十二

 そのスペイン料理店は、鎌倉駅から線路沿いを二十分ほど歩いた四階建てビルの一階にあるらしい。こぢんまりとした窮屈そうなビルを想像する。

 だが、どの階にもお洒落な飲食店が入っており、若い客で賑わってると美佳は言った。夕方からの営業がメインだが、お得なランチタイムを知るお客も常時めざとくいるそうだ。私たちのように。

 すでに暑さと空腹にやられ目眩を起こしそうな私と違い、八城美佳は和装に関わらず涼しげな顔。慣れた調子で迷路のような狭い路地を楚々そそとした調子で進んでいく。

 麻の日傘をくるりとさせ、「こっちのほうが近道なの」と美佳は無邪気に笑った。

 こんな明るい美佳を見たのはいつぶりだろうか。いつもは母親と一緒のためか、すまして口元にだけ軽く微笑みを浮かべた顔だったから。

 

「果耶さん」

 そのとき突然、美佳が振り向いた。あ、びっくりした。

 一瞬時を止めた美佳は、汗一つかいていなかった。さすがCAさん。たぶん、顔ではなく背中で汗をかく女優タイプの人間だな。

「……ちょっとご相談があるの。お店に着く前に話したいことが」

 美佳は先程の楽しげな顔とは違い、少しだけ憂いをおびた表情をした。

「うん。……どうしたの?」

 私は残暑のせいで、流れる額の汗とにじむお化粧をハンカチで押さえている。どうやら、精神が消耗していた間に体力も落ちてしまったらしい。

「ごめんね、日陰ひかげに入ってもいいかな……」

 意気地なしの私はそう言った。


「これから行くお店のことなんだけど……」

 美佳は言い淀む。長い睫毛を思わせぶりにふせて。

「あのね、……そのお店に、お友達のソムリエがいるの」

「へぇ、ソムリエさんなの? すごいですね。でも私、全然飲めないの……だからお酒に詳しくなくって。ごめんなさい」

 私は口呼吸しながら言った。今度は扇子でパタパタと顔をあおぐ。

「それは大丈夫……私もワインはほとんど飲めないから。果耶さんと一緒でお酒はよくわからないの」

 私自身、お酒が全く飲めないからその方面にとても疎いが、どうやら美佳も大して詳しくなさそうだった。考えを表に出さない表情をして、じっと私を見ている。


「それが、どうかしたの?」

 私は早く冷房の効いた場所へ移動したくて急かしぎみに言う。

「ああ、うん。それでね。そのお店のオーナーが母の知り合いなんですけど……実は最近、お店の中で時々問題が発生してるっていうの。だから、私もソムリエの友達にそのことについて聞いてみたのね。……そうしたら、確かに小さなトラブルが起こっているって。でも被害は少額だから警察には届けていないらしくて。で、私、すごくいいこと思いついちゃったの! あのね、もしよろかったら……。果耶さんと一緒に、トラブルの真相を解明出来ないかと思って」

「え、かいめい? んん……はあ!?」

 その時私は、本当の目眩に襲われた。その原因が暑さのためであって、そんな探偵ごっこに付き合わされるからだとは思いたくない。

「果耶さ~ん、ダメかな?」

 私の目眩を知ってか知らずか、甘えるように近寄り美佳はニコッと清楚な笑みを浮かべた。


 結局私たちはそのスペイン料理店のテーブルに着くまで、軽い押し問答を続けていた。

 なんで私にそんな探偵もどきの真似が出来ると思ったのか。

 美佳曰く、以前合同のマナー研修が都内であったとき、お財布をなくして困っていた生徒の問題を解決してあげたでしょと。

 いやいや、あれは違う。別にその人のお財布を見つけようとして見つけたんじゃなく、個室トイレに落ちていたお財布を拾ってから、誰かさんがお財布をなくしたらしいよという情報を入手したのだ。

 ニワトリと卵というやつだ。どちらが先かという関係。しかもこの際どっちでもいい。

「でもそのお財布を実際に見つけたのは、紛れもなく果耶さんでしょ」と、美佳も一歩も譲らない。きっと、探偵の才能とはそういうものだと。(えー、絶対違うよね?)


 こんなに美佳が強情だとは知らなかった。

 新たな発見に私がため息をついたところで、カフェエプロンが似合う日に焼けた美人さんがオーダーを取りにやってきた。

「果耶さん、今日、ここは私にご馳走させてね。……本日おすすめのスペイン風ランチでもいいですか? スペインの有名な……えっと、お料理が少しずつプレートにのってるものを。あと、食後に珈琲とデザート。デザート付きですよね?」

 美佳がスタッフを見上げて問いかける。


「はい。本日のランチは、スパニッシュオムレツ、ピンチョス、牛肉とトマトの煮込み、パエリアがワンプレートで。……そうです、特に女性に人気があります。あと、そちらにある薄切りパンはおかわり自由ですので。……デザートは、チュロスとチョコレート。お酒のメニューはこちらです」

 無表情の美人は棒読み気味に言った。ほんの少し笑顔を見せるだけで、彼女の人間関係は劇的に変化するのにとちょっと思う。

 まあいいけど。さて、昼夜関係なく私はお酒に縁がない。美佳もほとんど飲まないらしい。ただ甘い物は大好きなふたりなので、そのランチでお願いした。


「あの、すみません。……渋谷しぶやさん、今日いらっしゃいますか」

 美佳がそう尋ねると、なぜか美人スタッフの瞳が一瞬泳いだ。だがすぐに電池は切れる。

「すぐにお呼びします」

 それだけ言ってワインリストを無造作に置くと、調理場の方へ戻っていった。

「渋谷さんが私のお友達なの。ここのソムリエ。……ね、ちょっとだけ、お酒飲んでみない? 私の奢りで……お願い、ダメ?」


 私は大げさに、首を横に振った。本当に全く飲めない。

 以前、飲めないと知らなかった高校生の頃。

 背伸びした友人たちとイタリアンレストランへ行き、クリスマスパーティーだか何かで浮かれてシャンパンを飲んだ。グラスに半分ほどなのに、ひどい頭痛。吐き気。足に力が入らない。

 ひとり、クリスマスのイルミネーションが流れる窓に頭をつけ、タクシーで家へと帰った。


 きっと私にはお酒を分解する酵素が生まれつき備わっていない。常に、人生をしらふで歩んでいく運命に生まれついてる。

 友人たち二人は、結局朝まで帰って来なかった。その後、大学生の彼が出来たと噂で聞いた。そんなことがあって気まずくなった私たちは、それ以来徐々に疎遠になってしまった。誰が悪いわけじゃないけど。でも……。

 思春期を女性ホルモンで言い訳すると、禁じられたドラマティックな物語と痛みに憧れる年頃なのだ。

 今思えば、私もまだ考えが子供だったから、友人たちに取り残されて少し悔しいと思ったのかもしれなかった。

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