二一
そろそろ寝ようと、パジャマでベッドに横になりファッション雑誌をめくっていた。
突然、物音を気にするような小さいノックの音。こんな時間に誰だろ。私は目覚まし時計で時間を確認し、ドアを少し開いた。
「果耶、起きてた? 夜分にごめんね。貴ちゃんだよー」
「どしたの。今、帰って来たの? 遅かったね」
小声で会話をすると、そそくさと貴子が部屋に入ってきた。貴子はコンビニで買ってきたプリンと自分用と思われる缶ビールを手にしている。準備万端だこと。何か話したいことがあるみたい。
「うん……まあね~。うふふ。十二時半だけどまだ寝ない? 大丈夫? よかった、はい。これ、あげる」
新商品らしい生クリームが上にのったプリンとプラスチックのスプーンを私に手渡すと、自分はラグをひいたローテーブルにちゃっかり陣取った。
「実はさぁ、あのねぇ……」
貴子は満々の笑みで、私をじっと見つめる。
「あ、そのプリン、期間限定でラスイチだったから早く食べてね。うふ……あのね」
貴子ったら、どうしたの。焦らすなぁ。
「実は……ね。今日、イケメン消防士と……飲みに行っちゃった!」
「えっ、イケメン? 消防士? うそ!?」
何のカミングアウトかと思えば、ちょっと待って。初めて会ったイケメン、消防士さんと?
貴子ったら、それで見るからにテンション高いんだ。
「なんで……どうして!? 消防士の知り合いなんて、今までいなかったよね?」
私は喋りながら、ベッドサイドに置いてあったミネラルウォーターのペットボトルを引き寄せる。もう歯を磨いちゃったから、プリンはいいや。明日の朝、頂こう。
「そうだよ。だって今日の午後、出会ったばかりだもん」
すでにほろ酔い気味の貴子はさらに頬を赤らめ、可愛らしく言った。
「職場で火事でもあった?」
そう言うと、貴子が吹き出す。
「そんな訳ないでしょ。普通にお客として、うちの旅行代理店に彼が来たのよ~」
それで普通のお客様とどうやったらその日のうちに、そんな事態になっちゃうのよ。
「なんかさ。消防士仲間八人で福岡へ旅行に行くとかで、彼が手続きに来たの。私が担当になって、一泊二日のツアーを手配して……。往復の航空券と朝食付きビジネスホテルの安いツアーよ。でも、職場の男同士八人で旅行に行くとか仲いいなぁなんて、ほのぼの思ってたの。だから裏に入ったとき、所長にポロッとそう言ったのね。そうしたら、なんと……女だよ。風俗に行くんだよ!って言われちゃってー」
えええっ!?
そういうことなの?
うーん、恋人や既婚者もいる消防士たちってこと? ……それたぶん。
確かに近所の風俗通って、バレちゃったら家庭が面倒なことになりそうだし。しかも可愛い風俗嬢とばったり道で会っちゃったりして、そこから発展してもまずい。でも……だからって九州まで団体でわざわざ行く!?
「ほら。細マッチョな男八人がさ、仲良く揃って梅ヶ枝餅や豚骨ラーメン食べたりの観光旅行です♪って言われても、何かおかしいから納得はいくんだけど……。でもねぇ、それがまさかの風俗だなんて。はぁ、女の想像を軽々と超えてくるわよね、男の
うん、完全にやばいよ。公私混同して仕事中に誘っちゃう貴子の行動力がやばいからね。
「一緒にご飯食べてて、お酒が入ったら何だかムードよくなって。で、彼の車の中でキスしたの……」
さすが、貴子。無駄にだらだらと人生を生きていない。行動あるのみ。失敗しても、後悔はしない人生。
「そう言えば去年、飲み屋街の路地でサッカー選手とキスしてたのって誰だっけ?」
「ああ、亜矢美? しかもキスだけじゃなかったという」
「そうそう、来るもの拒まずよね。あの子」
「うん……知ってる。サッカー選手限定だけどね」
「その彼以外とも、何人かと関係持ってるって有名」
「亜矢美はサッカー選手なら誰でもいいみたい。ステータスって割りきってる。でも、それを自慢げに自分で喋りまくってるのがよくない」
「……噂広めてるのが自分って最悪。あ、そう言えば果耶も、前にパンクバンドのライブでなんかトラブルあったよね?」
「そう言えばって、ちょっと! 全然違うからね、一緒にしないでよぉ」
「ほら、高校の時にさ。一緒に行ったインディーズのパンクバンドのボーカルに、ディスられてたじゃん。あれって何だっけ? ウケるんだけど」
貴子ったら、笑わないでよ。まったくもう。忘れてたのに……。
「違うの、あれはね。ライブ終わった直後に、なぜか急に舞台上から告白されたのよ。で、訳が分かんなくて固まってたら、可愛い顔して生意気だ!って、マイク越しにキレられたの」
「ああ、そうだった、思い出した。ま、あの状況じゃ無視したって思われたんだね、きっと」
「私、固まっちゃったの、それだけ。だって……怖いじゃん」
「そっか。『パンクのライブはセックスまでがライブです』だからでしょ?」
貴子が笑いながら『遠足は家に着くまでが遠足です』を真似て言った。そしてまだ言う。
「『スーパーの買い物は冷蔵庫に入れるまでが買い物です』と同じ」
「同じにしないで。私……まだ処女だったの。アドレナリン全開の男の
「ノリでやってる人もいっぱいいますけど~」
「あのね、貴ちゃん。私は、清楚っていうか……
「は、うぶ? うぶって何~!」
貴子がまた爆笑した。別に笑うことないじゃない。うぶって死語? そもそも、その本来の定義さえよくわかってない。
純粋無垢っていう意味なんだろうか。何も知らない顔した、痛い大人になりたいわけじゃないけど。
だけどもし
この先も経験を重ねることを否定したくないし、知るからこそ浄化出来ることもきっとある。いつまでも初々しく透明な心を持ち続けていたいと願う。
何かに出合ったとき、新世界の朝日を臨む心で捉えたい。
泥沼の足下じゃなく、汚れない意志で満天の星空を見上げる青年のように。生まれて初めて苺を食べ、思わず笑みを浮かべる幼い女の子のように。
話が終わり、しんと静まり返った。
「その……ナオキくんとは付き合わないの?」
改めて貴子に聞く。だってかっこよくて、キスまでする仲なら普通付き合いたくなるものでしょ。
「たぶんだけど、ナオキくんには彼女いると思うんだ」
「そうなの? 確かめた?」
「確かめなくてもわかるよ、女の勘。こっちは盛り上がってんのに着信鳴った途端、スマホ見て焦ってるんだもん……がっかり。ノイローゼ気味の女がいるんじゃないの? 挙動不審になりながら、私を置いてあっという間に帰っちゃったわ」
ちょっぴり寂しそうにそう言うと、貴子はビールを口に含んだ。いい男にはもれなく疑り深い女がついてくる、なんて言って。
「貴ちゃん、洲くんと付き合えば?」
貴子が思わずむせた。鳩が豆鉄砲を食ったよう……ってこんな顔を言うの?というくらい、目の覚めた表情で私を見つめる。
「ない、ない、ない。ていうか、無理無理無理無理」
「そんな否定しなくても。洲くん、カッコイイじゃん。幼馴染みの貴ちゃんのこと、すごく理解してくれてるし」
「ありえないって! 幼馴染みなんて、兄妹みたいなものだよ。マジで考えてみてよ。果耶、身内と恥ずかしいこと出来る?」
冗談なのに半分泣きそうな顔で貴子は言った。それがすごく面白くて、私はその提案に満足した。
「ちゃんと彼氏作ればいいのに」
私が言うと、貴子は視線を落とす。空になった缶ビールを両手で大事そうに持って。
「あと少し。今はまだ無理……もう少しいろんな人を知りたいの。そうしたら婚活して、さっさと優良物件と結婚するわ。だって何も知らなくて、おばさんになってから男に狂ったら怖くない?」
お酒で少し潤んだ瞳を向けた。
「果耶こそ、本当に早く彼氏見つけなさいね。あんたは怖がりのくせに危なっかしいとこあるし、自分に対して弱虫だからちょっと生物学上心配。男の人からしたら、庇護欲がかき立てられていいとは思うんだけど。男と女は基本的に違う生き物だから、果耶みたいな女の子は頼って生きればいいの、ひとりで頑張りすぎないで。ね?」
私の髪を撫で、貴子はお姉さんみたいな口調になって言った。
自分に対して弱虫……。その通りだ。私はどうしても自分に自信が持てなかった。自信の持てる要素は、いつも私の手からすり抜けていく。
人の良いところは幾つも見つけることが出来るのに。人のためなら、身を
でも自分自身のことになると全然ダメなのだ。
コンプレックスを抱える、欠けた孤独な月だった。
貴子のためにドアを開けて見送った後、廊下の向こう鼓歌のいる部屋を見つめた。
今頃、未亜と一緒に眠ってるのかな。明日は名古屋で個展の準備があるからいないと、貴子から聞いた。
結局、貴子に鼓歌との関係は言えなかった。なんて言えばいいのかわからなかったから。
もし私に運命を
だからこそ鼓歌では私は不幸になる。わかってる。
芸術家を愛するには、芸術家以上のメンタルが必要となるのだ。愛に翻弄される覚悟が今の私にはなかった。
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