四 

 偶然とは確か未知なるものだ。

 私たちのあずかり知らぬところで、驚きに満ちた様子で発生する。

 あの日は春の夜だった。霧雨が降っていたかもしれない。私は赤い折りたたみ傘を差していたから。

「果耶ちゃん。お母さんね、こうなることはわかっていたのよ。御本を依頼されることは自然の流れなの。その時期がいつなのかが不明だっただけ」

 紺色の傘の下で、着物の母は意外なことを言った。

「そんなこと、わかるはずないよ。だって、今まで出版社の人に知り合いなんていなかったでしょ。ただの偶然じゃん」

 セーラー服にポニーテール、中学生の私がはむかう。


「物事に偶然なんて、ほとんどないのよ。……因果応報って言葉、知ってるでしょう。悪い意味に使われることが多い言葉だけど、実際は何でもそうだと思うわ。人の考えや行動通りに、縁は巡ってくるの」

「いいことも悪いことも?」

「そうよ。いいこと悪いことって、誰が決めるの? お母さん、会社を辞めてお教室を立ち上げた時、知り合い中にやめた方がいいって反対されたの。失敗して、路頭に迷うだけだって。でも、会社を辞めることに迷いはなかった。礼法の道でやっていこうと決めたから。お母さんがずっと会社員のままだったら、本を出せたりはしなかったでしょ……」


 母はふっと笑った。

 あの日凜とした佇まいで電車に乗っている着物姿の母を見た、大手出版社の女性社員が「何者なのか」と声を掛けてきたのだ。

 それからはあっという間だった。トントン拍子に最初の著書が出版された。

 礼儀作法の基本と母の想いを綴った、一冊めの本。母の艶やかな雰囲気に添った、美しい藤色の装丁だった。

 そこから伝説は始まる。

 その後の小笹鏡子の活動は、皆さん知っての通りだ。母の本を見たテレビ局からの依頼を皮切りに、他のテレビ局からも出演依頼がぞくぞくと舞い込んできた。


 今や、母のお弟子さんは百名を超える。礼法講座を受講した生徒さんとなると、もう数え切れない。その中にはすでに名の知れた礼法講師もいらっしゃる。

 母のお葬式は家族葬という形でひっそりと終わらせてしまったが、皆さんで故人を偲ぶ会を開いて下さった。

 参加者は遠く県外の方もいた。この日のために大事な時間を割いて、母と最後の対話をしてくれていた。

 改めて、母の手腕や育成能力、人を惹きつける指導力に感心する。そして私はと言えば、母の欠片ほどの能力も持ち合わせていない。自分の無力さを改めて痛感し、またしても下を向くだけだった。


 太陽に視線をやると、汗が首筋に沿って落ちた。

 先程の住宅街を上手に抜け、小町通りに通じる道路へと出る。いきなり人通りが増え、両サイドに観光客目当ての商店が増えた。和の手作り感溢れる雑貨屋さんに続々と外国人が入っている。一畳ほどの簡易的な店舗。あの店はいつ出来たんだっけ。

 そこそこ儲かってるんであろう個人商店の連なりを目で追う。やっと、目指すレストランが見えてきた。

 そこは昔ながらの小さなフランス料理店。『ビストロ・ニーナ』

 歴史あるベージュ色の壁にアイビーの葉がつたう。ダークブラウンの木製のウェルカムボードには本日のランチメニューがあった。

 私は携帯で時間を確認するとハンカチで額を押さえ、一呼吸。ハンカチからはホワイトリリーの香りがほのかにした。


「果耶さん、お久しぶりですこと。お元気そうで……」

 ああ、弥生子先生だ。

 小柄で柔和な丸顔。八十代というお歳より、全くもってお若く見える。若い頃はかなり可愛らしかったに違いない。キラキラと瞳を輝かしながら本当に嬉しそうなお顔をされて、色白のきめ細かい頬を緩めた。

「弥生子先生、こんにちは。……遅れて申し訳ありません」

「あら、遅れてなんていないでしょう。わたくしが早く着きすぎたんですの。梶原かじわらも歳を取ってせっかちになったのかしらね」

 私が軽く会釈をすると、微笑みながら手を握ってこられた。


 そうだった。先生はいつだって、周りにいるものをあたたかい空気に包んでくれる。

 優しい物腰。チャーミングな笑顔と寛大なお心を持ち合わせている。

 水色のサマーニット・ワンピースに真珠のネックレスが涼しげだ。そして、オパールに南洋真珠が縁取ったブローチを合わせていた。髪はいつでもお着物に着替えられるように、ふんわり結ったアップスタイル。

 弥生子先生は何にもお変わりなく、私の存在を迎え入れてくれた。


「梶原さんもお元気ですか。今、どちらにいらっしゃるんですか」

 梶原さんとは、弥生子先生のお抱え運転手だ。確か先生が四十代の頃、先代の運転手さんと交代して今に至る。もう、六十代後半だろうか。私も子供の頃、何度か遊んで頂いた覚えがあった。懐かしい。

「近くのファミリーレストランで待っておりますの。梶原も元気ですよ、私たちは何も変わりません」

 何とも嬉しそうに、うふふと先生は笑う。

 その時、レストランのオーナーと思われる初老の男性がテーブルに近寄った。先生と親しげに会話をする。りょくじゅ、ほうしょうのパーティー? 鴨のコンフィ……が美味しかったとかナントカ。

「……おまかせでお願い致します」

 そう言う先生の言葉に頷くと、オーナーは店内の奥へ入って行った。


 弥生子先生が私に向き直る。

「果耶さんからご連絡をちょうだいした時は、本当に嬉しかったのよ。礼儀作法の世界で私のお手伝いをして下さるなんて有り難いお言葉です。鏡子さんもきっと見て下さってるわね……」

 私は何も言わず微笑んだ。母の居場所だった世界。私なんかがやっていけるものなのか。

「あの……私、礼法からは随分足が遠のいてしまって。お勉強し直さないと。それから、えっと、……体調も少し崩してしまって……あんまり電車に乗れなかったりするんです。だから、あの、遠くのお教室には行けないと思うん……です。それで……」


 弥生子先生は、私と目を合わせた。そして、にっこり微笑んだ。

「そんなことをご心配されてるの? 果耶さん、大丈夫ですよ。お作法は果耶さんの身体がちゃんと覚えています。ずっと、鏡子さんと一緒にいらしたじゃないの。座学は、鏡子さんのお稽古用テキストで復習するといいわね。それからね、電車は私も乗れないのよ、一緒ね。……乗り方がわからないもの。うふふふ」

 そうだった。お嬢様育ちの先生は、子供の頃から運転手付きの生活をされていたんだった。女の子のように可愛らしく笑う先生を見ていたら、自然と肩の力が抜けてしまう。


「果耶さん、そんなかしこまらないで。怖いお顔をなさっちゃダメよ。笑顔が一番まわりの人を幸せにするの。いい? マナーや礼儀作法って、何のためにあるのか思い出してね。まわりを和ませる雰囲気をお作りになってね」

「はい、……そうですよね。でも、この世界だと母の存在が大き過ぎちゃって。それで、何だかプレッシャーに感じて緊張しちゃうんです」

 先生は微笑む。

「そう? 果耶さんは……真面目ね!」

 その言葉に、私は噴き出してしまった。もう、先生ったらお茶目。


わたくしなんて、お転婆でしたから。好奇心が勝ってしまって、いけないわね。でもね、みんな違っていなければおかしいと思うのよ。鏡子さんは鏡子さんの教え方、果耶さんには果耶さんのやり方があるの。ただ作法や所作を知りたいのだったら、教本や映像を観るだけでも出来ること。そうではない部分を、教えて差し上げられる講師にならなければね」

「そうではない部分、ですか?」

「ええ」

 先生はまたにっこりした。

「……ですね。わかりやすくいうと」

「価値……ですか」

「礼儀作法やマナーは形だけのものではありません。それを本当にお困りの方に、お伝えしてほしいと願っているのですよ。知ることによって、これほど人生を生きやすくするすべはありませんからね」

 私はその言葉に頷きながらも、この時はまだ半信半疑でいた。

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