十五

「お待たせしました、小笹果耶さん……」

 屋上のカフェの裏側、濃い影が伸びている。誰もいない錆び付いた手すりから、鎌倉の街並みを眺めていた私は振り返った。

 髪を無造作にかき上げ、黒いシャツの胸元をはだけさせた渋谷はセクシーとしか言いようがない。

「……休憩中のところ、ごめんなさい。ちょっと、お店のことで……伺いたいことがありまして」

 西日に目を細める渋谷。先程と違い、馴れ馴れしい態度で私の身体を値踏みする。薄笑いを浮かべながら。視線を合わせると、男の瞳には下品な光が宿っていた。


「ふ~ん、愛の告白じゃないの? 違うんだ、果耶

 腕を組み、上から目線で渋谷は言った。

 なめきった男。女は誰でも自分に惚れると思ってるの?

 こんな男に一瞬でも好意を抱いた自分にがっかりする。身勝手で危険な男。自信過剰なセクシーを撒き散らして、自分に都合のいい女を誘惑する。

 幸せが人類の目的なら、危険な男を好きになるメリットなんてないよね。女は傷つくだけだ。

 あ、男性側からすれば、子孫繁栄のためにいろんな女を渡り歩けて種を残せるからトータル的にはメリットになるのかな……などとバカなことを考える私。

 沈黙のあと、私はポーカーフェイスを意識しながら「まさか」とだけ小さく言った。


「あっそう。じゃあ、なんなの? 手短に済ませてくれるかな。時間は限られてるんだ、ゆっくり休憩したいんだけど」

 愛の告白じゃないとわかった途端、渋谷は極端に無愛想になった。ちょっと怖い。でも……もう、私だって後には引けない。

「渋谷さん、はっきり言わせて頂きます。渋谷さんがなさったこと……犯罪だって、ご存じですよね?」

 意を決して言った。

 いきなり顔色を変え豹変した渋谷が、私を睨む。私も視線をはずさない。

 犯罪者としては小粒なのだろう。だってレジ金をくすねるようなしょぼい奴に、大胆な犯行は似合わない。苛立ちが顔に出てて、僕がやりました……って言ってるようなものだ。

 大丈夫と自分自身に言い聞かせる。私は間違ってなんかいない。このまま野放しにしてはいけないんだ。こんな奴から美佳を守らなきゃ。


「は? お前、何言ってんの!? 頭おかしいだろ、バカか!」

 渋谷は声を荒げた。最悪。

 こんな男に負けるもんか。私は声の震えを隠すように、さらに大きな声を出した。


「渋谷さん、美佳さんに今後一切手を出さないで下さい! そして、今回の赤ワインの値段ですが、あり得ないですよね? ボトルだけは確かにブルゴーニュ産ピノ・ノワールの高級ワインでしたけど。……あのワインボトルのは別のものだった。そうでしょ? あれはピノ・ノワールの赤ワインじゃない、カシスの香りと強い渋みがしたわ。あの色、香り、味……絶対に違う! 私たちがワインを知らないからってバカにして。ボトルだけ本物で、どうせ中身は安いテーブルワインか何かを入れ替えて出したんでしょ。渋谷さん、……美佳さんに返金して下さい。そうして下さったら、私は何も言いません。あなたは心を入れ替えるなり、この街から出て行くなりすればいいんです!」


 渋谷は手すりに乱暴に腕を伸ばした。凄まじく怒っているのがわかる。こめかみの血管が浮いてる。先程とは別人の鬼気迫った顔で、私に近づいて来た。

「おい、お前。人をバカにするのもいい加減にしろよ! ソムリエのこの俺が? 何をしたって? 証拠でもあんのかよ。言えるもんなら言ってみろ。妙なこと一言でも口にしたら、ぶっ殺してやるからな!」


「あなたは……あなたは、私を殺したりなんて出来ません! ぶっ殺すなんてそんな真似、出来るような柄じゃないでしょ。私、間違ってないですし。渋谷さん、あなたは……ただの、女たらし。安っぽい詐欺師だわ!」


 私がそう言い終わるのと同時に、激しい勢いで渋谷は私の胸ぐらを掴んだ。

「うっ」喉が、息が、苦しい。

「や、め……。やめ、て」

 苦しい。髪を振り乱し、鬼のような形相をした渋谷は理性がぶっ飛んでる。

 くるし、い。本当に殺されるかも……という懸念が一瞬頭をよぎる。ひどく喉を押しつけられてる。

「は、はな、して。おねが、い――」

 なんとか、やっとの声を絞り出した。力がずるずると抜けていく。しかし、喉を突くこぶしの強さは緩まない。……死の恐怖。

 私みたいな小娘に侮辱されプライドを傷つけられた渋谷は、想像をはるかに超える怒りを見せた。狂気に歪む渋谷の顔から、私は目が離せなかった。


 屋上のこの手すりが唯一、天上と下界をまたぐラインなのだ。

 手すりに押さえつけられ、錆びた鉄の粒子が私の背中を汚す。このお出掛け用のワンピースはきっともう駄目になるだろう。こんな状況下で、私の頭に浮かんだ内容はそうしたことだった。

 気が、遠くなり、そう……。

 はやく、美佳……、

 美、佳。わたし、を、みつけて。

 気づい、て。

 もう、もたない、よ。

 ねぇ、真実に――。


「渋谷さん、やめてっ!!」

 その時だった。待ち望んだ美佳の悲鳴にも似た声が、私の遠くなる意識をギリギリで呼び戻した。渋谷が我に返ったように、慌てて私から手を放す。

 美佳だ、来てくれた……。私はその場に崩れ落ち、この世にとどまったあかしのように激しく咳き込んだ。

「果耶さん! 大丈夫!? ひどい……渋谷さん、果耶さんに何をしていたの? どういうことですか?」

 美佳が私を抱きとめると、渋谷に向かって戸惑う声で問うた。


「こ、この女のせいだ。……俺は悪くない。そうだよ、俺は、わるく、ない」

 ずる賢い負け犬は安っぽい笑顔を作りながら、自分に言い聞かせるように美佳に言う。

「この女が、意味不明なことをほざくからだ……。美佳ちゃんは、俺を信じてくれるだろ、な?」

 不都合な場面を見られた居心地悪さからか、卑劣にも美佳に同意を求めようとした。最低な男。


「……渋谷さん、私、わ、わからないわ。……どうして? 果耶さん、お願い。全部、教えて。何が起きていたの?」

 美佳は何を信じていいのか分からないといった表情で、渋谷と私を交互に見た。

「こ、この人は、お店の中で、不正を、行っていたのよ……」 

 私はまだ喉に苦しい違和感を覚えつつ、美佳へ必死になって言った。

「え、不正?」

 戸惑う美佳はいじらしく目の縁を赤くする。その表情が渋谷をイラつかせた。

「ちっ」舌打ちすると意地の悪い顔を覗かせ、私たちを上から見下ろす。そして、ひどい言葉を投げつけた。

 ……しかし、短気がこの男の欠点なのだ。今から崩れていく男を私たちはある意味見ることになる。短気が起こす行く末を、目の前で実証するむなしい男。


「うぜぇんだよ……お前ら。俺が何をしたって? 証拠はあんのかよ。お前らこそ、ここから出て行け。バカ女。……俺は忙しいんだ」

 そう言って背を向ける渋谷に、なすすべもなくうなだれていた美佳が突然声を上げた。そして意外なことにその声はとても冷たかった。

「渋谷さん……。果耶さんにこんな乱暴をして、よくもまあそんなことが言えますよね」

 私はまだフラフラしている。脳に酸素が充分に行き渡るには、もう少し時間が必要と思った矢先だった。

 ん……聞き間違え? いやいや、その声は私が聞いたことのない美佳の怒りの発言。そして、普段おしとやかな女は怒ると本当に怖い。


「渋谷さん、わたくし、あなたを絶対に許しません! 果耶さんをこんな目に遭わせて。私たちを侮辱して」

「それが、どーした?」

 渋谷が肩眉を上げる。

「ねえ、渋谷さん……あなたが今、果耶さんに行った暴力行為の動画を、私が撮ってたって言ったらどうします?」

 えっ?

 別人のように冷淡な美佳が、微笑みながら着物の胸元から黒いスマホを取り出す。

 渋谷の顔色が急変した。

 えっ? ちょ……っと、それどういうこと? いつから美佳は屋上にいたの!? 

「マジか、くそっ。お前! それを寄越せ、早く!」

 急に渋谷が青ざめ、慌ててこちらに歩み寄った。

「待って!」凜とした態度で美佳がそれを制す。


「それ以上、近づかないで。……渋谷さんがその不正とやらを認めて、警察に自首するなら許して差し上げてもいいわ」

「は、警察? 自首? 意味わかんねー。殺すぞお前ら、それこそ一緒に」

 渋谷が美佳の持つ携帯を目掛け、飛び掛かった。美佳の持っていた黒い携帯は、渋谷に奪い取られ足で踏み潰された。

 美佳が撮ってくれた、暴行の証拠が。

「あらまあ、スマホまで……壊して下さって、どうも。えっと詐欺罪、暴行罪。それから……器物、損壊罪が追加でしょうか。よくわかりませんけど」

 破損した携帯を見下ろしながら淡々とした美佳のつぶやきに、渋谷が眉間みけんにシワを寄せる。

 落ち着き払った美佳は、左手にはめていた細いベルトの腕時計を覗いた。そして息を大きく吸うと、カフェの裏口に向かって思い切り大声を上げた。

「オーナー! OKでーす。そろそろ警察、呼んでくださーい!!」



 渋谷はあれからまもなく警察に連行された。

 準備中のカフェの裏で待機していたスペイン料理店のオーナーが私を介抱してくれ、そこでやっと美佳とオーナーが仕掛けたやり取りに気付いたのだ。

 ……だからもう、そういうことは最初に言ってよね。美佳を助けようと、私ひとりで散々な目にあってバカみたいじゃん! 

 本当に死ぬかと思ったんだから。

 ほら、気に入ってたワンピースも汚れてダメになっちゃったし。喉には、押さえつけられていた拳のあとが今も赤い。悔しさと惨めさ、恐怖の後の安堵感でさすがに泣きそうになる。


 でも、泣くのは我慢するけどね。いいの。

 なぜなら私の感情以上のいたわりや優しい言葉を、美佳やオーナー、警察の方々にたっぷり頂いたから。これもきっと武勇伝のひとつとして、いつか笑えるんだろう。たぶん。

 それにしても、先程の格闘における私の損失に改めてうんざりしながら目を細めると――。

 遠くの空。鎌倉を照らす夕焼けが、ご褒美みたいに美しく輝いていた。


 その後、私と美佳も鎌倉警察署に出向いた。

 五十代の気さくな警察のおじさんが、私に質問しながら慎重なタッチでノートパソコンに入力している。

「このパソコン、自分で買ったんだよ。……警察も不景気でね」

 なんだろ。警察ならではの税金ジョーク?で、私の気を和ませようとしてくれている。そして渋谷とのやりとりに関する幾つかの質問の後、最後の忠告だけはパソコン画面から顔を上げ老眼鏡をずらして言った。


「それにしても、本当に危険だったねぇ。屋上から突き落とされたりしたら終わりだよ。君、死んじゃうよ。これからは気をつけてね!」

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