三 

 シェアハウスの住人となって、幾日かが過ぎた。

 午前八時三十分。目が覚め、下へ降りるともう誰もいなかった。静かなキッチンに入る。シンクに洗い残しの食器がある。誰でも使用していい白い平皿と、可愛らしいうさぎの絵皿だ。お揃いのスタバのマグカップ。

 きっと、篠崎親子のだ。二人の朝は早い。その時間私はいつもベッドの中だが、七時過ぎには二人は慌ただしく出掛けて行く。

 未亜は小学二年生。鼓歌は慣れた調子で未亜に手早く用意をさせると、自転車の後ろに乗せて学校の近くまで送っていた。


 鼓歌はというと、ほとんど自宅で仕事をしている。

 なんと手芸デザイナーとして生活していた。本業はウェディング雑貨の職人。

 シェアハウスの一部屋をアトリエとして構え、ボビンレースという技術で繊細なレースを編み、晴れ舞台用の雑貨に仕立てる。

 貴子が言うにはアパレル企業や服飾デザイナーからの注文、時には有名人からのオーダーもあるらしい。

 リビングに置いてあった鼓歌の作品が載った手芸用雑誌には、目が眩むほどの緻密なレース細工があった。細いシルク糸が幾重にも絡まって造形を生み、独自の世界観が表現されている。それはまるで、ゴシック様式の巨大な建物を紡ぐ蜘蛛だ。

 ゾッとする美しさだった。彼は芸術家かぶれではなく、本物の職人技で手仕事をしていた。


 謎の住人・森川洲とは、未だに会えていない。

 彼は貴子の幼なじみで、ご両親がベトナムへ赴任しているためこのシェアハウスで生活しているという。保険会社の営業マンの彼は接待なども多く、休日もままならない。貴子しかり、楽な仕事などないのである。

 私もいつまでもこうしてはいられなかった。自分の出来ることを始めなければ。立ったまま牛乳を飲み、携帯の画面をタップする。ふと、母が私を見ていたら、小言を言うだろうなと思った。

 手の中には母がずっと仕事でお世話になっていた礼儀作法教室の大先生おおせんせい川緑かわみどり弥生子やえこの名前があった。

 牛乳を飲み干し、カップと篠崎親子の食器を手早く洗うと、私は出掛ける用意をするべくバスルームへと向かった。



「……小笹さん、お出掛けですか? へぇ、なんかいつもと違う。見違えますね」

「あ、篠崎さん」

 靴を履いていると、未亜を送ってきた鼓歌がちょうど帰って来た。自転車が程よくいい運動になっているのか、一汗かいたような爽やかな笑顔を見せている。

「おかえりなさい……。あの、今日はちょっと、小町通りまで。……知り合いに会ってきます」

「ふーん、もしかして、デートですか。……なんか、いつもと違ってお洒落してるから。あ、いつもはお洒落じゃないとか、そう言う意味じゃなくて……」

 私は思わず、クスッと笑ってしまった。鼓歌はひとりでのんびり喋って、ひとりで言い訳している。

「デートなんかじゃないです。ランチしてくるだけです」

 鼓歌は柔らかい笑顔を見せるとまるで英国紳士のようにうやうやしくドアを開け、私を見送ってくれた。


 左肩に小さめの白いショルダーバッグ。右手には、桃色の風呂敷に包んだ菓子折を持っている。そして、白い襟付きの透け感のある紺色のワンピースを私は着ていた。

 デートに見えたか。

 うーん、デートというより、もはやお見合いって感じだな。

 まるで、昭和の良家のお嬢さんといったような姿。今時、風呂敷包みを持ち歩く人間も珍しかったに違いない。鼓歌は不思議そうな顔をして、風呂敷に包まれた菓子折をじっと見ていた。

 自分でも何だかおかしくなって、口元が歪む。母からの英才教育がこんなところにも。弥生子先生に会うからと、自然とこんなキチンとした服を選んでしまった。


 母は、お出掛けの時はいつも和装だった。

 慌ただしい朝、のんびり屋の私に小言を言いながらもさらりと着物を羽織ると、素早く幾つもの紐を腰に巻き付け、着崩れしにくい美しいシルエットを完成させる。

 帯もまたそうだ。季節に添った色、模様を選び四季を映す。私が、母の遊び心やお茶目な一瞬に気付くのも帯からだった。

 着物姿の母は、特に人の目を惹きつけた。

 母はあんなに美しかったのに、なぜ再婚しなかったのだろうか。そうすれば朝から晩まで仕事をしなくても、裕福に暮らせたのかもしれないのに。私には母の気持ちがわからない。そして、もう二度と……聞くことは出来ない。

 私たちはたった二人きりの親子だったのに小さな仲違いをしてしまい、最後の日、心を通わせられなかった。

 そのまま私の時間は止まっている。思い出しては、心の中でごめんなさいと届かない言葉をなぞっている。

 

 生い茂る緑のアーチと日傘に遮られながらも、眩しく照りつける太陽を感じた。坂道を下り、住宅地の細い路地を歩く。肌が汗ばんだ。

 通りの家々には、高級車ばかりが目につく。ここも鎌倉の風景のひとつ。

 自然、パワースポット、高級住宅地、観光者たち。

 うだるように暑く、遊びに来た若者がジェラートを求め行列を作る街。リュックを背負った観光客が、駅のホームを占領する街。

 そして一歩裏道に入ると、そこには落ち着き払った鎌倉があった。どこかの家から、ピアノのレッスン曲が途切れ途切れ聴こえる。子供の指が奏でるショパンの軽やかな音色だった。

 

 私の頭の中は、これから会食する弥生子先生に思いが及ぶ。

 先生は一体、お幾つになられたのだろう。

 鵠沼くげぬまの土地で礼儀作法のお教室を主宰されて、今年で四十年になると聞く。

 母はずっと弥生子先生を師事し、十八年前に自身の作法教室を開講した。私が小学校に入学した年だ。それまでの会社勤めをあっさりと辞め、自分一人の力でビジネスを始めた。母の友人たちは、皆当然心配したらしい。私というの身でもあったから。


 しかし、母の手腕は見事だった。

 恵まれた華やかな容姿に加え、凜とした軸を兼ね備えたオーラとカリスマ性を生まれつき持っていた。人の言葉に耳を傾けたとしても、自分を崩すことは一切しない。

 母ほど自分を持っていて、信念に忠実に生きた人間を私は知らない。

 公民館や貸し教室でのお稽古や婦人会の催しから始まった小さなお教室は、忘れかけていた和の作法を見直せるという口コミで徐々に広がっていった。

 私が中学生の年には、隣県を含む二十教室を受け持つ人気講師として活躍の場を広げていた。


 そして、その人気を不動のものとした出来事がある。

 私たちは電車の中で、たまたまある人物に声を掛けられた。大手出版社に勤める女性だった。母はその人に突然見出され口説かれた。

 母を見ただけなのに少し立ち話をした後、本を出さないかと名刺を渡してきたのだ。彼女の直感は、今ではさすがだったと言わざるを得ない。

 それは本当に必然だったのか、私は今でも時々考える。母はその後すぐ、自身の名が広まるきっかけとなった礼儀作法の最初の著書を出版したのだった。

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