十一

 窓の向こう。

 陽光が海面に反射し、キラキラと波打っている。私はずっとそれを見ていられたが、そろそろ時間だ。

 今日は、弥生子先生のお宅でお茶会の日。

 母の友人、八城親子も一緒に。娘の八城美佳は私と同い年だが、ふたりで遊んだという記憶はない。別に悪い人たちではないが、どこかお高くとまっている感じがする。私のことなんか興味ないだろうと思い、わざわざ歩み寄ったこともなかった。もちろん女同士だから、表面上は笑顔でお話するけれども。

「果耶~、運転手さん、来たよ~」

 階段下から貴子が大声で叫ぶ。私は部屋の置き時計を見やった。

 さすが梶原さん、時間ぴったり。お迎えの車の到着だった。



 湘南、鵠沼くげぬま

 実はこの地域、日本でも有数のお金持ちが暮らす土地らしい。地主が多く、目を奪うような豪邸もあちらこちらにある。かく言う弥生子先生の豪邸も、一際目立っていた。まるで森のような木々に覆われた高い鉄柵の門から車は入る。

 ゆるい斜面を行くとそこには四季を感じさせる日本庭園が広がり、老舗高級旅館さながらの日本家屋が佇む。いつ来ても、ため息の出るような情緒溢れるお屋敷だった。


「果耶さーん」

 梶原さんのスマートな物腰で、車のドアを開けてもらう。先に到着していた美佳が声を掛けてきた。

 美佳は、萌黄もえぎ色の絽の着物を着ていた。凹凸おうとつのない痩せ型となで肩に、和装がはまる。毛量豊かな肩までのボブスタイルが定着し、こけしっぽさは相変わらずのようだが良家のお嬢さんらしい品の良さを感じさせた。

 私はシンプルな淡いピンクのワンピースだ。ひとりで着付けが出来ない私は、なぜあの頃母から教わらなかったんだろうとまたも悔やむ瞬間。

「お久しぶりです、果耶さん。お元気そうでよかった。母と心配していました」

 少しだけ弾む息で、おしとやかな微笑みを私に向ける。

 美佳はあっさりした地味な和の風貌に、ぽとりと墨汁を垂らしたような真っ黒い瞳を持っていた。だがその瞳は不思議と覇気がなく、大量生産のこけしの瞳のようにただその位置に付けられたといった感じだった。

 もしかしたら感情が表れにくいところが、お高く見えてしまうのかもしれない。


「美佳さん、お久しぶりです。その節はお世話になりました。母のこと、……私、ちゃんとお礼も言えてなかったと思うの。ごめんなさい」

「そんな、こちらこそ。私、果耶さんに何も出来なくて……」

 社交辞令のようなお決まりの言葉が続く。私たちには共通点も思い出もほとんどなかった。会って五分で気まずくなりそう。そんな時、美佳が意外な言葉を発した。

「あの、果耶さん。もしご都合がよかったら、この会が終わってから……ふたりで、ランチ出来ませんか?」

「え、ふたりで?」


 いや、別に断る理由はないんだけども、二人きりでなんて私たちの距離感からすると意外なお誘いにしか思えない。

「ええ、母は午後から都内のお教室でお稽古なの。実は私、鎌倉のお店で行きたいところがあって。もしよかったら……というか、ぜひご一緒出来ないかと思って」

「あ、はい。予定は特にないから、大丈夫ですけど」

「ああ、よかったぁ。果耶さんに聞いてもらいたい話があるの。ちょっと悩ましいことが起こってしまって……果耶さん、昔から勘がいいものね」

 勘? 美佳は破顔になって、途端に距離が縮まった様子を見せた。

 珍しく瞳にも感情を持たせる。その時、美佳が母親に呼ばれた。私は詳しく聞けないまま、弥生子先生たちのいる茶室へと歩き出した。


 その日はまだ過ごしやすい午前中ということと若いふたりがいるというので、特別にお庭での茶会となった。

 赤い野点傘のだてがさの下、ゆるやかに心が静まる時間。

 夏の庭で床几台しょうぎだいに腰掛け待っていると、私は木々や鳥の息づかいを感じ、自然と一体になる感覚を思い起こす。

 弥生子先生は流れるようなお点前で、私たちに薄茶を点ててくれている。

 目を覚ましたのか遠くで蝉の声がした。湘南の風が夏草や木々の葉、私の頬を撫でる。馴染みの匂い。夏の潮風が、幾度も私にまとわりつき離れていった。

「お先に失礼します……」

 八城晴美が私たちに向けお辞儀をする。

 私たちもそれに合わせ、横顔を向け頭を下げた。


 その日の主菓子は、夏の気配漂う涼しげな川をイメージしたものだった。

 川の流れを象った水色の世界に浮かぶ、黄色い陽射しと白い魚。練り切りで作られた世界はいつも物静かに語りかけてくる。


 ――季節を感じ、この一瞬を大切に。

 四季は移ろい、心は変わる。それが自然というものだから。

 過ぎた過去は煌めいて見えるが、必ず色褪せるもの。未来の扉が開くのは、決まって過去の扉が閉じてから。

 ならば今、この瞬間を、希望を、胸に抱いて生きよ――


「……果耶さん、美佳さん。お茶室のにじり口(出入り口)は、どうしてあんなに小さいかご存じかしら」

 私がぼんやりしていたからか、弥生子先生が微笑みながらお声を掛けてきた。

「えっ、……あ、確か、伺ったこと、あると思うんですけど……忘れちゃいました」

 美佳と顔を見合わす。ふたりで恥ずかしそうに苦笑した。

「あら、美佳まで」

 八城晴美が母親らしい仕草で私たちを見ながら言った。

「……お茶室のにじり口はね、膝をついて頭を下げて、にじって入らなければ通れない。それは、昔の武士たちには刀を置かなければ入れない寸法だったのよ。……茶室に入れば人は皆、謙虚で平等。千利休の教えのひとつです」


 ああ、思い出した。

 千利休の美学。茶の湯の精神だ。

 武士が刀を置くということは、命を預けることと同じ。

 お茶室は現代のカフェなどと違い、哲学さえ感じるおもてなしの精神を極めた創造物だった。

 死が今よりずっと身近だった頃。

 茶室は、生き抜くためのコミュニケーションスペースだったのだ。

 人間関係ひとつ壊れただけで死を意味するかもしれない時代に、客人を尊び、信頼関係を結ぶ空間だった。

 私は改めて緊張感を思い起こした。


「あら、いいのよ。お二人とも、そんな堅くならなくったって。ごめんなさいね。今日は夏を惜しむお茶会ですから。ピクニックだと思って。ねぇ、ほら見て……鏡子さんも蝶々に扮して、遊びに来てくれたのかもしれないわ……」

 弥生子先生はふわりと近づく白い蝶を眺め、眩しそうに穏やかにそう言った。

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