二十

「……ははぁ、そういうことか。それで意味が通じた」

 シルバーの冷酷なフレーム越しに私を見つめると、さおりの傲慢な父親は意外な言葉を返してきた。

「さおり。この前お前が何度もやっていたお辞儀じぎは、このマナー講師と関係があるのか」

 お辞儀?

 さおりは顔色を赤く染めると、語気を弱め言った。

「見てたんですか? 別に、あれは……就職活動のための、練習です。……それより、お願いです。お母さんを呼んで下さい」

 父親は娘を冷たく見下すと言い放った。

「今、家族で誕生日パーティの途中なんだ。さおり、わかってるだろうが、お前の席はない。二時間後に旅行に出発するからその後ここに戻ってこい。それまではどこかに行っていろ。そんな目で見るんじゃない! ……お前の目は本当に前の旦那にそっくりだな。その顔を見るとぞっとする。母親も言ってたぞ、生まなければよかったってな」


 私は目の端で、さおりの身体がぐらつくのを見た。さおりは傷ついていた。でも唇を噛んだだけで必死に立っている。

 この男は一体何なんだ。義理の父親なのかもしれないが、言っていいことと悪いことがある。残酷な言葉を使い平気で娘を傷つけて、心の中で笑っているんだ。

 きっとこれが初めてではないのだろう。虐待という言葉が頭に浮かんだ。父親の違う娘を、家族みんなが除け者にして無視してるのが目に見えるようだった。

 自分に似ていない子供の心を壊す親たち。

 私は彼女の痛みに共鳴する。こんなの絶対に許せない。


「……なんてことを。なんてことを、お嬢さんに言うんですか!」

「うるさい! 他人がうちのことに関わらないでもらえるか」

 怒鳴り返され、私は言葉に詰まる。まあそう言うだろう。私は口をつぐむしかない。でも……。

 私はさおりの顔を見た。さおりに何か言ってもらいたかった。

 いつもはひとりで耐えてたのかもしれないが、今は私がいる。それを分かってもらいたい。私なんかじゃ何の助けにも支えにもならないかもしれないけど、たったひとりでも味方がいるって思ってくれたら。

 その時、さおりが口を開いた。


「……お父さん、お願いします。お母さんに、ちょっとだけでも会わせて下さい」

 さおりが両手を前に揃え、少し前屈みになり言った。

 それを見た父親が嫌みな笑いを浮かべ言う。

「そんなお辞儀じゃ、お願いには聞こえないぞ。さおり、和室でやっていたお辞儀をしながら言いなさい。ここでな。……ほら早く、ひざまずいて!」

 侮辱に値する提案に、さおりは目を見開いた。ここは和室ではない。玄関先で足下はコンクリート。これではれいじゃなく、土下座だ。

「……わかりました」

 沈黙の中、さおりは言った。手は強く握られ、声が震えていた。……あり得ない。

「待って下さい!」

 さおりがコンクリートに膝をつくのを制して、私は言った。


「なんだ。まだ、何か用でも?」

 長身の男が私を見下ろしながら、射るような眼差しを向ける。

「……私はさおりさんのマナー講師です。さおりさんのお辞儀は……まだ練習中、なんです」

「だから? ああ、じゃあ、君がさおりの代わりに、お辞儀で俺に懇願してもらおうか」

 私は返事をしなかった。男を睨んでいた。

「さおり、そこをどけ。ほら、この先生に手本を見せてもらおうじゃないか」

 無慈悲に笑いを堪えるので忙しい男は、確かにそう言った。


 ――私は深く呼吸を整える。

 美しく磨かれたお辞儀には芯があり、ぶれることはない。お辞儀ひとつとっても、鍛錬したものには気が宿る。指先、足先まで気は行き届き、一寸の乱れもなくなる。それがいわゆる霊気オーラとなり、身体を包んだ。

 左足を引き、私は背筋を伸ばしたまま静かに沈んでいった。つま先を立てた跪坐きざという姿勢になる。そして、正座。

 手を膝前につき、目線を地面へ向け言葉を述べた。

「どうか、さおりさんとお母様を会わせて差し上げて下さい」

 言葉の後、私は両手を中央へ流れるように伸ばし、頭から背中まで真っ直ぐの姿勢でゆっくりと身体を下げていった。

 一番丁寧なの座礼だ。

 息を呑む、さおりの感情が一瞬聞こえた気がした。


 私はそこで顔を上げる。

 隣にいるさおりに流し目を向け、声を上げた。

「さおりさん、今すぐ、警察を呼んで下さい!」

「えっ」

 突然の私の声に戸惑うさおり。

「お前、何言ってんだ? 頭でもおかしくなったのか」

 私は改めて跪坐の姿勢から、天へ伸びるようにすらりと垂直に立ち上がった。

 膝の砂を払い、男に視線を合わせる。もうこの男の思い通りにはさせない。今度は私が優位に立つ番だから。

「警察が嫌なら、さおりさんとお母様を会わせて差し上げて下さい」

「なんだ?! 一体どういうつもりで俺にものを言っている? 俺が誰か知らないのか、お前は」

 男が憤慨した。あんたが何者なんか知らない。こんな鬼畜な男のことなんて知りたくもない。

「さあ、全く存じ上げませんが。ですが……常識ある方でしたら、人に土下座をさせることがにあたることをご存じなんじゃありませんか!」


 今の私には激しい怒りしかなかった。

「何!? 強要罪だと。貴様、俺が土下座を強要したと? こんな話、警察が信じるとでも思ってるのか! 誰がお前なんかのことを……馬鹿馬鹿しい!」

「……そうでしょうか。ここで見ていたさおりさんが証言してくれたら、警察も耳を傾けてくれるのではないですか?」

 私はこの時、さおりをゆっくりと見やった。さおりは微動だにせず、俯いたまま。

「さおり。お前、まさか、この女のことを擁護するつもりじゃ……」

 これは賭けだった。私の声がさおりの心情に届かなかったとしても、私は恨まない。

 だけど、お願い。さおりには偽りのない意志で、これから先の未来を自分の手で切り開いてもらいたい。


「……私は、私の……目の前で、起こったことを……信じます」

 彼女は誰とも目を合わせず、途切れ途切れに、でも力強く言った。

 そしてその気迫が伝わったと感じた時、男はモゴモゴと消化不良気味の言葉を発し、さおりを連れて家の中へ入っていった。

 薄闇。いつの間にか、あたりは沈黙の闇に沈もうとしていた。

 私は怒りを静めるため、そして足の震えを抑えるため、その場にうずくまる。喉と胸が苦しかったが涙は出なかった。

 でも、今し方繰り出された激しい感情の震えはなかなか止まってくれなかった。



 シェアハウスに戻っても、今日に限って誰もリビングへ降りて来ない。貴子も洲もいないのか、楽観的な気配が感じられないし。

 鼓歌に会うのは気まずかった。今夜は未亜がいるから、ふたりとも二階から出てこないはずだ。親子水入らずでコミュニケーションを取っている。

 あの日以来、私は鼓歌を避けていた。

 未亜が学校へ行った後なら、いつでも部屋に来ていいと言われてたけれど……。

 私と鼓歌が会えば、きっとセックスしてしまう。今は肉体関係しか、ふたりの間に存在するものはない。彼は私をよろこばす方法を知っていたし、私もどこかでそれを望んでた、でも。

 いずれきっと、私は鼓歌に本気になってしまうだろう。身も心も焦がして、目に見えない傷に苦しむのがわかる。

 だがその時、鼓歌が私を受け入れて、人生を共に歩んでくれるとは到底思えないのだ。なぜなら、彼が正真正銘の芸術家だから。

 そう、彼は自分の才能しか愛せない人間だった。 


 私はマグカップに入ったアイスコーヒーを飲み干す。底にはフランス語で『ファム・ファタール(運命の女)』という文字が表れた。笑える。

 男の人生を変えるほどのミステリアスな女。小悪魔。私には到底なれない女。

 二階へ上がろうと電気を消す前に、鼓歌の作品が載った写真集が目に入った。もちろん無意識だ。彼の研ぎ澄まされた才能に、憧れと尊敬が芽生えつつあった。

 いや、もう完全に鼓歌に染まってる。頭のそこかしこに彼がいる。いくらブレーキを掛けたって手遅れになる恋があることを知り、私は愕然とした。

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