頬に触れた。
父親が玄関ドアを開けると、未亜が待ちきれない様子でスニーカーを脱ぎ散らかし「ただいまー」と大声で言う。そして、二階へ続く階段を駆け上った。
私はボストンバッグを玄関の上がり口へ置かせてもらうと、無意識にそっと未亜の靴を揃える。彼の視線に気づき、私は急いで自分の靴を未亜の靴の横に揃えた。彼の後に続く。
「わぁ……!」
二階の階段を上ると、廊下の先には広めのバルコニーがあり、遠くに青空と海との境界線が見えた。そこには、窓いっぱいに広がる水平線があった。
こんな開放的な景色を見ながら、これから暮らせるなんて。
「素晴らしいでしょ。この空と海が見られるだけで、ここに暮らして良かったって思えますよ」
人間はやはり皆、地球の子供だ。私たちの心を動かすものは自然の中にある。
生き物全てが感じるに違いない感情。遙か太古の時代から存在する大自然を目にした時、私たちの心は震えるのだ。
「ま、暮らしてると普通に見慣れますけどね」
「うっ……」
思いっきり感動してる私を横目に、彼はあっさりと言い放った。
「僕は、
それだけ言うと、彼は独自のペースを崩さず下へと降りていった。
私が改めて自己紹介しようとすると軽く流されたので、会釈だけしてボストンバッグに視線を落とす。
篠崎親子にも母親の影はなかった。
たぶん、誰もが何かを抱えている。
今の私はこのバッグの重さに比例するのだろう。私が背負うには重いのに、人生の試練というにはきっと軽いんだ。
私は唇をつぐむと、新たな自分の部屋へ足を踏み入れた。
*
貴子はきっかり夜八時に帰ってきた。
今日の仕事も壮絶だった……と背中で語る。
彼女は横浜の旅行代理店で働いている。職場は商業施設の中に入っており、女性スタッフの制服が素敵(某航空会社の制服とデザイナーが同じ)で広告宣伝に力を入れているため知名度も高い。
もちろん、貴子も制服目当てでその会社を選んだのだ。すらりとしたモデル体型の一見美麗な容姿にはピッタリの企業だった。その代わり、社員たちの労働条件はかなりのものらしく、ブラックとグレーを行き来している会社なのだそうだ。
「グレー!? 何言ってんの、あれマジでブラックだから!」
帰ってそうそう、何本目かの缶ビールを片手に貴子は言った。
「もうね、言っちゃあ悪いけど、新入社員入ったって速攻辞めちゃうよ」
「えー、それって言い過ぎじゃない?」
「いやー、断言するね。だって、責任の負担が私たちにあり過ぎてさぁ。今日だって、男性社員が電話口で謝ってるんだけど、なぜか床に正座してんの」
「土下座なの? なんで、電話でしょ?」
「知らないわよぉ。店狭いんだから反対側に行くには、またぐしかないじゃん。邪魔だってーの!」
貴子の愚痴は最高潮に達しようとしていた。ここには書けないようなこともズバズバ言っている。だが実のところ、そのブラック企業さえ貴子の性格には合っていると思う。本人には絶対言えないけどね。
彼女は昔から姉御肌の性格で、友人たちからも「兄貴、兄貴」と陽気に慕われていた。戦いには好んで挑むスタイル。情の厚い、男前な美人さんなのだ。
篠崎親子は貴子の普段を知っているらしく、夕食には降りてこなかった。各自、好きな時間、好きな場所で食べる決まりだ。
「あ、あと一人、洲!
貴子が嬉しそうに、洲に対し軽口をたたいて笑ってる。これでは洲に会う前から、変な想像が頭をよぎるじゃないの。私の頭の上ではすでに、尻尾の曲がった奇妙な猿が嬉々として横っ飛びしながら消えた。
「洲ね、今日もたぶん午前様だからまた今度紹介するね。五人で仲良くやってこうねー」
裏表がなく無邪気な貴子は、気持ちよさそうにそう言った。そして重そうな瞼を閉じ、いきなりカクッと首を後ろへ反らしたかと思うと豪快にいびきをかき始めた。
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