九 

「……先、生?」

 私はよほど目を丸くしてたに違いない。

「どう、なさったんですか?」

「あらら、果耶さん。驚かせてごめんなさいね。うふふ。私、先程、お渡しするのを忘れてしまったものがありまして。……嫌ですわね。歳をとりますと、こういうことがよくあるんですの」

 先生は後ろにいる梶原さんからケリーバッグを受け取る。

 その隙に私の前に、真結美堂の責任者と思われる例の白髪の男性がしゃしゃり出てきた。

「あのぉ、川緑先生! 田口でございます。いつもお世話になっております。……ああ、すみません。ただ今、ちょっと立て込んでおりまして、あ、いえいえ、大したことではないのですが……。ところで、本日はどうなさいました? またご贈答の折には、ぜひご贔屓に……」


 なんだろ、嫌な感じ。

 私に対する態度とは百八十度違う態度で、弥生子先生に接している。

 先生はそれを軽く受け流し、口元に微笑みだけ浮かべると、まだ身を固くしている女子高生の側へ素早く近寄り何か話しかけた。

 真結美堂の従業員たちは決まり悪そうに顔を見合わす。そして、仕事へ戻れと言わんばかりに目線で会話をし出した。

 私は床に落ちた学生カバンを拾い上げると、埃を払った。使い込まれたカバンの留め金が壊れていたようで、蓋の部分がパカリと開いた。

 突然彼女は奪い取るようにして、カバンを抱きしめる。そして私を一目見て、何か言おうとしてやめた。別にお礼とかは期待してなかったから、全然いいんだけどね。

 そして、彼女は逃げるように足早に店舗を出て行った。


「……さて、真結美堂さん。先程はわたくしの生徒が何か粗相を致しましたでしょうか。それでしたら、私が全責任を取りたいと存じますが」

 弥生子先生が普段と違い、少し高圧的で距離を置く話し方をした。

「あ、いえいえ、とんでもない。……こちらの方は、先生のところのお弟子さんでございましたか。それは存じませんで、大変失礼を致しました。もちろん知っておりましたら、こんな大事にならずに済みましたものを。こちらのお嬢さんも、お人が悪い……」

 ちょっと、ダメ押しで人のせい!? ペコペコする白髪頭にイラッとする私。

「あの高校生のお嬢さんには、こちらの過ちを私が代表してお詫び申し上げました。これからは将来ある若い方を怖がらせるような真似はおやめになって頂きたいものですね」

 全てを見ていたような様子で先生は静かに言った。


「果耶さん、梶原があなたのことをお家まで送りたいと申しましてね。さぁ、ご一緒に参りましょう」

 先生がそう言うと、梶原さんは懐かしい微笑みで頭を下げる。

わたくしにまで結構なお品を頂き、ほんのお礼のつもりでございます。果耶さま、お元気そうで何よりでございます――」

 何だろう。とてもとても柔らかい気持ちになった。先程のピンと張り詰めた糸がたゆんで、急に恥ずかしくなる。また、子供っぽいお辞儀で返してしまう私。もし母が見ていたら、また叱られそうだと思った。

 その後、音もなく静かに発進する車の中で先生が言った。


「そうそう、忘れてたものをお渡ししなくてはね。これですの。……果耶さんのお名刺です。先程一枚、あの女子高生の方へ勝手にお渡ししてしまいましたけど」

 私はそれを両手で受け取る。

 

  川緑礼法認定

   小笹果耶礼法教室

    講師 小笹果耶


「先生、私……先程、礼法を学んだ人間じゃないような不躾ぶしつけな物言いをしてしまいました。もし、先生のお名前を汚すことになったら……私、本当に、申し訳なくて」

 弥生子先生は隣で前を向いたまま、優しく微笑む。

「果耶さん、……私も以前書物で、身体の計測をしていた礼儀作法の先人の話は存じておりました。それは、自身を知るための行いの一つ。しかし、実際にそれをしていた方がいらっしゃっただなんて……。お見逸みそれ致しました。もしも先程の行為が非難されるものだとしたら、私は礼法、いえ、……神様にがっかり致しますわ」

 私は突然喉の奥がつかえて、物が言えなくなってしまう。

 先生の言葉のあたたかさが、急速に心に染み入った。

 こわばっていた肩が震え出す。先生はすべて承知で、私に助け船を出して下さった。それはとても頑丈で、私にはもったいないほどの大きな船。

 頂いた名刺箱の上に、ぽろりと透明の雫が落ちた。拭っても拭っても溢れる、幸せな涙が私の頬を伝った。


 *


「へぇ。それで、一件落着ってわけ?」

「やだ、そういうんじゃないんだってばー」

 お風呂上がり缶ビールを手に貴子が、本日のハイライトを聞いてくれていた。

「果耶もやるじゃん。いや、一見そんな勇気なさそうだからさぁ。果耶って人一倍、自分に自信のない人間じゃん? でも、そのバンビに似た女の子を助けるために、震えながら啖呵たんかを切ったわけでしょ」

「う、うん。まあね。カバンのサイズも実際微妙だったんだけど、他に思い付かなくて……なんだか、あの子、哀れっていうのかな。捨てられた小動物みたいだった。私、どうしても助けたかったの」

「果耶のいいとこだよね。その正義感、好きだよ。……なんかちょっと洲に似てる」

「あ、洲くんって。そう言えば、まだ会えてない」

 私は噂だけで一度も目にしていない、貴子の幼馴染みを想像する。保険会社の営業さんだっけ。

「あいつ何気に、トップクラスの営業マンだからね。死ぬほど忙しいんじゃない? まあ、そのうち会えるよ。あ、引きの強いやつだから振り回されないように!」

 貴子が空になったビールの缶を逆さに振ると、二本目を取りに冷蔵庫へ向かった。


 プルトップを開ける。

「果耶のおかげで、万引き犯にならずに済んだバンビちゃんに乾杯~♪」

 何にでも乾杯しちゃう貴子。でも、待って。どうして……。

「貴ちゃん、その子、万引きなんか元々してなかったんだよ」

「え、そうなの?」

「うん。だって私、カバンを拾ったとき、すっごく軽くてびっくりしたの。うん……そうだよ。カバンの蓋が開いた時、確かに空だった……おかしいよね、貴ちゃん?」

「何が」

 貴子が眠そうな目とほんのり桃色に染まった頬を私に向ける。

「なんでかな、あのカバン。菓子箱どころか、何も入ってなかったのよ。そう、鉛筆一本さえも。何ひとつ……」

 どうして。

 彼女はひどく嫌がった。

 何も入ってないカバンなのに、どうしてあんなに見せるのを拒んだんだろ。

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