五 

 このような味わい深い、もはや感動的とさえ言えるフランス料理を頂いたのはいつぶりだろう。弥生子先生はうふふ……と微笑みながら、ランチは気軽に頂けるメニューがいいのよとおっしゃってる。でも、ていうか、こんな美味しいの私、初めてなんですけど!

 高校生の頃、母の外部授業(ホテルのレストランにて、テーブルマナー講座)に付き添い、フランス料理を食べたことはあるがまずは食材からして全然違う。

 これが、本物の鴨のコンフィか……なるほど。柔らかぁ。

 ああ、それからこれが、テリーヌ。季節野菜のテリーヌね。

 リエット? ん? リエットってなんだっけ。よくわかんないけど、これを薄いパンにのっけて……と。わぁ、美味しいから何でもいいや。


「おいしいでしょう? ここのフレンチ」

 先生はピッと伸びた姿勢で、私に目配せした。姿勢が美しいだけで、五歳は若返って見える。そして、なめらかなナイフとフォークの指使い。

「はい、ものすごく! 特に、この、……コンフィが」

 私は感激でマナーを忘れ、口をモグモグしつつ話していたのだが、気付かぬ素振りで先生は嬉しそうに何度も頷き返した。

「ソースも素晴らしいわよね。ここのシェフがね、フランスのリヨンで修行した方なの。都内のリストランテ・クラキでも働いてた名シェフなのよ」

「リストランテ・クラキ……、あのクラキで? す、すごいですね」

 モグモグ。


わたくし、果耶さんの笑顔を見ることが出来て、本当に嬉しい。あ、そうそう……、このあたり、バスで行ける距離のカルチャースクールがいくつかあります。そこに講師希望を出しておきますので、カリキュラムの作成をご自分でなさってね。今なら無料体験で、秋の講座案内のチラシには載せられるでしょう。生徒さんが集まればいいのだけれど……。お稽古内容は、鏡子さんと同じでなくてもいいのよ。果耶さんらしい、お稽古をすればいいの。頑張って。応援しますからね」

 弥生子先生は薄桃色の頬を染めると、またうふふ……といつもの笑みを見せた。

「……先生、あの、私、……まだ自信がないんです。うまく……というか、お金を貰って、私に出来るかどうか……」

 私は不安を覚え、言い淀んだ。

 もちろん、頭ではわかってる。仕事をしなければ、文字通り生きてはいけない身の上。子猫のようにじゃれて甘えられる家族はいないのだから。

 でも、本当に私に出来るのか。しかも講師、人様に教えるなんてことが。


「果耶さん、あのね。……他のお仕事がしたいなら、私はどんなお仕事でも応援します。ですが、せっかく……えっと、何でしたっけ。あの、そうそう、ス、スキル?が果耶さんにはあるんですから、もったいないわ。私は果耶さんなら、この世界でやっていけると確信していますの。そして私の確信は、結構当たりますのよ」

 先生は小学生の孫に話し掛けるように、優しく言った。それなのに私は、急に重々しい責任に怯える。

「弥生子先生、スキルなんて、私にそんなのありません。私、母の手伝いはしてましたが、……本気ではなくて。私は、ずっと母の裏方でした。でも、性格に合ってると思ってたんです。そういうの、だから。……私はそれでひがんだりは、全くしてなかった。でもいつも母は太陽みたいに輝いていて、時々自分が嫌になる瞬間が、あるんです。それで、そういう時、母を見て、嫌なこと、思ってたんです。礼儀作法って、今はもう……すたれてるって。あの、……ごめんなさい」


 恥ずかしいほどたどたどしく、でも正直に言ってしまった。言わなくてもいいのに。私はバカだ。

 こんなにも親身になってくれる人に、ひどいことを言ってしまった。弥生子先生の人生を否定するようなこと。子供っぽい自分が嫌でたまらない。

 先生は運ばれてきた紅茶にそっと手を伸ばす。金の縁取りの白いカップを静かに見つめると、口を開いた。


「言いたくないことを言わせてしまって、ごめんなさいね。……果耶さん、あなたはまだ礼儀作法の真髄に気付いていないのね。でも、いいこと? 例えば、病気の人が目の前にいたら、お医者さまは迷わず助けるでしょう? では、生き迷う人が目の前にいたら? 果耶さんはどうすると思う。……あのね。私はその方を助けるのは、礼法の習得者だと思うのですよ。礼儀作法とは形だけの堅苦しいものではありません。人生を助けてくれ、生きやすくする魔法でもあるんです。……今の果耶さんは、きっと以前の果耶さんより、そのことを皆様にお伝えする資格があると思いますよ」

 最後の魔法のところで、先生はチャーミングなウインクをしてみせた。優しくて可愛らしくて、いつの間にか周囲をあたたかい空気で包む。先生の得意技だった。


「うふふ。そう言えば、鏡子さん。時々、こんなこと言っていました。……果耶さんは、十六夜いざよいみたいですって。十六夜、わかる?」

 私は頭を巡らす。うーん、全く脳内検索に引っかからない。

「聞いたことある言葉……だと思うんですけど」

 またいつもみたいに優しく微笑むと先生は言った。


   十六夜は わづかに闇の 初め哉 


「……松尾芭蕉の俳句です」

「闇の、初め?」

「ええ、そう。闇とは、新月に向かうということですね。満月が十五夜。十六夜は、新月へ向かってわずかに月が欠け始めること。とは、その時ためらいがちに出てくる月の表現なのですよ」

「ためらいがち……な月?」

 私は言った。

「果耶さんが鏡子さんを太陽みたいっておっしゃるから、思い出してしまいました」

 そういうことか。

 母は太陽、私は月。

 それも十六夜。ためらいがちに昇る、十六日目の月。


「私が内気で、いつも自信がない……からですか。そうですよね」

 弥生子先生はゆっくり頭を振った。

「……控えめで思慮深いのですよ、果耶さんは。鏡子さんはそんな消極的な果耶さんのことが、可愛くてたまらなかったの。そして、鏡子さんはいつでも果耶さんの盾になり護ってきた。華麗に目立ち、意図的に矢面にたって」

「意図的だなんて! 母はもともと華やかなことが好きな性格でした」

 私は抗議するように言った。私のために、わざと矢面にたってただなんて。

 テレビ番組や講演の舞台に立つ母を思い出す。ファンや花束に囲まれ、幸せそうに大きな笑顔で笑う母。そんなことって、母に限って……。母は目立ったり、派手な仕事でお金を稼ぐことが好きだったんだ。

「そうでしょうか。私が知る鏡子さんは、人見知りな部分もかなり持ち合わせていたと思いますよ。自分に正直に恥ずかしがれる果耶さんのことを、ある意味羨ましいと思っていたの。そして、どんなに愛おしかったでしょうね……。ためらいがちに昇る、控えめな月のようなあなたが」

 先生は静かに私を見つめ、母の面影を重ねるように目を細めた。

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