二三
強烈な太陽の光を浴びて、月は今、存在を露わにした。
それが私。
太陽になれないのなら、月として生きればいい。誰かの光に照らされ、我が物顔で浮かび上がる女のシルエットが見えた気がした。
もし鼓歌が今、私の魅力に目が離せないとしたら、それは私が影を宿しているからだ。弱さ、未熟さ、儚さ、孤独、それさえ武器になる。それに気付いた私は身震いをした。
鼓歌は私の身体を支配し、服従させようと躍起になっている。
でも、私の心だけは支配出来ない。私は瞼を閉じたまま、やっと微笑んだ。なぜなら、今は彼のほうが私の
鼓歌はごろりと仰向けになった。片腕で目元を隠して苦しそうに荒い息をしている。私は彼の身体に擦り寄り話し掛けた。
「鼓歌さんは……私のどこが好き?」
片思いかもしれないという不安で、あれだけ聞けなかった言葉を口にすることが出来た。
「……うーん、そうだな。ちょっと、まって……今……考えられない」
鼓歌は行為が済んで精魂尽きている。体力だけじゃなく、思考さえも電池切れらしい。
「……果耶、何かおもしろいこと話して? 聞いてるから」
もう。自分が疲れたからって私にだけ一方的に話をさせて、面倒くさいこの場を乗り切ろうって魂胆が見え見えだ。
「おもしろい話なんかないです」
と私は言ったが、胸つながりでひとつ思い出した。数年前に話題になった話だが、これはかなり面白い。
「鼓歌さん、山手線に乗ってるサラリーマンでブラジャーをしてる人たちがいるって知ってます?」
私はにやりと笑いながら言った。
「はあ?」
「なんで?」
一言一言区切って鼓歌が尋ねた。
「なんで……っていうか、いるものはいるんです。ブラ男っていうの。しかも通勤時間帯、電車に乗ってるサラリーマンの中に三割もいるんですって!」
「はあ? 三割って三十パーセントだぞ。多過ぎだろ」
しめしめ、食いついてきた。笑顔の私を見ると、鼓歌は片手を私の身体に絡ませ自分に近づける。そこで私のこめかみにキスをした。
「嘘じゃないと思うけど……三パーセントなのかな? でも、何年か前に下着屋さんの友達から直接聞いたの。三割のサラリーマンがブラジャーをしてるって。メンズブラっていうのもあるんだから」
「……意味がわからないな、都市伝説じゃないのか」
「で? その三割の変態野郎がどうしたって?」
「……変態じゃないの別に。それだけです。多いねっていうお話」
「なんだよ、全く」
ため息交じりに言う。
「でも、三割のサラリーマンが揃いも揃ってブラジャーに執着する変態っていうのは……ちょっと興味深いかもな。多過ぎるし、他の嗜好と重なるほうが自然じゃないか?」
他の嗜好? 鼓歌は三割のブラ男を理論化しようとしている。だって、ブラじゃないとだめなのに。理由は何にでもあるもの。
「変態じゃないってば。ブラじゃないとだめな理由があるの」
「は? それを早く言えよ。で、何でだよ」
ブラ男の話にイラつく鼓歌が
「あのね、……抱きしめられてる感覚があるからって聞いたよ」
「は? なんだよそれ」
きょとんとした顔の鼓歌が先程にもまして可笑しい。ふたりして顔を見合わせて吹き出す。
「だって本当だもん。ストレス社会だから、抱きしめられてる感覚が安心感に繋がるんですって。たぶん、寂しがり屋さんなのかなとも思うんだけど」
「朝っぱらから電車の中に三割も寂しがり屋がいるかよ。だったら一割寂しがり屋で、二割が変態だな」
「一割は認めるんだ?」
私たちは変な一体感に包まれ、笑い合って抱きしめ合った。キスは何度しても飽きなかった。ねぇ、私たち、恋人だよね?
ずっと一緒にいられるという約束が、これからの未来に訪れるのだろうか。
頭をよぎる。鼓歌は野心的で自由な魂と思慮深い精神の持ち主だ、これからもそう。それは自分に対してだけだけど。
二つの顔を持つ男なのだ。表と裏の顔を使い分けてる。未亜に対する優しい父親の顔と、女に対しては自信家で身勝手、支配的でさえあるように。
ただ、どの女性も思ったであろう思いが私を切なく悩ます。私は特別……だよねって。
――ウトウトしていた。鼓歌が呼ぶ声で目を覚ました。
「果耶、もう昼過ぎだ。そろそろ戻ったほうがいい。俺も仕事を片付けたいから」
「あ、……うん」
鼓歌はすでに服を着ていて、透明感のあるよそ行きの顔で私を見下ろしている。
白と紺のボーダーTシャツが眩しいほど爽やかだった。
私の唇の端に軽くキスをする。
「またね」の挨拶のキス。
「……また会える?」
そう言うと、鼓歌は不思議そうな顔をして私を見返した。私が、置いてきぼりにされる飼い犬のような表情でもしてたのだろうか。
「もちろん。……果耶と俺は付き合ってるから。大丈夫」
私が聞きたかった言葉をわざと言ってくれてる。
ずるい。
だから、私も彼を安心させるように笑って言った。
「うん……わかった。大丈夫。気をつけて行ってきてね」
彼が名古屋で別の女と会うかもしれないなんて、今、私が考えたと思う?
まさか。私にそこまでの余裕はない。
彼と私の関係性(肉体以外)がいくら希薄だったとしても、私は一パーセントの可能性があれば賭けたいと今は思う。鼓歌の特別の女になりたいと、本能が狂おしく訴えていたから。
部屋に戻った私はやっとプリンを食べた。すでにぬるくなっている。でも、心に溢れる満足感だけでご機嫌だった。
ただ何となく、
不倫でも血族なわけでもない。秘密の恋の定義には当てはまらないはずだ。
だけど歳が離れていて子供もいて、そして世界的に前途有望なウェディング雑貨デザイナー。
そう考えると、私なんて本気で相手にされてるのか……とまたしても不安になってしまう。ひとりになると、私の気持ちはいつまでたっても堂々巡りだ。
さざ波のように揺れる私の心には、鼓歌には意味のない言葉がどうしても必要だった。『恋人』という二文字が。
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