二五

 一雨降ると季節が深まるように、泣くたび女も強くなる。

 きっと、そのはず……。

 鼓歌は名古屋にいる間、メールはおろか電話にも一度も出なかった。私は彼のSNSで、忙しそうな動向を知るだけ。私の着信にかけ直すことをしないのわかってるのに、携帯の音に敏感になりトイレにまで持ち込んだ。

 鼓歌の恋愛の温度差と私のそれとは違う。年齢の差? いや、個人差だよね? 

 恋愛は決まって好きになったほうが弱いのだ。私はきっと鼓歌を愛しすぎてしまってる。


 昨日も鼓歌が夢に出て来た。

 鼓歌は私に気付かず、人混みの中、誰だか知らない大人の人とずっと喋っていた。笑いながら。

 ねぇ、気付いたら、私に微笑んでくれるの。

 わかってる。どうせ、所詮夢。

 人は目覚めて、そして現実を知る。夢とリアルはパラレルワールドほど違うから。

 手を伸ばして掴めるのは、どっち?

 いつか掴めるようになるのは、どっち? 

 本当に欲しいのは、どっち? 

 ほら、手を伸ばしてみて――その行為で事象に変化が生じて、現実に何かが変わっているかもよ。


 目が覚めても、いつも通り私は独りだった。

 でも、世界は十月になっていた。



 今日はカルチャースクールでの無料体験会。

 早めにスクールへ到着した私に、宮前店長が声をかけてくれた。優しく微笑みながら「今日は頑張りましょう」と。

 受付には菜々美もいて「あとで体験に参加させてもらうね」と言ってくれる。

 とりあえずトイレへ行き、鏡で自分の顔を見た。気合い入れてやらなきゃ。ここからが踏ん張りどころ。

 そう、現実はここだから。私が私として、切り開いていく場所。

 小さな声で鏡の中の自分に言った。

「大丈夫……いつも通りにやれば、ちゃんと出来るはず」

 さあ、願わくば、受講生獲得! 講座開講!


「本日の体験者は、十三名です。お母様とお嬢様の親子が四組もいらっしゃるのが、興味深いですね。女子高生や結婚予定の方もいらっしゃると伺ってますよ。それに関する質問もあるかもしれません」

 店長は名簿を見ながら、私に熱いほうじ茶を出して言った。

「承知しました。……あの、店長、生徒様に差し上げるお茶ですが、今日は私がお出ししてもよろしいですか。緑茶を用意して参りましたので」

 私はバッグから、玉露の入った茶筒を取り出す。

「お湯と急須、人数分の湯呑み茶碗と茶托、それから大きめのお盆をお借りしたいのですが……」


「ええ、すぐにお持ちしますね」

 店長はそう言うと、すばやく受付へ戻って行った。

 そろそろ体験の生徒さんが来始める時間だ。私は静かに深呼吸する。

 今日の日のために新しく購入したツイードのノースリーブ・ワンピースにクリーム色のカーディガンを着た私は、胸元のネックレスに指を伸ばす。

 チェーン部分を鼓歌に貰った黒いリボンに付け替え、ゆるいチョーカーのように見せている。チャームとピアスはお揃いのパール。

 髪はふんわりとウエーブさせ、ハーフアップにした。まさに良家のお嬢様スタイル。とりあえず見た目は……これで問題ないでしょ。


「失礼します! 先生、生徒さんがいらっしゃいました。……入って頂いてよろしいでしょうか」

 突然のスタッフの声に、私の鼓動は高鳴った。うわっ、パニックの症状が出ないといいけど。小さな白い薬はいつも財布に入れている。お医者さんからは、お守りのように持ち歩くといいよと言われた。モンスターペアレントに悩まされている、学校の先生なんかもよくそうしてるって。

 でも、なるべくなら飲みたくなかった。今はまだ時々薬でコントロールしながら、自分の心と向き合っている。だけど、ちゃんと克服したい。電車だって、近距離なら乗れるようになっていた。

 もう一度、深呼吸。……大丈夫。大丈夫。

「はい。お願いします」

 私は立ち上がり扉近くへ移動し、生徒をお出迎えする体勢をとった。


 先程店長が言ったとおり、親子の方たちが入って来た。何組かは、知り合い同士らしい。テーブルに着席してからも目配せしたり、時折談笑したり。

「先生、おひとり少し遅れるそうです……」

 時間間際、店長が私に声をかけ扉を閉める。私は頷き、ホワイトボードの前に立った。

 まずは私の隣で、店長がご参加頂いた生徒さんにご挨拶した。

 それから私について軽く紹介をして下さり、スクールの説明。そして終わる十分前に、この教室について授業料などの説明と受講の有無を尋ねると言った。

 本日、私に与えられた『マナー教室』の体験時間は一時間。

 その中でマナーの魅力をお伝えしなければならない。そうでなければ、受講生など夢のまた夢。もちろん私は職を一つなくしてしまう。


「……皆様、本日はマナー教室の体験会にお越し頂きまして、ありがとうございます。わたくしが講師の、小笹果耶と申します。どうぞ、よろしくお願い致します」

 緊張で堅苦しさを感じつつ、ここでまずはぎょうの立礼をした。

 顔を上げて、生徒さんたちの様子を伺う。

 美しい立礼はマナーの基本。どれくらいの生徒さんが、私のお辞儀に感心を持ったかをここで推し量ることが出来る。

 興味があれば真似してみたいと思うはずだから。私の所作をその瞳に焼き付けようとしても不思議ではない。お辞儀くらいで? そう思ってるあなた!

 特に、そこの男子! 老舗百貨店や大企業の受付、それこそミスなんちゃらと呼ばれる綺麗なお姉さんの立礼に見とれて鼻の下を伸ばした人、……いますよね? 

 イメージ出来ましたか。そうです、美しいお辞儀は人の視線を集めることの出来る優雅な振る舞い。もちろん、それは意識して行うものなのです。


 まさかこんな話を口には出さないが、私は心の中でつぶやいていた。

 ここにいる生徒さんはどうだろう。私が母の振る舞いに魅了されたように、誰か私に何かしら感じてくれてはいないだろうか。

「それでは、これから『マナー講座』の体験会を始めたいと思います。……本日ご参加頂いた皆さんが、マナーや礼儀作法にご興味を持たれたのはどのようなきっかけだったのでしょうか。出来れば後ほど、おひとりずつお聞かせ下さいね。……私がマナーに感心を持ったのは学生の頃でした。それまでも身近で学んでる者がおりましたが、どちらかというと年上の方たちの習い事のような感覚でいました。ですがテレビでクイズ番組があり、それに礼儀作法をお勉強しているという女子高生が出演されていたんです……」

 私は軽く息を吐いて、まわりを見渡す。皆が黙って私に注目している。


「その女子高校生は一言で言えば、と違っていました。もちろん見た目は、街中によくいる可愛らしい女の子です。ですが……一度ひとたび口を開けば、指先を動かせば……彼女は一瞬にしてその番組の観覧者たちを魅了していました。彼女は敬語を自由自在に操り、気品に溢れ、視線ひとつとっても所作が紛れもなく美しかった。……マナーや礼儀作法というものは目に見える、そこにあるものなんです。男性を立派に見せ、女性を美しく見せる完璧な技。そしてそれは、全て相手をおもんぱかる理由に裏打ちされた思いやりの精神でもあります」

 私は不安を気取られぬように話を続ける。


「次に、茶道の千利休という方は皆さんご存じだと思いますが、お相手をもてなすということについて面白い伝説をひとつご紹介したいと思います。……利休と親交のあった、奇人の茶人・丿貫へちかんとのお話です。ある日、利休は丿貫の茶室へ招かれます。定刻に訪れ、茶室へ進もうとした利休は、落とし穴へ落ちてしまいました。その後すぐ、熱いお風呂と新しい着替えを用意された利休は、清々しい気持ちで茶事を楽しむことが出来たそうです。……実はこの落とし穴、丿貫の仕掛けたおもてなしの小道具だったのです。利休の服をわざと汚させ、準備してあったお風呂と衣類を差し出した。……まあ、サービス精神にも程があるとは思いますが、面白いエピソードですよね。そして……この話には後日談がありまして、実は利休は落とし穴の存在を最初から知っていて、わざとそれに落ちたというんです。なぜかと問われると利休は、亭主の心尽くしを無下むげにしてはいけない……そう答えたとのことです」


 数人の生徒さんがうなずいたり、笑顔を見せたりした。

 それでも堅いこの空気感はなかなか崩せない。 

「あの……それでは各テーブルにお配りしてあるプリントをご覧下さい。……講座が始まってからのカリキュラムを記載しています」

 生徒さんらが一斉に同じ動きをして、一枚のプリントを覗き込んだ。そのカリキュラムは、お辞儀から始まり、食事、季節のしきたり、通過儀礼、冠婚葬祭、お手紙、ビジネスマナー……へと続く。

 食事のレッスンひとつ取っても、和洋中、箸使い(嫌い箸)、高級レストラン、懐石料理などと幅広い。それらのマナーを具体的な講話を交えお教えしていく。

 例えば、箸先の汚れは三センチまでだと下品に見えないだとか。懐石料理の煮物・炊合せは、汁まで頂いてもよいだとか。


 それと、今さらお手紙?と思われた方もいるかもしれないが、いくらメール社会になったとは言え、昔ながらの手紙にこだわる人はまだまだ多い。目上の方や重要な人物ほど、心を尽くすという意味においても手書きは大切だったりする。

 拝啓・敬具・かしこ(女性のみ使用・ビジネス文書では柔らかいイメージになるので不可)などと書いてると、堅苦しいと思いますか?

 ですが考えてみて下さい。

 頭語、時候の挨拶、主文、結びの挨拶、結語。

 実はこれだけ知っていれば、きちんとしたお手紙が書けちゃうんですよ。

 そう、フォーマットを知っていれば、それにあてはめるだけで失礼のないお手紙になる。だから、改まった手紙がきてもビビらなくて大丈夫!  誰にだって書ける。

 時候の挨拶なんて、ネット検索すればいくらでも出てくるし、言葉が好きな人は自分で季節に添った綺麗な挨拶文を考えてもいい。

 私はこの方法を知った時、なんてラクなんだろうって思った。真っ白な紙にあてどなく書き綴るよりよっぽど簡単だもの。


 マナーって本当に合理的に出来ている。そうでないものは自然に淘汰され、消えてしまう運命だから。長く残ってる事柄は信じていいと思う。

 教室に入れば、教本にも載っていないような「へぇ~」と思えるウンチクがいろいろ聞けて面白いのだ。

 例えば、個室トイレで時々見かける三角折りのトイレットペーパーは、一般の人がやるのはマナー的には推奨しないなども。だって用が済んだ後、手も洗わずに次の人用にトイレットペーパーを触るってちょっと不潔な気がするから。


 もちろん、本日の無料体験会ではそこまではお教えしない。これは店長に最初言われていたことだった。体験で盛り沢山にやってしまうと、それで満足してしまって受講者が逆に減ってしまうこともある。

 これからいろいろ興味深いことをやりますよ……ここからは有料です♪というのが、体験での目的。

 体験では座学のあと、お茶の出し方を主にお稽古するつもりだ。

 その前に、受講生の方々に簡単に自己紹介をして頂いた。皆さんは名札をつけているので、それを確認しながら顔を覚える。

 私は笑顔を意識して言った。

「今日は体験会ということでお時間も短いですので、早速緑茶の入れ方についてお教えしたいと思います。よろしくお願い致します」

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