十 

 やっと私が森川洲に会えた時、彼は正真正銘、裸体はだかだった。

 いや、これにはちょっと語弊がある。

 私は基本的に朝シャワーが好き。身も心もスッキリする。篠崎親子はいつも朝が早いし、貴子も八時には家を出て行く。

 なので私はいつも八時半頃にやっとパジャマのままキッチンへ降り、コップ一杯の牛乳を飲み、それから毎朝の日課としてシャワーを浴びていた。

 それなのに、今朝に限って先客がいたのだ。

 洗面所で鉢合わせしたときの衝撃ったら!

 

「うわっ」

「キャーーー!!」

 もう、今日は至上最悪最低の日!

 これは両方の心の叫び。普段のように洗面所のドアを何気なく開けたら、まだ湯気を伴った細マッチョの男が一糸まとわぬ姿のままタオルで髪を拭いていた。

 目が合った瞬間の私たちの驚愕の顔は、到底言葉には言い表せない。農道で宇宙人と遭遇したって、もう少しお上品な対応が出来ただろう。

 私はドアを開けたまま謝りもせず、二階の自室へ駆け上がった。とにかく、まずは心臓を落ち着かせたかった。

 礼儀知らずと思われようとも、この際どーでもいい。初対面の素っ裸の男と愛想笑い出来るほど、私は男慣れしてないし根性も座ってなかった。


 十分ほど固まっていると、部屋にノックの音がした。

「あのぉ、先程は、風呂場で、すみません。……森川洲というものですが」

 恐縮ぎみの声で先程の彼は言った。わざわざ挨拶に来てくれたらしい。私は一度大きく深呼吸すると静かにドアを開ける。

 乾かしたての無造作な短い髪。小麦色に日焼けしているが、ピンク色の頬をした湯上がり肌。二重瞼で黒目がちの瞳には、今時の飄々とした雰囲気の裏に鋭い知性を感じさせるものがあった。もっと南米の猿を想像していた私は、ちょっとがっかりする。


 スポーツブランドのTシャツとハーフパンツを着た洲は、少し照れぎみに私と目を合わさずに話し始めた。

「……さっきは、マジですみませんでした。顧客の家に早朝の草むしりに行ってたら、汗だくになっちゃって。午前中誰かいるって全然思わなかったんで、つい。ていうか、あの、うっかり洗面所の鍵閉めるの忘れてて……。すいません、俺の全裸、忘れて下さい!」

 最後にぺこりと頭を下げた。草むしり? 真っ直ぐな性格を思わせる、誠実な態度が気持ちよかった。


「あの、こちらこそ、確認もせずにすみませんでした。急に、驚かせてしまって……ごめんなさい。えっと、私、貴子の友達で、先日こちらに越してきた小笹果耶といいます。……これから、よろしくお願いします」

 私は言葉のあと、一呼吸おき、そう立礼りつれいをした。

「あ、貴子が言ってたマナーの先生って、君なんだ。へぇ、マジで。……やっべぇ、スゲェ可愛いし。しかも、なんかお辞儀が普通と違う」

「えっ……いえ、そんなことないです」

 私は、瞬きもせず見つめる洲の瞳に思わず恥じてしまう。

 そしてお辞儀に関しては、実はちょっとしたコツがあってそれによって全然見違えるんだよと心の中で思った。

「いやさぁ、マナー講師とかいうから、どんな教育ママみたいな女が来るかと思ってたんだ。そうしたら、こんな可愛らしい子が来てくれて。……ホント良かったわ。貴子の友達ってことは俺と同級生ってこと? マジで。おー、了解っ。これからよろしく!」

 

 いきなりフレンドリーに握手を求められ、なにやらすでに彼のペースに巻き込まれてしまった。人間的吸引力が強いというか、笑顔と社交性が抜群ってタイプの人間だ。

「正直言うと、同じ屋根の下で暮らす人間が堅っ苦しいと生活しづらいじゃん。貴子みたいな女なら気楽なんだけどさ。ほら、あいつほぼ男だから。でもマナーの先生とかって小言や説教されそうだし……」

 マナー講師に関しての偏見がものすごい。私は思わず笑ってしまった。

「人に気まずさや居心地の悪さを感じさせるくらいなら、私もマナーなんて習わない方がいいって思います」

 これは気遣いでも何でもない。私、本心の言葉だ。以前、母も同じようなことを言っていた。礼儀作法をちょっと覚えたからといって、無作法な人を笑うなどとは言語道断だと。


 十九世紀、イギリス・ヴィクトリア女王の有名な逸話がある。

 招待客のある国の貴族がフィンガーボールの使い方を知らず、その水を飲んでしまった。フィンガーボールとは手を使う料理の前に出される、指を洗う水の入った器のこと。その水を飲むなど、無礼というより無知。最悪で恥ずかしい行為だった。

 そしてその時、女王のとった振る舞いとは――

 その貴族と同じく、フィンガーボールの水を飲んだのである。

 もちろん、女王がフィンガーボールの作法を知らないはずがない。それは大切な客人に恥をかかせないための、心ある振る舞いだった。

 最上の尊いマナーだと私は思う。

 マナーを習得した賢人たちには、このような逸話がいくらでもある。私もいつか、見せかけではない心の美しさを持ちたいと願う。

 いつか自分の居場所が出来たら私がいることでみんなが笑顔でいられる、そんなぬくもりにも似た存在になりたいと……。


「あ、ちょっといいすか? ちょうど果耶さんのような女性にぴったりの保険があるんですけどぉ、掛け金も負担が少ないタイプの。よかったら、ぜひ一口いかがですかね?」

 洲はこのタイミングで無邪気な笑顔を浮かべながら、まさかの保険を勧めてきた。

「えー、……保険ですか。えっと、今、他に入ってるのがあるので……」

 さすがトップセールスマンは違うな。油断も隙もないな。

「はい、了解です~。困ったことがあったら、何でも言って下さいね。では、またの機会に!」

 洲は爽やかにそう言って、断りの返事にニコっと笑顔を見せると「よーし♪」とつぶやき自分の部屋へ向かって行った。

 何が「よーし♪」なんだろう。

 私は首をかしげ、とりあえず先程持ち帰った着替えを手に取る。

 そして頭は依然ハテナマークのまま、今度はちゃんとシャワーを浴びるため私は下へと降りていった。

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