二四

 夜の十時には夕食の後片付けも終わり、私と貴子、そして珍しく洲がリビングで寛いでいた。

 貴子はすでに缶ビール三本目。洲はまだ一本目だ。

 スポーツメーカーの大きめなTシャツにハーフパンツの貴子と、洲のスタイルがペアルックみたいに被ってる。髪を頭のてっぺんでお団子にしている方の貴子が、「今度生まれ変わったら何になりたい?」の話でひとり盛り上がっていた。


 聴く耳を持たぬ様子の洲が、ポテチに手を伸ばす。

「ったく……くだらねぇ、どうでもいいわ。そんなことよりさ、貴子のお祖母ばあさんどうなの?」

 貴子と一緒だと冷静に見える洲が、真面目な顔になり言った。

 貴子のおばあちゃんがどうかしたの? 派手好きで元気いっぱいのイメージがあるお祖母様。このシェアハウスのオーナーだ。

「……あ、おばあちゃん? うん……まあまあ大変っていうか、慌ただしい」

「え、何のこと?」


 私は身を乗り出した。お祖母様の様子について、何にも聞いたことがなかったのだ。貴子の話と言えば、いつも仕事の愚痴か色とりどりの男関係だけ。そして、なんで洲だけがそれを知っているの?

「うん……果耶、実はね。言ってなかったんだけど……おばあちゃん、一年前から……『物忘れ外来』ってとこに通ってるんだ」

「物忘れ外来って……。え、もしかして」

「……そう、認知症なの」

 貴子は一瞬洲の顔を覗いた。なんていうか、お伺いを立てるように。


「そんな……認知症って言われたの?」

「うん、それはもうとっくに言われてる。しかも、段々と進行していってるみたいで……」

 初耳だった。貴子は今までそんな話全然してなかった。

 貴子の両親は、貴子が中学生の頃に離婚していた。母親の不貞による離婚だったため、貴子は父親側に引き取られた。それ以来シェアハウスで暮らすまで、お祖母様とふたりで暮らしていたのだ。母親代わりといってもいい存在。

 そんな大事なお祖母様の病気を、貴子は誰にも相談出来なかった。

 いや、洲にはしていた。いつもは男として見られないなんて言って、バカにしていた幼馴染みの洲に。


 豪快な貴子の性格からして、同情を買うようなことは絶対にしない。それにしても、少しくらい私を信用して話してくれてもよかったのに。いつも側にいるのに、頼りない友人だったと歯がゆく感じる。

「ごめんね、果耶。なかなか言い出せなかった。果耶もつらい思いいっぱいして、これから頑張っていこうって時に……こんな話すると今度は果耶が心配しちゃうでしょ。私、果耶の性格知ってるから。でも……洲は、果耶には早めに話したほうがいいって言ってたの」


 また貴子は洲の顔を見た。洲は、頼もしいお兄ちゃんのような眼差しで貴子を見返す。

「果耶ちゃんは、貴子の悩みで潰れるようなじゃないよ」

 そう言って、気を紛らわせる。洲は私たちと同い年なのに、不思議と何事にも動じない強さがあった。

 何が彼をそのように培ったのかは知らないが、柔軟なその強さは普段の明るくひょうきんな面では見せていない顔。だけど、いざという時の特効薬みたいに強い安心感を与えている。

「今は脳神経外科の病院に移って、通院してるんだ。合う薬をいろいろ試してみてるとこ。薬が合えば、認知症はだいぶ症状を抑えられるみたいだから」

 貴子は気まずそうに笑った。そんな貴子がたまらなくいじらしかった。


「おばあちゃんの介護とかは……いいの?」

「ああ、うん。考え始めてる。私、今までお休みの日しか実家に寄れなかったから、ここの近くのマンションに引っ越してくると思う。戸塚の実家は場所が不便だからね。とりあえず賃貸で……今探してるとこ」

 賃貸で?

「ここの部屋が空いてたらよかったのに。そうしたら、みんないるから安心だったのにね?」

 そう言うと、貴子は何も知らない私を気の毒がるような表情で言った。


「認知症ってね、今後進行したら大変になるかもしれないの……私たちが考えてる以上に。私は仕事が忙しいし、パパは都内にいて役立たずでダメだから、将来はたぶん……専門の施設とかに移るかもしれない」

 貴子の瞳が真剣味をおびた。ほんの少しの間。

 沈黙がただ続く。不意にテレビを言い訳にして、いつもみたく貴子が笑った。この状況を跡形もなく消したいみたいだと、その時私は思った。

 

「さあ、そろそろ俺、寝るわ」

 洲が立ち上がろうとする。十時半。たぶんまだ寝ないが、仕事中毒の彼はいろいろと明日の事前準備があるのだろう。

「明日はいつも通り遅いの?」 

「ああ。夜はいつものお得意さんの御用聞き」

「何よそれ。保険会社のする仕事? あ、下っ端だから?」

 貴子がいつもの毒舌を再開させ、笑いながら洲を皮肉った。

「わかってねぇなー、貴子は。仕事で一番になろうと思ったら、誰もやってないことをするんだよ。どんな仕事も心を込めれば、そこから広がるものがあるんだ」

 

 洲の言葉に私はハッとする。

 母の言っていた、マザーテレサの名言と同じだ。


『いかにいい仕事をしたかよりも、どれだけ心を込めたかです』


 きっと真実のひとつはそこに潜んでるんだ。出来る人は知ってる、行動している。

 ありふれた日常を彩りのあるものに変える方法が、きっとそこにはあるのかもしれない。


 そうこうしてるうちに、貴子のまぶたが今にも閉じそうになった。

 私と洲は顔を見合わせ、そっと頷く。洲が、自分が貴子の面倒を見ると手振りで私に伝えた。私は水のペットボトルと携帯を持ち、二階へ向かう。

 階段の途中、洲が追いかけてきた。

「果耶ちゃん、ごめん。ちょっとだけいい?」

「え、どうしたの?」

 ん? 何だろう。さっき言えばいいのに。こんな狭い階段で。

「……あのさ、言いづらいんだけど。でも、一応……言っとくわ」

「なに?」

 洲が言葉を溜め見つめた。


「鼓歌くんとの……ことだよ」

 声色をあえて低くして、洲は言った。私は突然のことに、動揺が顔に表れたかもしれない。

「鼓歌……さん?」

「ああ」

 洲が私の表情を読んでいる。そういうことは仕事柄得意なはずだ。私の心情などお見通しなのかもしれない。私が戸惑いを上手に隠せるわけないし。

 それにしても、なんで私たちのこと知ってるの?

 洲は決定的な言葉を私に言わせようとしているのか、まだ黙っていた。ふたりしてそれに耐えきれなくなった頃、洲がやっと口を開く。


「付き合ってるんだろ?」

 わかってることをわざわざ口に出してくれた。付き合ってる? そう……たぶんね。

「……うん。どうして、わかったの?」

 洲の瞳が確信で輝いてた。たぶん勝ったと思っているのだ。何の勝利かはよくわからないが、野心家の男は小さな勝ち負けにもこだわる。

「先月、果耶ちゃんが鼓歌くんの部屋から出て行くところを見た。その時……泣いてるみたいだったから」


 ……そっか、あの日だ。確かに私は泣きはらしたような顔をしていた。同時に頬が熱く、赤面してきたのを感じる。

「洲くん、お願い。そのこと、誰にも言わないでもらえる?」

「ああ、それはもちろん」

「貴子にも?」

 洲はしっかりと頷いた。

「ありがと。……鼓歌さんとは一応お付き合いしてるけど、どうなるかわかんないし」

 洲はなにも言わなかった。間を開けて、言葉を選んでいるようだった。私に掛ける言葉を探している。

「果耶ちゃん、聞くだけ聞いて。俺が言うのもなんだけど、鼓歌くんは……正直、果耶ちゃんを幸せに出来るかわからない。いや、なんていうか、幸せにするのかもしれないけど。それは、かなり……低い確率だよ」


「え……」

 私の声がかすれてた。そんなこと、洲に言われなくたって……私だって鼓歌のことは理解してるし、わかってるつもり。思わず泣きそうになった。

 でもここで涙を見せたくない。そんなの悔しすぎる。

「うん、わかってるよ……それくらい」

 やっと出た言葉だった。それも強がりの。

「うん。じゃあいい。ごめんな……でも、なんか見てられないからさ。鼓歌くん自体は別に嫌いじゃないけど。俺は……女を傷つける男が好きじゃないんだ」

 洲がそこまで言ってくれてよかった。そうじゃなかったら、いくら本当のことでも誤解して悪い印象を受けるところだった。

「ありがとう。……どうなるかわからないけど、洲くんから言われたことは覚えておくね」


「ああ」

 最後は私の目を見なかった。洲は軽やかに階段を降りると、爆睡中と思われる貴子の面倒を見に行った。

 私はそのまま階段を上り、部屋へと入る。そしてベッドへ突っ伏す。

 今はただ、鼓歌に抱きしめて欲しい。だけどそう思うと、鼓歌との儚い繋がりを思い出し不安で気が狂いそうになる。

 でも、ごめんね。洲の心配が入り込む隙間はもうない。私、こんなにも鼓歌のことを好きになっちゃった。……ごめんね。

 そして我を忘れようと、いや、自分を取り戻そうと、声を殺し激しく泣いた。 

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