二二

 朝のシャワーを浴びて、冷蔵庫から昨夜貴子に貰ったプリンを取り出した。今日はこれからゆっくり部屋でプリンを食べたりして、マナー講座のカリキュラムを考えるつもり。オフをのんびり満喫する予定だった。

 それなのに階段を上ってドアノブに手を掛けた瞬間、心臓をぎゅっと掴まれるような激しい違和感に動けなくなる。私の背後で部屋のドアを開ける音がしたから。

 何度も記憶の中で反芻した、低音でうれう声も聞こえた気がする。「果耶」と。

 まさか、そんな。

 会う覚悟がまだ出来てないのに。戸惑う気持ちと一緒に、ゆっくりと私は振り返った。今日はいないって貴子言ってたよね、早朝から名古屋へ行くって。

「鼓歌……さん」


 久しぶりに会う自室のドアにもたれた鼓歌は、白いTシャツと黒のハーフパンツを着ていて、なめらかな筋肉質の長い手足を出していた。そして、顔はまぎれもなく怒っていた。

「ずっと俺のこと、避けてただろ」

 腕を組み、私を睨んだ。私は棒立ちになり、気まずい罪のない罪悪感が襲う。視線を動かすことも出来なかった。

「……今日は、名古屋に行ってる、って」

「ああ、明日に変更した。事務処理も残ってるから。それより、返事は?」

 返事? ああ、避けてたかどうか……。私は何て言おうかと考えたが、いい案は思い浮かばなかった。どうしよう、正解は何。

「避けては、いないけど……なんか、私たちの関係って、よく、わからなくて」

 借り物の言葉を無理やり繋げると、正解みたいに聞こえた。なぜなら、鼓歌がそれを責めることはしなかったから。


「今からの予定は?」

 えっ、今から?

「これからちょっと、用事が……」

 小さな声だったがちゃんと言った。だが、ぶかぶかのTシャツにタオル地のショートパンツで生足を出し、プリンを固く握りしめている私に説得力は全くなかった。

 少しだけ首を傾げて、鼓歌が言う。

「プリンを食べるのが用事なら、こっちの部屋で食べればいい」

 ドアを開き、視線で誘導し私を部屋へ入れようとする。まるで蜘蛛が、獲物を自分の巣へ招き入れるように。

 すでに私にはわかっていた。アトリエに入れば、蜘蛛の糸は私に絡んでほどけなくなるんだ。きっと……。


 相模湾。午前中の海は穏やかだ。

 アトリエから見える窓の景色に、ぼんやりと視線を合わせる。煌めく海面に浮かぶのは白い船。どこに向かっているのだろう。空と海の交わる場所なのだろうか。

 窓の向こうの水平線を指でなぞった。私の恋はどこにも行き着かない、そう思いながら。

「果耶、これも食べていいよ」

 鼓歌がミネラルウォーターのペットボトルと、リボンのかかったお菓子の箱を持ってきた。


「……ゴディバだ」

 私ははにかむ笑顔で言った。甘い物好きっていうのを知って、私のために用意してくれたのかもしれないと思うと急に嬉しくなった。

 高級スイーツや花、そして宝石。大抵の女は、好きな男にそれらをプレゼントされると弱い。プレゼントの向こうにある、幸福な意図を連想してしまうから。

 もう遺伝子学的に誰か調べてほしい。美しいスイーツはとびきりの笑顔、花束は胸のときめき、宝石は永遠の輝きを私たち女性に与えてくれる。

 こんなことで幸せになる自分に呆れるくらい。ほら、理屈でなく私は鼓歌が好き。モノに釣られた訳じゃない、好きな人からのプレゼントだから嬉しいと自明なのだ。


「なんか聞きたいこと、ある?」

 自然な素振りで、部屋の中を歩きながら鼓歌は言った。私は作業台に置いてある大きなボビンレースの台を見つめ、作業中のこのレースが華やかなウェディング雑貨になるのかと思い巡らす。

 そう言えば、貴子が初めてボビンレースの台を見たとき、アフリカの楽器かと思ったと言っていた。マンホールの蓋くらい大きなクッションを半分にしたような台に、幾つものシルク糸を交差させ絡み合わせ緻密なレースを編む。

 気の遠くなるような作業をこなす鼓歌。

 その自由な発想、その強い意志、そして遥かな野望。今の鼓歌の魅力を創っているもの。


 私は鼓歌を見つめる。聞きたいこと、それはひとつだけ。

 ――あなたは私のことが好きですか? 

 この一言がどうしても聞けなくて、私は他のことを口にする。

「……ボビンレース、どうして始めようと思ったんですか」

 鼓歌は目線をそらし、一瞬考えた。

「ああ、そうだな……実は、初めは油絵画家を目指してたんだ。美大に通ってたからね。三年の夏休みにフランスに美術館巡りに行ったんだよ、友達と。そこで、運命の絵に出合ってしまった。……フェルメールの『レースを編む女』。知ってる?」


 私は今まで絵画に大した興味はなかった。でも有名なフェルメールくらいは知っていたし、『レースを編む女』も何となくだが思い出すことが出来た。黄色い服を着た少女が熱心に手仕事をしているアレだよね。

「はい……。何となくですが」

「その絵を観た時の衝撃は今でも忘れられない。……こんな小さな絵なんだ。恐れるに足りないはずの絵なのに俺は魅了され震えた。そして怯えた。わかるか、自分にはとても敵わないと思わされた衝撃だったんだ。自分が今までどれだけ井の中の蛙だったか……まだ若くて、自信過剰な男だ。今と違うか? それがフェルメールの絵によって自分を知り愕然とした。……自分の才能に絶望した。それから絵はきっぱりやめたよ。やめたというか描けなくなった。まわりにもだいぶ説得されたが、無理なものは無理だろ。描けないのが答えだ」


 鼓歌は、瞬きもせずに話を聞いている私を見つめる。そして、また話を続けた。

「日本に戻ってからも抜け殻みたいになって、一年くらい何もせずに過ごしたかな。だけど、その間もあの絵を忘れることが出来なかった。俺にとって、良くも悪くも運命の絵だ」

 ――運命の絵。

 それは、男の人生を狂わせた絵。

 過去を思い出したかのように、鼓歌は冷たい眼差しに怒りを含ませる。

「文字通りぼろぼろになった俺は再起を図るために、もう一度フランスのルーブルへ行ってあの絵を観た。何でもいいから突破口が欲しかった。……そして絵を観てるうちに、あの絵と同じようにレースを編んでみようと思い立ったんだ。何かの啓示かもしれないし、悩み抜いた脳のシナプスの情報伝達が繋がった瞬間だったのかもしれない」

 鼓歌はそう言うと、目を閉じミネラルウォーターを口に含んだ。

 

 「なんで俺を避けてたの?」

 鼓歌が私の前に置かれたパーソナルチェアーに座り、先程の問いをまた尋ねた。この空間ならどんな秘密も罪にならないといった表情で。

「だって……軽いって、思われたら嫌だったから。私たち、別に付き合ってる……訳じゃないし」

 うつむきたどたどしい口調だったが、自制してる気持ちを鼓歌に知ってほしいと思って言った。鼓歌は頭のいい人だから。私の気持ちをんでくれるだろうと。

 沈黙が胸に迫る。

 黙ってると、ソファに座るショートパンツから伸びる自分の脚が急に生々しく思えてきた。こんな日に限ってラフすぎる服に後悔し、露わな太ももに手のひらを置いた。


「……バカだなぁ、果耶は」

 見下ろす視線を感じた私は、顔を上げ鼓歌をきつく見返す。

「なんでですか」

 鼓歌はほっとしたような顔で笑っていた。しかし、私が睨んだとわかったのだろう。すぐに言葉を続ける。

「俺は果耶のことが……好きだ。果耶も俺のことが好きなら何の問題がある? 付き合うという言葉が欲しいなら、それでもいい。そんなものに縛られるのは真っ平だけどね」

 鼓歌が私の隣に移った。

 私の髪に手をやる。彼の付き合うという意味は私と同じなの? これ以上聞けないし、聞くのも怖かった。

 私の頬を両手で近づけると、顔の前で一瞬私の様子を伺い、それから熱い唇を重ねる。それで、私の口がきけなくなるのを知ってるかのように。


 いつの間にか服は脱がされてた。夢中でふたりは求め合い、与え合って私は喘ぐ。身体中の細胞が喜んでいるのがわかった、日に焼けた鼓歌の腕に抱かれて。

 肌の感触も絡み合う想いも全部、私は今、鼓歌のものだ。繰り返される言葉。

「愛してる」

 男と女のセックスは違う。それはわかる、男は今が全て。欲望に忠実で、愛を手に入れるためには信じられないことでもする。そして愛が消えてなくなった時、未練がましく思い出す生き物。

 女は過去も未来も感情も、男を受け入れ身体中で愛しむ。すべてを差し出し、男の女神となる。そしてやがて男のゆめとなり、自分はひとり思い出だけでも生きていける生き物。


 私は気付いた。鼓歌は今、私に愛を伝えるためだけに全身全霊でセックスをしているのだ。彼も私にとめどなく感じている。

 未亜という子供もいて、家庭に幻想など抱いていない。酷く魅力的で、将来を約束出来ない恋多き男。

 だから、愛するには覚悟がいる。

 どうせこの恋をやめるなんて、すでに出来なかった。危険を承知で、それでも踏み込んでしまった私はその代償として強くならなきゃいけない。女は生まれつき強い生き物ではないんだから――。

 そして、今わかった。

 男に愛されて輝き出す女がいる。きっと、それが私なのだ。 

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